白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

近代/文学/共同体6

2018年12月01日 | 日記・エッセイ・コラム
小川未明から。

「『こんなにおそくなってからーーー』と、おばあさんは口のうちでいいながら戸を開けてみました。するとそこには、十二、三の美しい女の子が目をうるませて立っていました。『どこの子か知らないが、どうしてこんなにおそくたずねてきました?』と、おばあさんは、いぶかしがりながら問いました。『私(わたし)は、町の香水製造場(せいぞうじょう)で雇われています。毎日、毎日、白ばらの花から取った香水をびんに詰めています。そして、夜、おそく家(うち)に帰ります。今夜も働いて、独りぶらぶら月がいいので歩いてきますと、石につまずいて、指をこんなに傷つけてしまいました。私は、痛くて、痛くて我慢ができないのです。血が出てとまりません。もう、どの家(うち)もみんな眠ってしまいました。この家(うち)の前を通ると、まだおばあさんが起きておいでなさいます。私は、おばあさんがごしんせつな、やさしい、いい方だということを知っています。それでつい、戸をたたく気になったのであります』と、髪の毛の長い、美しい少女はいいました。おばあさんは、いい香水の匂(にお)いが、少女の体にしみているとみえて、こうして話している間に、ぷんぷんと鼻にくるのを感じました」(小川未明「月夜と眼鏡」『小川未明童話集・P.30〜31』新潮文庫)

あるいは。

「あちらに輝いている小さな星がいいました。この星は、終夜(しゅうや)、下の世界を見守っている、やさしい星でありました。『いえ、いま起きている人があります。私(わたし)は一軒の貧しげな家をのぞきますと、二人の子供は、昼間の疲れですやすやとよく休んでいました。姉のほうの子は、工場(こうば)へいって働いているのです。弟のほうの子は、電車の通る道の角に立って新聞を売っているのです。二人の子供は、よくお母さんのいうことをききます。二人とも、あまり年がいっていませんのに、もう世の中に出て働いて、貧しい一家のために生活の助けをしなければならないのです。母親は、乳飲(ちの)み児(ご)を抱いて休んでいました。しかし、乳が乏しいのでした。赤ん坊は、毎晩夜中になると乳をほしがります。今、お母さんは、この夜中に起きて、火鉢(ひばち)で牛乳のびんをあたためています。そして、もう赤ちゃんがかれこれ、お乳をほしがる時分だと思っています』。『二人の子供はどんな夢を見ているだろうか?せめて夢になりと、楽しい夢を見せてやりたいものだ』と、ほかの一つの星がいいました。『いや、姉のほうの子は、お友だちと公園へいって、道を歩いている夢を見ています。春の日なので、いろいろの草花(くさばな)が花壇の中に咲いています。その花の名などを、二人が話し合っています。ふとんの外へ出ている顔に、やさしいほほえみが浮かんでいます。この姉のほうの子は、いま幸福であります』と、やさしい星は答えました。『男の子は、どんな夢を見ているだろうか?』と、またほかの星がたずねました。『あの子は、昨日(きのう)、いつものように、停留場(ていりゅうじょう)に立って新聞を売っていますと、どこかの大きな犬がやってきて、ふいに、子供にむかってほえついたので、どんなに、子供はびっくりしたでしょう。そのことが、頭にあるとみえて、いま大きな犬に追いかけられた夢を見てしくしくと泣いていました。無邪気なほおの上に涙が流れて、うす暗い燈火(ともしび)の光が、それを照らしています』と、やさしい星は答えました」(小川未明「ある夜の星たちの話」『小川未明童話集・P.40~41』新潮文庫)

柄谷行人は次のように指摘する。

「小川未明における児童は、『現実の子ども』からみると、ある転倒した観念にすぎないといわれている。未明における『児童』がある内的な転倒によって見出されたことはたしかであるが、しかし、実は『児童』なるものはそのように見出されたのであって、『現実の子ども』や『真の子ども』なるものはその《あと》で見出されたにすぎないのである。したがって、『真の子ども』というような観点から未明における『児童』の転倒性を批判することは、この転倒の性質を明らかにするどころか、いっそうそれをおおいかくすことにしかならない」(柄谷行人「日本近代文学の起源・P.157」講談社文芸文庫)

国木田独歩、田山花袋、志賀直哉、徳富蘆花など「日本近代文学」の先駆者らによる「風景/内面/告白/病」の「発見」についてはこれまで触れてきた。

「まったく同じことが『児童』についてもいえる。『児童』とは一つの『風景』なのだ。それは《はじめ》からそうだったし、現在もなおそうである。したがって、小川未明のようなロマン派的文学者によって『児童』が見出されたことは奇異でも不当でもない。むしろ最も倒錯しているのは『真の子ども』などという観念なのである」(柄谷行人「日本近代文学の起源・P.158」講談社文芸文庫)

