2023-03-20 「The News Lens」
アンソニー・トゥ回顧録③
第二の故郷コロラドでの研究生活と退職準備
杜祖健(Anthony T. Tu)
【注目ポイント】
日清戦争(1894~95)の結果、下関条約によって台湾は1945年まで約半世紀の間、大日本帝国の統治下に置かれた。台湾医学の先駆者となった杜聡明氏の三男として生まれ、戦後、米国で世界的な毒性学の権威となり、日本の大事件解決にも協力した杜祖健氏が、留学を機に台湾から移り住んだ米コロラドでの生活や、退職の準備に奔走した日々を振り返る。
第二の故郷コロラド
私は戦後、留学のために台湾から渡米して以来、米国に実に69年間もの長きにわたって居を定めた。その中でもコロラドが私の人生の中では最も長く研究と生活の拠点とした場所で、ここにはトータルで49年間住んだことになる。
いわば私にとって台湾に次ぐ第二の故郷と呼べるコロラドなのだが、そこはロッキー山脈のある所で、全米各州の中でも平均高度の最も高い場所である。
▲コロラドはロッキー山脈のほぼ中央に位置する(杜祖健氏提供)
そのため、南国・台湾とは正反対で、冬季は長く、しかも寒さは非常に厳しい。逆に夏は短いのだが、大陸の真ん中に位置するため、夏の暑さもかなり厳しいところなのだ。
▲コロラドの冬は長く、厳しい寒さが特徴だ(筆者提供)
退職の準備に奔走
さて、米国での退職年齢は65歳が一般的である。
政府が、退職者らのために定期的に金銭を支払う一種の年金制度「ソーシャル・セキュリティー」も65歳からが対象となる。そのため私はその10年前、つまり55歳前後から退職後の生活を念頭に置いて準備を始めた。
私は人生のほとんどを大学のキャンパス内で過ごしたので、大学以外の世界は何も知らないといってもいい。だから将来退職したときに役に立つような仕事を片手間であってもいいので、してみようと決心した。
調べてみるとボランティア活動は案外多いことがわかった。私が教えた学生で、やはりボランティアとして片手間に警察業務をしている人がいたので、彼にどうしたらいいかを尋ねたところ、いろいろと親切に教えてくれた。
彼の説明によるとボランティアでの警察業務は、主に交通整理や夜間のパトロールなどで、このうち後者はパトカーで正規の警察官の隣に座って市街に出て行くこともある。
ただし米国は銃の保持が憲法で規定されている社会なので、だれでもピストルや銃を持つことができるため、警察と犯人との間で撃ちあいになることも珍しくなく、事実それが原因で殉職する警察官も多い。私は単に退職の準備としての経験を持ちたいだけなので、銃撃戦に巻き込まれるのは勘弁してほしいと考え、結局のところボランティア警察官として奉職することはやめることにした。
次に考えが浮かび、検討したのは、大学キャンパス内にある消防団である。ここでもボランティアを受け入れており、特に夜間の活動に関しては消防団員だけが従事することになっていた。
火災はいつ何どき起きるかわからないため、夜中にたたき起こされて火災現場に行くことも間々あることだろう。私は、朝と昼は自分のやるべき研究を抱えている。もし夜中に消防ボランティアで火災現場に出動した場合は、朝はなかなか起きられず、寝ぼけまなこで自分の本分と向き合う羽目になってしまう。これでは不本意だ。
検討対象となった消防のボランティアに関しても、紆余曲折の末、結局はこういう事情から参加を断念せざるを得なかった。
そうして最終的に思い至ったのは、病院でのボランティアであった。
これに関しては、ボランティアを公募する病院を探し、面接を受けに行ったら即座に採用された。
具体的な職務内容は、毎週金曜日の晩6時から9時まで各病室を廻って入院患者らに、「何か読みたい雑誌はないか」と要望を聞いて回ることであった。これは私にとってたいそう都合がよかった。というのも仕事が金曜日の晩ならば、翌日の土曜日は大学の講義がない。つまり研究にさほど影響しない。
最初に雑誌を置いている場所に行って、適当な雑誌を選び、それから各病室を回って、入院患者らにどの雑誌が読みたいかと声をかける。いたって簡単な仕事である。
女性患者の病室は入口ドアが締まっていることが多いのだが、病院側にどうすればいいかと聞くと、「かまわずにドアをノックして入って、希望の雑誌の有無を聞いたらいい」という。
ごくたまに、少し恥ずかしい思いをする瞬間もあった。というのは偶然、かつての教え子に会うことがあったためだ。
もちろん、相手の方こそよほどびっくりして、「杜博士、ここで何をしているのですか」と聞いてくるのだが…
そういう時は正直に「ボランティアとして病院で働かせてもらっている」と返事をした。この仕事には何年か従事したが、仕事があまりにも単調なので、その後病院に対し、「別な仕事をしたい」と申し込んだら、次は救急室に配置された。
