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C・イーストウッドに会わせてくれた大阪のおっさん  私が出会った「元気人」③

2018-10-10 11:40:10 | 私が出会った「元気人」


私が出会った「元気人」③


C・イーストウッドに会わせてくれた大阪のおっさん


山本徳造(フリー・ジャーナリスト)

 

 

「友達のクリントがよく飲みに来ているジャズ・バーなんや」とロサンゼルス在住5年目の谷岡伸介(仮名)が得意げに言った。「ひょっとしたら、今晩も来るかも知れへんで」

 谷岡とは数日前、ひょんなことから知り合ったばかりだ。御年60歳。スニーカーにジーンズ姿なので、実際の年齢よりもかなり若く見える。詳しくは聞かなかったが、妻子は大阪に置いてきたという。

「えっ、クリントというと……」

「あのクリント・イーストウッドに決まっているやろ。あんたら今晩、一緒に行けへんか?」

「そりゃあ、行きますよ!」」

 と私がすぐにオーケーしたのは言うまでもない。無口なカメラマンの大野雄二(仮名)も珍しく声を上げた。「行きます!」 なんでも、クリント・イーストウッドが監督・製作した『バード』を撮り終えてから、その店によく来ているらしい。『バード』はジャズ・サックス奏者のチャーリー・パーカーの生涯を描いた伝記作品だ。

 大野もそうだろうが、私が子供のころから憧れていたクリント・イーストウッドである。会いたい。ぜひ会いたい。小学生のときにテレビで『ローハイド』が毎週放映されていた。カウボーイたちが牛を目的地まで運ぶ途中、いろんな事件が起きる。牧童がしらがフェイバーさんで、その一番の子分であるロディを演じていたのが若き日のクリントである。背が高くて痩せたロディは少し頼りなく、いつも問題を起こしてばかり。だからフェイバーさんが一層頼もしく見えたものだ。

 

▲『ローハイド』のロディとフェーバーさん(右)


▲マカロニ・ウエスタンで一世を風靡            ▲『ダーティハリー』でマグナムをぶっ放す

 

 そのクリントがイタリアの映画監督から誘われて、マカロニ・ウエスタンの主役になり、ロディとは対照的なクールなガンマンを演じた。そして、アメリカに戻って主演した映画が『ダーティハリー』シリーズである。すぐにマグナムをぶっ放す刑事の役だ。これが世界中でヒットして、クリントは一躍大スターに。が、役者だけでは満足できなかった。

 その後、監督や映画プロデューサーとしても活躍し、政界にも進出する。私が谷岡と会った当時、クリントはカリフォルニア州カーメル市の市長を務めていた。まさに多彩な人物である。私にとっては神様のような存在だ。本当にクリントと会えたらどれだけ嬉しいことか。

 ある月刊誌の取材を終えた夕刻、大野と一緒に待ち合わせ場所に行くと、谷岡がさっそうと現れた。それも見知らぬ若い女性2人と連れ立って。「さっき暇そうにウロウロしとったから誘った」という。東京のОLらしい。よく誘ったものである。このオッサンの行動力には感心するしかない。

 それにしても、どこの馬の骨ともわからない人物、それも初老のオッサンに誘われて、ノコノコとついてくる方もついてくる方である。ジャズ・バーには谷岡が運転するポンコツ車で向かう。小型車だからギュウギュウ詰めだった。今から30年も前のことである。

 ジャズ・バーに着くと、谷岡が勝手知った店のごとく、私たちをカウンター席に座らせた。テーブル席にはカップルが7~8組はいただろうか。ジャズ・バーというだけあって、店にはライブ用の小さなステージがある。「支配人と話してくるから、勝手に飲んどいて」と言って大野が席を外す。

 しばらくして、ステージにスポットライトが当たった。ステージに立った男が「レディース・アンド・ジェントル」と話しはじめる。よーく見ると、なんと谷岡だった。ひとしきり漫談のようなスピーチをぶちかます。あちこちから笑い声が。ヘタな英語だが、度胸は満点である。

 すぐに引っ込むかと思ったら、そうではなかった。今度はおもむろに歌い始めるではないか。下手くそだった。でも、客席からはやんやの喝采が。本人もプロの歌手になったつもりで、客席に手を振っている。戻ってきた谷岡の額からは大粒の汗が。興奮冷めやらぬ様子である。

「びっくりしましたよ。突然、歌い出すから。谷岡さんて、プロの歌手なんですか?」

 もちろん、お世辞である。

「いいや、支配人に頼んで歌わせてもらったんや。ジャズが好きでね。とくにサッチモが」

「ルイ・アームストロングですね」

「うん、そうや」

 そうか、あまりにもヘタすぎて、誰の歌か分からなかったが、さっき彼が歌ってたのはサッチモの歌だったのか。

 しばしジャズの話に花が咲く。谷岡はますます饒舌になり、大野はますます無口になった。ОL二人組はジャズには興味がないようで、カクテルをどんどんおかわりする。そのときだった。店内にちょっとしたざわめきが……。

