
【連載】藤原雄介のちょっと寄り道(88)
日台を俳句で結んだ藤原若菜④
3回に亘り、「台湾俳句事情」をお届けした。今回は、「台湾好日」と題した春燈の有志メンバーによる台湾吟行と台北俳句会との交流記を紹介しよう。
台湾への思いと、若菜が尊敬して止まなかった黄霊芝先生への思慕が溢れているのがひしひしと伝わる。
また俳句に関する事柄のみならず、台湾の有名観光地や日本の面影が今なお色濃く残る台湾の日常風景、更には句会のやり方や雰囲気についても綴っている。
このエッセイは春燈会員向けに書かれているので、本ブログ読者に関係のない多くの個人名が出てくるが、気軽に読み進めていただきたい。
台湾好日
—吟行と交流記―
藤原若菜
■『春燈』2011年10月号から転載
四年間暮らした台湾から帰国して十六年になる。 その後二年に一度はふらりと台北に出かけていた。会いたい人たちがいる。身はシートに寛ぎながら、心は飛行機の先を飛んでいく。空港から市内へ向かう車中で安堵感が広がりはじめる。ほとんど里帰り感覚である。その台北へ、編集部の先輩から「行こうよ」とお誘いがあった。そういえば、前回行ってからほぼ三年行けずにいた。台北が呼んでいるのかと思った。
非公式の旅ということで身近な人たちに声をかけ始めたら三・一一の東日本大震災である。旅行どころではないと誰しも思う。中止しよう。そこへ私宛に黄霊芝先生をはじめ台湾からお見舞いの電話や手紙が相次いだ。日本への台湾からの義捐金は百八十億円にも達したという。心配してくださる台湾の皆さんにお礼かたがた元気な顔を見せることも良いかもしれない。
ということで、六月十三日早朝成田空港に集合したのは、鈴木直充編集長以下、木村傘休さん・みどりさんご夫妻、栗原完爾さん、三代川玲子さん、竹内慶子さんと私の計七名。今回の訪台は非公式ながら、このメンバーで単なる観光旅行にするわけにはいかない。 春燈台北支部の方たちとの合同句会をあらかじめ廖運藩さんにお願いしたところ、本来の日時と場所を変更し、「句材を拾う時間が必要でしょう」と三日目の夕刻に会場を手配してくださった。その期待はひとまず置き、一日目はこの旅の二大イベントの一つとなった黄霊芝先生のお宅の表敬訪問である。
黄霊芝先生は、まだ台湾で日本語を使うことがすなわち反政府的危険思想の持ち主とみなされかねなかった時期の一九七〇年に「台北俳句会」を結成され、以来主宰を務められている。二〇〇三年「台湾俳句歳時記」を発刊、正岡子規国際俳句賞受賞、長年にわたる俳句その他日本語文芸の功績により、旭日小綬章受章などの経歴をおもちである。「春燈台北会」と直接の関わりはなく、句会の会員も両方に所属している方もあれば、片方だけの方もある。 ちなみに私は在台時代は「春燈台北会」についてはなにも知らず「台北俳句会」にのみ属していた。それが帰国後にまったくの偶然から「春燈」を知り、春燈誌上に台湾の方々の懐かしいお名前を見つけることとなった。
この旅では当初、 黄先生を訪問するのは私を含めて三名程度と思っていた。 なぜなら先生の体調が以前から芳しくなく、台北俳句会の例会にも長らく出席されていないばかりか、術後の奥様が自宅で静養されていることも知っていたからで、「ご挨拶だけで決して長居はいたしません」と申し上げてはあったが、 ご迷惑なことだろうと思いつつも久しぶりにお目にかかれる誘惑には抗しがたかった。先生からは「では三時ごろいらっしゃい。 暗くなると庭にハブが出るから日のあるうちに帰れるように」とのファックスをいただいていた。ところが。パックツアーの悲しさで、空港からホテルまで送られる間に強制的に土産物店へ拉致されるという。予定があるので省略してもらえないかと頼んでみたが、それがあればこそのパックツアーだから無理です、とつれなく断られてしまった。これでは先生のお宅に三時には行けそうもない。更に、私たちが訪問している間は近辺を観光していてもらおうと思っていたメンバーから「黄霊芝先生には全員が会いたい」との声が出る。それも無理からぬ話である。出発の二日前に私は恐縮の塊になって先生に事情をファックスした。折り返し届いた先生からの返事は次のようなものだった。
