【連載エッセー】岩崎邦子の「日々悠々」⑪
白井町に居を移したのは、今から27年前のことである。その間に「町」から「市」に昇格し、周りの景色も少し変わってきた。それでも住人としてはいつまでも新人と思っているのだが、もう「古参」の部類だろうか。
当時、都心に直行の電車が開通し、道路も広々としたニュータウンは魅力的であった。新居となったマンション暮らしに私たちも慣れ、落ち着いてから、夫の母(義母)が我が家を訪れた。
岐阜県の田舎で農家をしている義父に先立たれてからは、畑仕事や草むしり、お墓参りが義母の日常生活である。当時85歳ぐらいだったか、耳が少し遠かったが、いたって健康だった。義母にとって、箱のような我が家のマンションは物珍しかったに違いない。
私は疲れると昼寝を少しして、元気になれることを話すと、
「ええねぇ、私は絶対に昼間は寝れんのよ」
と、義母は羨ましがった。
しかし、テレビを見ながら義母が居眠りしているのを見ると、私は嬉しかった。
(あぁ、我が家でリラックスしてくれている)
ある日、成田山新勝寺に出かけた。義母は食べ物の好き嫌いもなく、坂道や階段を歩くのに手を貸さなくても平気であった。そのときの様子をビデオで見せたことがある。
「こんなに背中丸かったかね~」
義母は映像を見ながら、少しがっかりした様子であった。
確かに少し背は丸くなっていたが、「年齢からすれば気にするほどでもない」と、当時の私は思ったものだが、
「もっと、シャンシャンと歩いているつもりだったのに~」
と、しっかり者の義母は、自分の姿にかなり不満を漏らしていた。
家業は農家ではあったが、義母は若いころから本を読むことが好きで、婦人会でも世話役をして周りからの人望も高かったようだ。
「岩崎の家のことは爺に聞かず、婆に聞け」
そうも言われていた。
若い頃に苦労をしたせいか、物分かりの良い人でもあった。私たちの結婚に関しては、私の親が早死にしていることを懸念していたが、当時から太っていたことで、安心材料になったとか……。
義母には4人の息子と1人の娘がいたので、嫁4人、婿1人である。嫁たちの悪口を決して言わない。もちろん婿さんのことも。それぞれの良い点を見つけては、私にこう言う。
「あの子も、ええとこあるのよ」
だから、私に気が利かないことがあっても、常識がないことがあっても、なぜか安心していられたものである。口癖は「お陰で」であった。人や物に対していつも、感謝の言葉がすぐに出てくる。
義母の元気さと、好奇心旺盛な点で、思い出すことがある。私たちがまだロサンゼルスに駐在していたとき、義母は80歳ぐらいだった。名古屋に住む三男(夫の弟)に連れられて飛行機でやってきた。
長旅もものともせず、到着後も元気そうである。美味しそうにうどんを食べてくれた。もちろん、ロス市内の見物もしたし、アナハイムのディズニーランドにも行き、ちびっ子たちからは、珍しそうに顔を見られていた。
もっとも私の印象に残っているのは、サンフランシスコでの出来事である。ゴールデンゲート・ブリッジを渡った先の小高い丘に立った。東に満月、西に真っ赤なサンセット。こんな見事な風景を義母に見せることができて嬉しかった。
ロサンゼルス空港に降り立つときの、宝石を散りばめたような夜景も素晴らしかったも義母には印象的だったという。何度も私たちに「お陰で」を連発しながら喜んでくれたことが懐かしい。田舎に帰れば、きっと誰彼に向かっていつまでも語り草にしていたかっただろう。でも、人から聞かれれば、嬉しそうに語ることはあっても、自分からは言い出すことはなかったらしい。
小さくなった義母も、町から百歳のお祝い(百寿・紀寿)をもらって喜んでいたが、まわりにあまり迷惑をかけることもなく、大往生であった。義母が気にしていたことがあった。背中が年々丸くなってしまうことだ。年を重ねると、誰もが陥る問題だろう。
背筋を伸ばすことの大切さは、コーラスの練習の時も度々先生から言われる。立って歌うことで一番声が出るのであるが、「椅子に掛けて歌うときは、浅く腰掛け背をぴんと伸ばすことが肝要である」と。体操教室に行けば、「下腹に力を入れ背筋を伸ばすことを習慣化するように」と教わる。
食事をしながら、テレビを見ながら、ふと気づくと背中を丸めていることに気付く。はっとして背を伸ばす。こんなことの繰り返しである。街ゆく人を見ていて、老けて見えるのは姿勢が悪い人だ。「人の振り見て我が振り直せ!」を痛感する日々である。