ではなぜ、「真の子ども」あるいは「真の人間」という観念は問題なのか。

「ユートピアを構想する者は(そのユートピアでの)独裁者だと、ハンナ・アーレントがいっているが、『真の人間』、『真の子ども』を構想する教育者・児童文学者はそのような《独裁者》でしかありはしない。しかも、いつもそのことをまったく意識しない」(柄谷行人「日本近代文学の起源・P.186」講談社文芸文庫)

というわけだ。しかし「児童」や「子ども」を語る時、避けて通れない課題として「学制」というものがある。学制が社会主義的だとすれば旧ソ連のような社会を再び出現させてしまうことになるだろう。また学制がナチス・ドイツのような支配形態を持てばそれはそれでファシズムの再来を反復させてしまう。ならば、「民主主義的」な「学校」なら良いのではないか。そう考えて信じ切っているとこれもまた厄介な問題社会へ転倒するという事実を社会は見ない。あるいは「民主主義的」な「学校」なら良いに決まっていると信じて疑わなくなってしまい、「民主主義」もまた制度的諸問題を孕んでいるという決定的な負の部分から目をそらせてしまう危険性を社会全体へ蔓延させたまま放置してしまう。そうするともう、ほとんど誰も、「民主主義もまた完全ではない」という前提を見失っている「異常」な状態が逆に常態化する、という倒錯の内に生きていくこととなる。冗談ではない、と思うのだ。

レーニンはいう。

「たとえば、われわれがすでにその深遠な意見を知っている新『イスクラ』の例の『一実践家』は、私が党を、中央委員会という支配人をいただく『巨大工場』と考えているといって告発している(第57号、付録)。この『一実践家』は、彼のもちだしたこのおどし文句が、プロレタリア組織の実践にも理論にもつうじていないブルジョア・インテリゲンツィアの心理を一挙にさらけだしていることに、気づいてもいない。ある人にはおどし道具としかみえない工場こそ、まさにプロレタリアートを結合し、訓練し、彼らに組織を教え、彼らをその他すべての勤労・被搾取人民層の先頭にたたせた資本主義的協業の最高形態である。資本主義によって訓練されたプロレタリアートのイデオロギーとしてのマルクス主義こそ、浮動的なインテリゲンツィアに、工場がそなえている搾取者としての側面(餓死の恐怖にもとづく規律)と、その組織者としての側面(技術的に高度に発達した生産の諸条件によって結合された共同労働にもとづく規律)との相違を教えたし、いまも教えている。ブルジョア・インテリゲンツィアには服しにくい規律と組織を、プロレタリアートは、ほかならぬ工場というこの『学校』のおかげで、とくにやすやすとわがものにする」(レーニン「一歩前進二歩後退・P.261」国民文庫)

「学校のおかげ」、ということについて特に力点を置いて、柄谷はこう指摘する。

「工場は『学校』であり、また軍隊も『学校』であり、逆にいえば、近代的な学校制度そのものがそのような『工場』でもある。工場あるいはマルクスのいう産業プロレタリアートがほとんどない国で、革命権力がまっさきにやるのは、実際の工場を作ることーーーそれは不可能であるーーーではなく、結局『学制』と『徴兵制』であって、それによって国家全体を工場=軍隊=学校として組織しなおすのである。その際のイデオロギーが何であってもよい。近代国家は、それ自体『人間』をつくりだす一つの教育装置なのである」(柄谷行人「日本近代文学の起源・P.185」講談社文芸文庫)

旧ソ連が免れなかったように、ナチス・ドイツも、さらには大日本帝国の「学制」もまたその全体主義化から逃れることはできなかった。しかし逆説的に思われるかも知れないが、同時に、「民主主義的」という点で世界の最先端を走っていたアメリカもまたそうだと言わざるを得ない。特に昨今のアメリカを見れば一目瞭然というほかない。とはいえ、明治の日本文学のどこにもまったく救いは持てない、と柄谷はいっているわけではない。

「明治三十年代に、それまで個々の例外的な突出としてあった『近代文学』が一般化するにいたったのは、『学制』が整備され定着してきたことと関連している。そして、その上で、小川未明らによる『児童の発見』が可能だったのである。江戸以来、徒弟(とてい)制を引きずっていた硯友社系の作家らは、そのような『児童』を見出すことができなかった。しかし、われわれはその周辺に、子供の《ために》書かれたものではないが子供のことを書いたすぐれた作品を見出すことができる。樋口一葉の作品である」(柄谷行人「日本近代文学の起源・P.186」講談社文芸文庫)