「拙宅訪問、七人様に増えました由、嬉しく存じます。より多く天下の美男美女にお会いできますことは望外の喜びです。当夜はゆるりと私めの人質に取られて下さい。お出での時間もご自由で結構です」只々有難く、口元が綻びつつも胸が熱くなった。
そんなこんなで黄先生のお宅には四時頃到着した。陽明山の山懐にあるお宅は門を潜ってから急な石段を上がる。私たちの到着の気配に先生が杖を突いて玄関まで出てきてくださった。マンゴーや中まで真紅の火龍果(ドラゴンフルーツ)などでもてなされる広い応接間はちょっとした博物館ほどの珍品名品が並んでいる。黄先生が造詣の深い台湾の骨董、民俗学・考古学関係の品々の他に、ご自身の彫刻作品も数点あった。朝倉文夫の高弟だった蒲添生から指導を受け巴黎(パリ)国際青年芸術展や台湾の美術展などで受賞された作品である。
私以外は初対面であるにも拘らず、私などそっちのけで話は弾む。博識の先生だが、ひとの話にもよく耳を傾けてくださる合間に、台湾での大学における俳句の授業のこと、先生が感じられる日本の俳句界の不思議、はたまた毒蛇談、執筆に取り掛かるときには蚊帳を吊って中に籠る集中法、等々。また、加藤山椒魚さんのことも覚えていらっしゃった。山椒魚さんは台北の春燈グループをまとめるに当たり、黄先生にきちんと話を通され、先生は「どうぞ是非」と勧められたそうだ。
あれこれと興味深い話をうかがう視界の端で水槽の中の大きな鯰が時折ぬらりと身を翻す。幸せな時間ほど過ぎるのが早いのはなぜだろう。尽きない名残に区切りをつけておいとまする。ハブが顔を出すには南国の空はまだ明るくお庭にマグノリアが香り高い。仙桃や大谷渡、山大人などの珍しい植栽にまだまだ興味津々ながら石段を下りてゆく。途中でふと見上げると黄先生が私たちを見送ってくださっている。皆何度も振り返り手を振りながら道に出たときは仙界から戻ったような気分だった。
▲台北句会創立者の黄霊芝先生宅の応接間。自作の彫刻や台湾の神像などがずらりと並ぶ不思議な空間。訪問者一同、博覧強記の黄先生と話が弾む。前列左が黄霊芝先生 右が若菜 後列左より竹内慶子、木村傘休、栗原完爾、鈴木直充、木村みどり
翌日、木村傘休さん・みどりさんご夫妻は北投温泉へ向かわれた。北投温泉は、世界でも希少といわれるラジウム泉。先年大病された木村傘休さんにはもってこいの地である。
残り五名は九份へ。戦前東洋一の金鉱として栄え、現在はノスタルジックな街並の観光地だ。ベネチア映画祭で金獅子賞を獲得した「悲情城市」の舞台であり、宮崎駿の「千と千尋の神隠し」のモデルにもなっている。途中金鉱跡へ行くのにタクシーニ台に分乗しようとしたら運転手がちょっと考えて、一台に全員乗れという。後部座席に四人掛けるのは勿論きついが運転手の親切心とともに、日本でありえない台湾ならではのエピソードだ。
もうひとり印象に残ったひとがいた。九份へのバスの中、目的に近づくころ車内はかなり混み合ってくる。そこへ乗り込んできた現地のおじいちゃんに女学生が席を譲った。あきらかに日本人ではない地元の女学生だ。と、その老人は「ありがと、ありがと、謝謝」と言ったのである。混雑した揺れる車内で咄嗟に出る言葉が日本語の、その人の来し方がその一瞬に垣間見えたようで目の奥が仄痛くなった。
▲台北から南下した郊外の九份の旧金鉱山跡、鉱山全体が博物館になっている。坑道はひんやり涼しい
三日目は全員で市内観光。定番の中正紀念堂 、龍山寺などへ行く前に二二八和平公園を加える。公園内には第七代総督明石元二郎の墓があるとガイドブックに載っていた。この人は台湾の電力事業に尽力し、その時作られたのが、今日観光名所となっている日月潭という人造湖である。 生憎就任一年ほどで熱病に倒れ福岡で亡くなってしまったが、「余は死して護国の鬼となり台民の鎮護たらざるべからず」の遺言により遺骨は台湾に埋葬された。その墓前にお参りしようと探せども見当たらない。あとで紀念館のガイドさんに訊ねたところ、現在は淡水の地に移されたとのこと。残念。
