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医師との関わり、昔と今 【気まま連載】帰ってきたミーハー婆(61)

2022-07-28 05:32:02 | 【気まま連載】帰ってきたミーハー婆

【気まま連載】帰ってきたミーハー婆(61)

医師との関わり、昔と今

岩崎邦子 

 

 

 私が初めて医師に係ったのは、小学校2年生の時に眼科に行ったのが初めてであった。終戦を迎えた5歳の時に麻疹(はしか)に罹ったが、疎開先のことで近くに病院などはなく、仕方がないとも言えるが、自然治癒を待つしかなかった。
 だが、私の目と耳に異常が残った。疎開先から元住んでいた土地に、掘っ立て小屋のような家が建ち、町の生活が出来るようになってからだった。まず眼科で右目の目星(星目と言っていたが)の治療が始まった。

「目星(角膜フリクテン)」とは、角膜の部分に、灰白色をした小さな水泡上の星形の斑点が出来ることを言う。週に一度の通院、眼帯をはめての生活が始まり、肝油を飲むようにとも言われた。苦労して手に入れてくれたらしいが、子供の私には受け付けないものであった。
 長く眼帯をはめての通学が続き、今度は右の耳が聴こえないことが分かった。何回か通院した記憶があるが、改善もせず大人になってしまった。ちなみに、眼の方は眼球に目星の痕跡はあるが、視力に全く影響がないことを、医師が驚いている。
 話はすっかり飛ぶが、「終戦後の思い出があれば?」と、聞かれることがある。以前のエッセーでは我が家の悲惨さばかりを伝えた気がする。終戦を迎えた時、私は5歳だった。両親の結核による病死、祖母や兄・姉たちの苦労・大変さを語る資格は、私にはあまりないのだが。
 あの当時は、大半の家庭が貧しく、衛生面で気を付けることも出来ない有様であった。2年生か3年生の頃、頭髪にシラミが湧いている子供・女の子が大勢いたのである。学校の校庭に順番に並んで、頭に白い粉のディー・ディー・ティー(DDT)を、振り掛けられた。その時の私は、どうにか難を逃れられたのだが、クラスの子たちが、ぼさぼさ髪で白くなった頭の異様な光景が、もの凄く怖かった。
 今思えば、DDTは有機酸素系の殺虫剤である。そんな農薬を頭にかけるなんて。しかも育ち盛りの子供に、である。
 もう一つ、嫌な思い出と言えば、回虫・ギョウ虫検査があった。いわゆる検便である。マッチ箱に便を入れて提出し、その結果が先生から言われたのである。不確かな記憶だが、回虫卵が多く検出された人は、「虫下し」と称する何かの薬を飲むように、と言われていた。
 他人事として、書いているが、貧しくても祖母や姉たちの庇護の下で、姉たちのお下がりの洋服を着たり、靴を履いたりと、身ぎれいにして日々を暮らせていたことは、ありがたいことであった。検査方法は変わったと思うが、小学校でのこうした検査は2015年に廃止になったとか。
 今、ロシア軍のウクライナ侵攻や、世界のあちこちで民族・地域紛争などが起きている。早期に解決されることを願っているが、人々や子供たちへの残酷な後遺症は、長く長く残ることだろう。
 さて、大人になってからの医師との関わりは、自身の出産のときだ。長男を出産した時は、住んでいた市川市の自宅近所で評判の良かった「産婆さん」の世話になった。その人の自宅はとても広くて部屋数も多い。病院というより知り合いのお宅感覚で、台所で作られている総菜の匂いがプンプンする、家庭的なところであった。
 長女は札幌で生まれた。夫の転勤先である。近くの病院であったが、当時、騒がれていたサリドマイド児のことが一番の心配事であった。あの頃は闇雲に、恐怖心を先生に訴えた記憶がある。
 サリドマイドとは、妊婦における睡眠導入剤で、服用した人に、手足の一部が欠損した胎児が、生まれてくることがある、というものだ。服用したし事もない薬のことなので、私には根拠のない気掛かりであったのだが…。
 4歳になった息子が、咳ばかりしていた。医者は「小児喘息」を宣告する。「こんな奇麗な空気の中に暮らしていて、そんな訳がない!」と、私は頭から否定し、その病院に通うのを止めた。息子は元気な、いたずらっ子に育つ。はい、私の判断の方が当たっていたのです。