樋口一葉「にごりえ・たけくらべ」新潮文庫

さらに、時代は明治でなくなるものの、坂口安吾のエッセイから重要なヒントを導き出している。

「安吾がここでいう物語は、『物語』そのものを突き破るものとしてある。ヴラジーミル・プロップの『民話の形態学』以来、神話や昔話が諸要素の構造的組み替えにほかならないことが明らかにされている。口承(こうしょう)としての昔話は、まさにそのために、構造論的規則に厳密に従うのである。しかし、安吾が『ふるさと』とよんだものは、そのように規則化されねば人間存在を自壊させてしまうような、ある過剰性・混沌だといってよい。そして、それは、『文学』という新たな物語を『突き放す』ものとしてありつづけている」(柄谷行人「日本近代文学の起源・P.174~175」講談社文芸文庫)

安吾から引用しておきたい。これまた長いが、今なお少しは「お役立ち」な文章だ。少なくとも「文学・批評」という「制度」の中で、ともすればあっという間もなく発火しがちなファシズム、それも昨今は非常にソフトなイメージを纏って安易かつ簡便に出現してくるファシズムから逃れ出るためには、大変有益なテキストであるに違いない。

「シャルル・ペロオといえば『サンドリヨン』とか『青髯(あおひげ)』とか『眠りの森の美女』というような名高い童話を残していますが、私はまったくそれらの代表作と同様に、『赤頭巾』を愛読しました。否、むしろ『サンドリヨン』とか『青髯』を童話の世界で愛したとすれば、私はなにか大人の寒々とした心で『赤頭巾』のむごたらしい美しさを感じ、それに打たれたようでした。愛くるしくて、心が優しくて、すべてが美徳ばかりで悪さというものが何もない可憐な少女が、森のお婆さんの病気を見舞に行って、お婆さんに化けている狼にムシャムシャ食べられてしまう。私達はいきなりそこで突き放されて、何か約束が違ったような感じで戸惑いしながら、然し、思わず目を打たれて、プツンとちょん切られた空しい余白に、非常に静かな、しかも透明な、ひとつの切ない『ふるさと』を見ないでしょうか」(坂口安吾「文学のふるさと」『坂口安吾全集14・P.324』ちくま文庫)

「これは『狂言』のひとつですが、大名が太郎冠者(たろうかじゃ)を供につれて寺詣でを致します。突然大名が寺の屋根の鬼瓦(おにがわら)を見て泣きだしてしまうので、太郎冠者がその次第を訊ねますと、あの鬼瓦はいかにも自分の女房に良く似ているので、見れば見るほど悲しい、と言って、ただ、泣くのです。まったく、ただ、これだけの話なのです。四六版の本で五、六行しかなくて、『狂言』の中でも最も短いものの一つでしょう。これは童謡ではありません。いったい狂言というものは劇の中間にはさむ息ぬきの茶番のようなもので、観衆をワッと笑わせ気分を新らたにさせればそれでいいような役割のものではありますが、この狂言を見てワッと笑ってすませるか、どうか、尤(もっと)も、こんな尻切れトンボのような狂言を実際舞台でやれるかどうかは知りませんが、決して無邪気に笑うことはできないでしょう。この狂言にもモラルーーー或いはモラルに相応する笑いの意味の設定がありません。お寺詣に来て鬼瓦を見て女房を思いだして泣きだす、という、なるほど確かに滑稽で、一応笑わざるを得ませんが、同時に、いきなり、突き放されずにもいられません。私は笑いながら、どうしても可笑(おか)しくなるじゃないか、いったい、どうすればいいのだーーーという気持になり、鬼瓦を見て泣くというこの事実が、突き放されたあとの心の全てのものを攫(さら)いとって、平凡だの当然だのというものを超躍した驚くべき厳しさで襲いかかってくることに、いわば観念の眼を閉じるような気持になるのでした。逃げるにも、逃げようがありません。それは、私達がそれに気付いたときには、どうしても組みしかれずにはいられない性質のものであります。宿命などというものよりも、もっと重たい感じのする、のっぴきならぬものであります。これも亦(また)、やっぱり我々の『ふるさと』でしょうか」(坂口安吾「文学のふるさと」『坂口安吾全集14・P.325~326』ちくま文庫)