この公園内にある二二八紀念館は文字通り、一九四七年の二二八事件を記念して一九九五年に設立された。台湾の現代史を知るには欠かせない所だが、一般の観光客はまず訪れない。二二八事件とは、台湾を支配して間もない蒋介石・國民党政府の抑圧的政策や腐敗に対して起こされた抗議行動が発端になり、多くの台湾人が國民党政府軍に殺された事件で、その数は一か月で二万八千人に及んだともいわれる。紀念館には、日本統治下、台湾人でありながら日本国籍を与えられていた"元日本人"のボランティアガイドさんが常駐され、その時々で人が替わっても、どなたからも四十年間タブーだった史実を語り継ぎたいという熱い思いがつたわってくる。が、みなさんご高齢だ。次世代はどうなるだろう。
すぐ傍にある中正紀念堂は、 蒋介石が自身の権力を誇示するために建てさせた白亜の殿堂である。 大理石の白壁と碧い瓦が日を返し壮麗だが、 二二八紀念館を訪れた後は誰とはなく、「外からちょっと見るだけでいいね」ということになった。
▲故宮博物館にて
龍山寺は台湾で最古の寺廟で、本尊は観世音菩薩、その他合計十九の神仏が鎮座し、多勢の善男善女が参拝している。その入り口に、集まった東日本大震災への義捐金に対する龍山寺の感謝の文章が掲示されていた。思わず手を合わせ深々と礼をする。
▲台北の龍山寺。ご本尊の観世音菩薩のほか19体の神仏が在す霊験あらたかな寺。アイ湾全土から篤い信仰を集める
さて、いよいよ台北春燈支部の皆さんとの合同句会だ。廖運藩さんと黄葉さんだけは私と旧知であるが、その他の方々は当然初対面同士。 まずは双方の紹介を、と思う間もなく「日台交互に座りましょう」と言われ、大きな円卓に着席した。どちらも七名ずつの十四名。両側の方との自己紹介もそこそこに句会が始まる。卓上のお盆の上に一人五句、四つに折った短冊を入れ、サラダを混ぜる要領でわさわさと混ぜ、そこから各自短冊を五枚取り出す。清記、選句。披講は廖運藩さんがされた。次々と名告りを聞いているうちにお顔とお名前が一致してくる。時には笑いも混じ和やかな句会だ。
世を叱る老の毒舌蟇がえる 廖 運藩
聖典をめくる好日紙魚走る 呉 文宗
敦忌や推敲著き古ノート 黄 葉
蜜豆や下戸も持病も母ゆづり 呂 秀文
手枕のしびれに覚めし三尺寝 陳 妹蓉
驟雨避ける軒端や花菖蒲 呉 佳君
茹で上がる筍と乙女な私 凃 世俊
榕樹の根自縄自縛の溽暑かな 鈴木 直充
湯中注意報発令の蝉時雨かな 木村 傘休
風死して海へ落ちゆく坂の町 栗原 完爾
射干や金鉱トロッコ坂がかり 三代川玲子
豆乳のストローふたつ夏の朝 竹内 慶子
いつまでも老師手を振る夏木立 木村みどり
蓬莱の墓地のあかるし青葉風 藤原 若菜
句会の後の会食に入り座はますます打ち解け賑やかになる。廖運藩さん、呉文宗さんは最近では本年の春燈誌四月号にエッセイを寄せてくださっている。風貌は古き良き時代の日本紳士というと叱られるだろうか。黄葉さんとともに台湾の大学における俳句教育の指導もされている。黄葉さんは亡き加藤山椒魚さんの版画を数点お持ちになり皆に見せてくださった。流石に職業デザイナーであった方の作品と一目でわかる繊細な版画だった。黄葉さんが鈴木直充編集長にプロレスラーの三沢光晴について熱く語っておいでの傍で陳姝蓉さんは静かに微笑みながら耳を傾けていらっしゃる。黄葉さん・陳姝蓉さん・呂秀文さんはお三方ともご主人を亡くされたが、お元気で独身生活を満喫しつつ句作に励まれている。呂秀文さんは甲斐甲斐しく廖さん・呉さん両氏の補佐役を務められながら、お若い凃世俊さんのお手伝いがとても嬉しいご様子だった。凃世俊さんとともに、これからの台湾俳句を牽引していっていただける存在なのが、呉佳君さんだ。まだ五十代に入られたばかり、夫君共々医師でいらっしゃるそうだ。 尚、掲載句からは判りづらいが、凃世俊さんは銀行勤務の四十代の男性で台北川柳会にも所属、春燈誌の購読もされているのだが投句する自信はまだないとのことで、当然皆で発破をかける。
