【気まま連載】帰ってきたミーハー婆④
気になる年齢
岩崎邦子
「お婆さん、幾つにならんした?」
裏庭で畑仕事をする祖母に近所の人が尋ねる。すると、祖母はいつもこう答えていた。
「はぁ、もうすぐ90じゃ」
私が小学校高学年の頃の祖母は、80歳を少し過ぎたばかりのはずだったが……。どうしてこんな答え方をするのだろうと、不思議に思ったものだ。
祖母は早くに夫(祖父)を亡くしている。私の両親である息子とその嫁は当時、治療の術を施すことも出来きなかった結核に。大戦中と戦後間もなく、立て続けに両親が先立つ。
こうして祖母には5人の孫が残された。兄を筆頭に4人の姉妹である。末っ子の私が5歳で、祖母は60代だっただろうか。
疎開先での村八分から逃れ、元の家に戻ったものの、近くに出来た大きな工場から我が家の住まいの売却を打診されていた。そこからは、排気ガスも出ていた。そんな懸念のある中、長女の姉は結婚したので、祖母、兄と3姉妹が郊外の家に引っ越すことに。
この家で暮らしている間に、次女の姉が日本脳炎に罹り、19歳であっという間に亡くなる。我が家の業病とでも言おうか、三女の姉は肺浸潤、祖母も老人性結核になった。
四女の私は疎開先での麻疹が原因で、目や耳に障害が。でも、幸いにも病気らしいものとは無縁であった。とはいえ、兄や姉妹の中では一番出来(成績)が悪く、幼稚園にも行かずじまい。そんな私だったが、小学校時代に急変する。本の「朗読」や学芸会などで、学年でも目立つ存在になっていたのだ。それなのに、祖母は手放しで褒めなかった。
「あんたの母親は、何事も優秀な人だった、兄ちゃんも姉ちゃんたちもな!」
と。
末っ子である私の勉強の仕方が、明らかに「頑張りがない」ことを、折に触れて指摘したのである。
祖母の老人性結核だが、薬のお陰か、酷くもならずに元気になった。が、すぐ上の姉は中学生時代からぐずぐずとした病状が続いており、学校も休み勝ち。祖母にとっては、何よりも気掛かりで、心を痛めていたに違いない。
そうした事情も理解はしていたつもりだが、何かにつけ私には差別待遇をする祖母だった。ある時、祖母が所有している株や現金の大半が、三女の姉の名義に書き換えられていることを、私は知ってしまう。
なにしろ反抗期だった私である。「一刻も早くこの家を出たい!」「もう、誰の世話にもなりたくない!」と心の中で叫ぶ。何の力もないのに、そんな生意気な考えが渦巻いていた。兄と煩わしい家庭になっている所に嫁いで来てくれた義姉には、心配と気苦労をかけたことだろう。
月日が流れ、私も中年に差し掛かる頃になると、自分の年齢を聞かれることが、妙に引っかかった。書類に実年齢を書かねばならない時なども、もちろん気になったものである。「少しでも若くありたい」が本音となって、誕生日が直前ですぐに年を重ねるのに、「まだ」と、満年齢を書き込むという、あがきも。
気がつけば、私も80歳代である。「もう年齢のことはどうでも良いや。元気でいたい。そう、元気で過ごそう」。そう思う気持ちが強くなった。買物をする時にも、あるいはパークゴルフに出かけても、年齢が近い人たちの動作や歩く姿に、ついつい目が行ってしまう。見習いたい人や反面教師にしたい人など様々だ。
祖母は「もうすぐ90じゃ」と言っていたが、なぜ、そんなことを言っていたのか。「どうしてだったのだろう」と、ふつふつとその場面が蘇って来る。当時の祖母は、苦労ばかり。おまけに、孫のことでも心労が。「まだまだ、苦労は続くのか。もう勘弁してほしい」と、思っていたのかもしれない。
晩年の祖母は、お寺の講話に通ったりしながらも、自分を律して毅然とした生き方をしていた。着物や襦袢の端切れで、仏壇のおりん布団を作ったりして手先を動かすことも。そんな祖母だったが、枯れ木が朽ちるように、自宅で93年の生涯に幕を下ろす。大往生だった。
さて、まだまだコロナ禍の日々が続く。外が大好きな私も、以前より家で過ごす時間が増えている。テレビを見ながら、お気に入りだった布の小切れを寄せ集めて、ポーチ作りに励む。着物や襦袢の端切れで、仏壇用のおりん布団作っていた祖母と同じようなことをしている私。さんざん反抗をして「祖母不幸」をしてきたのに、なぜか今、懐かしく祖母を思い出す。
【岩崎邦子さんのプロフィール】
昭和15(1940)年6月29日、岐阜県大垣市生まれ。県立大垣南高校卒業後、名古屋市でОL生活。2年後、叔父の会社に就職するため上京する。23歳のときに今のご主人と結婚し、1男1女をもうけた。有吉佐和子、田辺聖子、佐藤愛子など女流作家のファン。現在、白井市南山で夫と2人暮らし。白井健康元気村では、パークゴルフの企画・運営を担当。令和元(2018)年春から本ブログにエッセイ「岩崎邦子の『日々悠々』」を毎週水曜日に連載。大好評のうち100回目で終了した。