 夫は、昔はガリガリに痩せていた人だった。私が太っていたので、義父や義母からは、「栄養のあるものを喰わせてやってくれ」などと、言われたものだ。胃がんを疑うほどの体調不良もあって、かなり辛い検査をした夫であったことを、思い出す。
 高齢になってからの、私と病院の先生との関わりになると、どうにも私は生意気な“婆ぁ”のようだ。多少なりとも、顔がマシに見えるように、皮膚科でほくろ(黒子)の除去を思いついた。その医師の顔にも、かなりの数の黒子が顔にあったので、とても言いづらかった。
「あのぉ、ほくろを、取りたいのですが……」
 医者はギロリと私の顔を見て言った。
「あぁ、どうしても、と言うなら、取ってやらんこともないが……」
 えーっ、そんな言い方をする? 
「もう、結構です!」
 そう言い放って、さっさと席を立つ私であった。
 私がその医院には二度と行くことは無かったが、その皮膚科に通う患者は多かったのてせ、おそらく良医なんだろう。
 兄は根っからの医者嫌い。何か兄のプライドを傷つけることを、医者に言われたことでもあったのだろうか。頭も良いし、背も高く顔も良かった兄。前歯が欠けた時にも、一向に歯科医に行くことはなく、優男が台無しの時を、1年以上も続けていたのには呆れてしまった。
 もっとダメ兄だったのは、帯状疱疹が疑われる発疹が、肩や上半身に出た時である。やっと医者へ行った時には、かなりの重症となってしまった。
 この話を聞いていたので、私にも小さな発疹がお腹の周りに出た時は、早々にペインクリニックの医師の元へ行った。
「まだ、はっきりと帯状疱疹とまでは」
 と、診断に迷う医師に向かって言った。
「先生、よ~く診て、よ~く診てください!」
「じゃ、大事を取って薬でも出しておきますか」
 厄介な婆ぁのしつこさには、呆れられたことだろう。でも、お陰で、帯状疱疹は軽くて済んだ。
 5年程前に、左脚全体が痛かったことがある。レントゲンの結果、すべり症であると言われ、良い医師を紹介するからと手術を勧められた。
「手術は嫌です! 何とかなりませんか」
 と、つっぱねたことも。結局、痛み止めの薬を1年程飲み続けながら、パークゴルフに参加し、元気で過ごせることが出来た。
 先日、朝になって、左脚の付けが痛くて、どうにも起き上がれなくなり、夫の手と杖を借りるという大ショック事件。自分でその原因とも思えることがあったので、整形外科の元に行った。
 私には外反母趾があり、親指と人差し指の間にサックをはめて、パークゴルフをした。人差し指にかなりの痛みが出てしまったが、その結果というか、ひずみで腰にも痛みが出たのだと、確信。
 私の素人判断に、若い医師は早々に苛立ちを見せ、苦虫を噛み潰した顔で。
「腰なの? 外反母趾なの?」
 間髪を入れずに私は答えた。
「腰です!」
 どうにか、痛み止めの薬を処方してもらうことになり、1カ月後にレントゲン検査をすることを、確約された。でも、医師は私という患者に相当な嫌悪感を抱いたに違いない。高齢者の素人判断などは、どうにもウザイことだったのだろう。
 ところが、あの激痛は鳴りを潜めた。パークゴルフの予定日には、腰痛ベルトをしてはいたが、プレーを楽しむことが出来たのである。約束日のレントゲン検査の結果、年齢なりの腰の状態が判明、特に問題点もなかった。
 この日の医師は、柔らかい言葉で、患者の辛さや素人考えも辛抱強く聞いてくれた。いい人だったのである。そして無理をせず、日常生活も運動も大いに楽しむことの大切さを、にこやかな顔で進言された。
 私だけでなく大半の人が、年を重ねてくれば、物分かりも悪くなり、扱い難くなるだろう。でも、
これだけは言いたい。優しく対応していただけることで、痛みや病は半減することにもなるのです。

 

 

【岩崎邦子さんのプロフィール】 

昭和15(1940)年6月29日、岐阜県大垣市生まれ。県立大垣南高校卒業後、名古屋市でОL生活。2年後、叔父の会社に就職するため上京する。23歳のときに今のご主人と結婚し、1男1女をもうけた。有吉佐和子、田辺聖子、佐藤愛子など女流作家のファン。現在、白井市南山で夫と2人暮らし。白井健康元気村では、パークゴルフの企画・運営を担当。令和元(2018)年春から本ブログにエッセイ「岩崎邦子の『日々悠々』」を毎週水曜日に連載。大好評のうち100回目で終了した。


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