「あっ、クリントや! クリントが来たんや!」

 私に向かって谷岡が叫ぶ。

 店の入口方向を見ると、恐ろしく背の高い男が客席から声をかけられ、穏やかに挨拶を交わしている。まさしくクリント・イーストウッド、その人だった。この夜、クリントは女友達と一緒である。同伴の女性を自然にエスコートしながら、案内されたテーブルに向かうクリント。身のこなし、歩き方がじつに若々しい。当時、確か58歳ぐらいだったと思うが、まるで30代半ばと言っても通用するだろう。

「谷岡さん、ク、クリントを紹介してくださいよ」

 と私が興奮して谷岡にすがった。

「……」

 なぜか谷岡の反応がない。

「谷岡さん、クリントと友達なんでしょ?」

「うー、ま、そやけど……」

「お願いしますよ」

 私が執拗に迫るので観念したのだろう、谷岡は重い腰を上げ、クリントの座るテーブルに向かった。遠目に見ていると、谷岡がクリントに自己紹介しているように映った。どうも友達ではないらしい。可哀そうなことをしたと反省することしきり。

(あーあ、残念。やっぱり無理か)

 そう落胆していたところ、えーっ、なんと谷岡がクリントと一緒にこちらに向かって歩いてくるではないか。

「やあ」

 とクリントが私に握手を求めてきた。感動の極致である。興奮のあまり挨拶の言葉も出てこない。子供のころから憧れていたクリントが目の前に立っているのだ。信じられなかった。もう手を握り返すのがやっとである。カメラマンの大野に至っては、口をポカーンと開けたまま。完全に放心状態である。いかん、写真を。慌てて大野にクリントの写真を撮るように伝えた。が、クリントが言った。

「すまないが、写真はダメなんだ。でも、特別だ。みんなと記念撮影ならいいよ」

「あ、有難うございます」

「でも1枚だけだよ」

 そんなわけで、谷岡、ОL二人組、そして私が。その後ろにクリントが立った。大野が写真を構える。しかし、カメラを構える大野の手が小刻みに震えているではないか。クリントがふざけて私の頭を触った。

「は、早く撮って!」

 カシャ。不吉な予感がした。シャッターを押すとき、カメラが下に向いていたような気が……。

 クリントと再び握手して店を出た。「大役」を果たした谷岡は、得意満面である。オッサン、有難う。たとえクリントと友達がウソだったとしても、クリントを私たちのカウンターに連れてきた努力はすごいではないか。

 ジャズの本場、アメリカの地で逞しく生活し、そしてジャズという趣味も大切にする。しかも、プロの歌手でもないのに、ジャズ・バーのステージで図々しくもジャズを歌う。まったく大した「元気人」である。

 車に乗り込むとОL二人組の一人が私に尋ねた。

「ねえねえ、さっきの人、誰なの?」

「ん、クリント・イーストウッドだよ」

「知らないわ。どういう人なの?」

 猫に小判とは、このことである。なんて罰当たりなんだ! 私が彼女たちに殺意さえ覚えたのは言うまでもない。

 で、後日談である。カメラマンの大野が東京に帰ってフィルムを現像したところ、あのクリントさまとの記念写真だけ真っ白になっていたとか。プロのカメラマンなのに、まったく。大野にも殺意を抱いたことを告白しておこう。

 さて、その後のクリントだが、1994年に『許されざる者』を監督兼主演で制作し、第65回アカデミー賞監督賞/作品賞を受賞する。2004年には、『ミリオンダラー・ベイビー』で2度目のアカデミー監督賞/作品賞のダブル受賞を果たす。このときのクリントは74歳だった。2年後、『父親たちの星条旗』『硫黄島からの手紙』の2部作を発表。この作品で「日本とアメリカ合衆国との相互理解の促進に寄与」したとして、平成21(2009)年に旭日中綬章を日本政府から授与されている。

 

▲監督としても大成功を収めた                         ▲『許されざる者』でアカデミー賞監督/作品賞を受賞


 

▲『硫黄島からの手紙』が評価されて旭日中綬章       

 

   数日前、クリント・イーストウッドのニュースが入ってきた。彼が監督し、主演を務めた新作スリラー「The Mule(原題)」が、クリスマス・シーズンの12月14日から全米で公開されることが決定したという。

 その映画でクリントは金銭苦にあえぐ孤独な80代の老人アール・ストーンを演じる。車を運転するだけの簡単なアルバイトに就くストーンだが、じつはメキシコの麻薬組織に仕えるドラッグの運び屋だったというストーリーだ。

 クリントは今、88歳である。老いてなお創作意欲を失わないクリントには脱帽するしかない。谷岡伸介には、あれ以来、会っていない。元気な人だった。今頃どうしているのか。生きていれば、もう90歳になっているはずだ。そして谷岡よりも2歳年下のクリント・イーストウッドは、今もなお「元気人」である。


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