私は当初は、張り切ってその新しい仕事に励んだ。仕事内容は、救急患者が到着すると、当人からその病状を聞いて、それをメモして救急医療係の人にわたす。それを見て係の人がどの医師に担当してもらうかを決めるのである。だが、この仕事は私にとってやや難しい作業だとすぐに感じるようになった。
私は化学者なので人体の部位に関する英語の専門用語はさっぱりわからない。とくにご婦人の病気には全くお手上げであった。いや正直に言うとご婦人だけでなく、男性の患者だって大変だった。
ある時男性患者が病院に到着して「痛い、痛い」騒いでいる。
問い質してみてもその病状を把握できずにいたら、業を煮やしたのか彼は自分の股間を指さして「ここ(睾丸)が痛いんだ!」という。さすがにこの時、私にはこの仕事は無理だと、つくづく感じるようになった。
恐らく病院側も私にはこの仕事はできない、と察したようで、1か月ほどで今度は病院の受付の方にまわされた。
ここでの主な仕事は、入院患者への見舞いなどに訪れた外部からの訪問客の応対が主で、お目当ての入院患者がどの病室にいるのかを調べてアナウンスする作業が最も多かった。
アングロサクソン系の名前は問題がなかったが、米国には世界中からいろんな人種が集まってきているので、さまざまな国や地域にルーツを持つ風変わりな発音の名前も、一度だけ聞いて即座にどの患者のことかを判断し、割り出す作業は存外頭を使い、悩むことも間々あった。
しかし私はこの仕事、作業をなんとか克服して結果的に約10年間続けることができた。
結局68歳まで大学に
先に述べた通り、米国では通常退職年齢は65歳である。しかしその10年前から退職後の準備をしているうちに、どういうわけだか大学に限っては退職の年齢の制限がなくなった。その理由について私は詳しくないのだが、とにかく大学の教員だけはいつまでも大学に残っていいということになったことを受けて、私の場合、研究費、助成金が1998年まで続くことになっていたため、結局68歳まで大学に残り、その後、退職したのである。
ところで、日本統治下の台湾で生まれ育った私は日本語が出来るため、日ごろから日本との関係が深い。
日本の教授から、「自分の助手を米国留学させたいので、ポストドクター(博士課程修了の研究者)として採用してくれないか」という頼みを受けることも度々あった。
そのため私は大学側に「生化学教室で続けて研究したい」と申請し、教室主任から「オフイスと実験室を使ってもいい」との許可を得ていた。
だから私は毎年2~3万ドルを寄付してその金で日本からのポスドクを採用して研究を続けた。主な研究用機器はみなほかの人にあげてしまったので私の研究室に主要な機材はなくなってしまった。
あるとき福岡県警所属M君が、日本の警察から私の研究室に送りこまれてきた。どうも当時日本でタンパク毒による殺人が起きたケースあったが、警察はそれを検出できなかったらしい。その対策としてM君が私のところに送られてきたようだ。
彼の研究には特殊な機材が必要である。先述のように私の研究室にはろくな機材が残っていなかったため、彼は日本から必要な機材を持ってきて、研究が終えるとまた日本に持って帰った。
いよいよ退職後の生活
退職した時、私はこの広大な米国の片隅にちょっとした土地を持ってみたいと思った。だが、東海岸や西海岸ならば人口密度も高く、当然地価も高い。
その点コロラドなら、日本の大きさの4分の3弱であるものの人口は200万人ぐらいである。土地も随分と安く、結局私が一番初めに買ったのはこのコロラドの610エーカー(2.47平方キロメートル)土地で、おおよそ22万ドルで購入した。
▲私が初めて買ったコロラドの草原(杜祖健氏提供)
これからお金が少し溜まると土地をチョコチョコと買うようになり、最終的に高度3,000mに森の中に別荘を1軒建てた。
▲森の中に建てた別荘(杜祖健氏提供)
この土地は全体の4分の1が草原で4分の3が森である。
クマに襲われるのが怖いので、森の方にはあまり行かず、ここで滞在中は主に草原の方を楽しんでいた。
しかしそれでも熊に遭遇した時の護身用としてピストルを1丁購入した。米国ではピストルを買うのは簡単で誰でも買える。山の別荘にはあらゆる野生動物の来訪がある。それは主に私たちのいない時が多い。
別荘に取り付けている防犯ビデオカメラから、これらの動物が遊びに来ていることがわかる。(つづく)
▲ 別荘に遊び来る大きなトナカイ。他にもクマ、ピューマ、野生のイヌ、 ネコなどがよく遊びに来るようだ
(2023-03-20 「The News Lens」からの転載)