▲俳句会を終えて記念写真。前列左より黄葉、鈴木直充、木村傘休、廖運藩、栗原完爾、凃世俊。後列左より竹内慶子、陳姝蓉、藤原若菜、呉文宗、三代川玲子、木村みどり、呂秀文、呉佳君
▲句会の後の会食。句会の余韻に浸りながら話が弾む
▲左から木村傘休、廖運藩、木村みどり
▲呉文宗(右)
▲「ほら、これ見て」。左から呉佳君、三代川玲子、呂秀文
▲左から凃世俊、廖運藩、藤原若菜、黄葉、呉佳君、栗原完爾
会食の時に聞いた、台湾の某高齢者が中国語はもとより家族間で話していた台湾語すら話せなくなってしまったという話がある。息子さんは大いに困ったけれど、幸いなことにお嫁さんが日本人だったので助かったそうだ。九份へのバスの中で見かけた老人が思い出された。元日本人の身ぬち(筆者注:身の内)、その芯に残された日本語について改めて思う。
今回の訪台はナビゲーター役の私が不慣れなこともあり、とりあえず少人数での非公式な旅となった。拙文を読んで下さった方が台湾の皆さんに親しみをもたれ、或いは台湾を訪れたいと思っていただけたなら筆者としては幸甚と言うほかなく、改めて公式に訪問する機会があればこれにまさる喜びである。
東日本大震災に寄せられた台湾の方々のご厚意、ご支援に改めて心より感謝申し上げ、台北の好き日と佳き縁の報告を了えさせていただく。
[写真/栗原完爾・木村傘休]
【本ブログ編集人から】この旅行記をまとめた写真集『台湾好日』からも何点かお借りして掲載しました。なお、漢字にルビがふられた部分は、すべて()内に記載しました。
お気楽な旅行記の体裁ではあるが、台湾史を語る上で避けて通れない二二八事件にも触れる。子供の頃、蒋介石の「仇に報いるに徳を以てせよ」という言葉を何度も聞かされた記憶があるが、これとは裏腹に多くの台湾人(本省人)から、蒋介石への憎悪に近い感情を聞かされたものだ。
「狗(日本人)が去り、豚(國民党)が来た」というフレーズをご存じの方も多いだろう。蒋介石は、二二八事件を惹起した國民党指導者の指導者であり、本省人に対して圧政を敷いた張本である。
吟行のメンバーは、二二八紀念館に脚を運ぶが、痛ましく悲惨な歴史を覗き見た後、観光客に人気の中正紀念堂を訪れる気をなくしたようだ。
台湾に骨を埋めた第七代台湾総督の明石元二郎、親子三代が高砂族と呼ばれた先住民の言語、福建語(閩南語)、日本語、普通話(北京語)と異なる言語によって分断された家族の悲劇についても語っているので、台湾をあまり知らない人には、いい参考になるだろう。(つづく)
【藤原雄介(ふじわら ゆうすけ)さんのプロフィール】
昭和27(1952)年、大阪生まれ。大阪府立春日丘高校から京都外国語大学外国語学部イスパニア語学科に入学する。大学時代は探検部に所属するが、1年間休学してシベリア鉄道で渡欧。スペインのマドリード・コンプルテンセ大学で学びながら、休み中にバックパッカーとして欧州各国やモロッコ等をヒッチハイクする。大学卒業後の昭和51(1976)年、石川島播磨重工業株式会社(現IHI)に入社、一貫して海外営業・戦略畑を歩む。入社3年目に日墨政府交換留学制度でメキシコのプエブラ州立大学に1年間留学。その後、オランダ・アムステルダム、台北に駐在し、中国室長、IHI (HK) LTD.社長、海外営業戦略部長などを経て、IHIヨーロッパ(IHI Europe Ltd.) 社長としてロンドンに4年間駐在した。定年退職後、IHI環境エンジニアリング株式会社社長補佐としてバイオリアクターなどの東南アジア事業展開に従事。その後、新潟トランシス株式会社で香港国際空港の無人旅客搬送システム拡張工事のプロジェクトコーディネーターを務め、令和元(2019)年9月に同社を退職した。その間、公私合わせて58カ国を訪問。現在、白井市南山に在住し、環境保全団体グリーンレンジャー会長として活動する傍ら英語翻訳業を営む。