「晩年の芥川龍之介の話ですが、時々芥川の家へやってくる農民作家ーーーこの人は自身が本当の水呑百姓の生活をしている人なのですが、あるとき原稿を持ってきました。芥川が読んでみると、ある百姓が子供をもうけましたが、貧乏で、もし育てれば、親子共倒れの状態になるばかりなので、むしろ育てないことが皆のためにも自分のためにも幸福であろうという考えで、生れた子供を殺して、石油缶だかに入れて埋めてしまうという話が書いてありました。芥川は話があまり暗くて、やりきれない気持になったのですが、彼の現実の生活からは割りだしてみようのない話ですし、いったい、こんな事が本当にあるのかね、と訊ねたのです。すると、農民作家は、ぶっきらぼうに、それは俺がしたことなのだがね、と言い、芥川があまりの事にぼんやりしていると、あんたは、悪いことだと思うかね、と重ねてぶっきらぼうに質問しました。芥川はその質問に返事することができませんでした。何事にまれ言葉が用意されているような多才な彼が、返事ができなかったということ、それは晩年の彼が始めて誠実な生き方と文学との歩調を合せたことを物語るように思われます。さて、農民作家はこの動かしがたい『事実』を残して、芥川の書斎から立去ったのですが、この客が立去ると、彼は突然突き放されたような気がしました。たった一人、置き残されてしまったような気がしたのです。彼はふと、二階へ上り、なぜともなく門の方を見たそうですが、もう、農民作家の姿は見えなくて、初夏の青葉がギラギラしていたばかりだという話であります。この手記ともつかぬ原稿は芥川の死後に発見されたものです。ここに、芥川が突き放されたものは、やっぱり、モラルを超えたものであります。子を殺す話がモラルを超えているという意味ではありません。その話には全然重点を置く必要がないのです。女の話でも、童話でも、なにを持って来ても構わぬでしょう。とにかく一つの話があって、芥川の想像もできないような、事実でもあり、大地に根の下りた生活でもあった。芥川はその根の下りた生活に、突き放されたのでしょう。いわば、彼自身の生活が、根が下りていないためであったかも知れません。けれども、彼の生活に根が下りていないにしても、根の下りた生活に突き放されたという事実自体は立派に根の下りた生活であります。つまり、農民作家が突き放したのではなく、突き放されたという事柄のうちに芥川のすぐれた生活があったのであります。もし、作家というものが、芥川の場合のように突き放される生活を知らなければ、『赤頭巾』だの、さっきの狂言のようなものを創りだすことはないでしょう。モラルがないこと、突き放すこと、私はこれを文学の否定的な態度だとは思いません。むしろ、文学の建設的なもの、モラルとか社会性というようなものは、この『ふるさと』の上に立たなければならないものだと思うものです」(坂口安吾「文学のふるさと」『坂口安吾全集14・P.326~328』ちくま文庫)

「昔、ある男が女に懸想(けそう)して頻(しき)りに口説(くど)いてみるのですが、女がうんと言いません。ようやく三年目に、それでは一緒になってもいいと女が言うようになったので、男は飛びたつばかりに喜び、さっそく、駈落(かけおち)することになって二人は都を逃げだしたのです。芥の渡しと言うところをすぎて野原へかかった頃には夜も更(ふ)け、そのうえ雷が鳴り雨が降りだしました。男は女の手をひいて野原を一散に駈けだしたのですが、稲妻にてらされた草の葉の露をみて、女は手をひかれて走りながら、あれはなに?と尋ねました。然し、男はあせっていて、返事をするひまもありません。ようやく一軒の荒れ果てた家を見つけたので、飛びこんで、女を押入の中へ入れ、鬼が来たら一刺しにしてくれようと槍(やり)をもって押入れの前にがんばっていたのですが、それにも拘(かかわ)らず鬼が来て、押入の中の女を食べてしまったのです。生憎(あいにく)そのとき、荒々しい雷が鳴りひびいたので、女の悲鳴もきこえなかったのでした。夜が明けて、男は始めて女がすでに鬼に殺されてしまったことに気付いたのです。そこで、ぬばたまのなにかと人の問ひしとき露と答へてけなましものをーーーつまり、草の葉の露を見てあれはなにと女がきいたとき、露だと答えて、一緒に消えてしまえばよかったーーーと言う歌をよんで、泣いたという話です。この物語には男が断腸の歌をよんで泣いたという感情の附加があって、読者は突き放された思いをせずに済むのですが、然し、これも、モラルを超えたところにある話のひとつでありましょう。この物語では、三年も口説いてやっと思いがかなったところでまんまと鬼にさらわれてしまうという対照の巧妙さや、暗夜の曠野を手をひいて走りながら、草の葉の露をみて女があれは何ときくけれども男は一途に走ろうとして返事すらできないーーーこの美しい情景を持ってきて、男の悲嘆と結び合せる綾(あや)とし、この物語を宝石の美しさにまで仕上げています。つまり、女を思う男の情熱が激しければ激しいほど、女が鬼に食われるというむごたらしさが生きるのだし、男と女の駈落のさまが美しくせまるものであればあるほど、同様に、むごたらしさが生きるのであります。女が毒婦であったり、男の情熱がいい加減なものであれば、このむごたらしさは有り得ません。又、草の葉の露をさしてあれは何ときくけれども男は返事のひますらもないという一挿話がなければ、この物語の値打の大半は消えるものと思われます。つまり、ただモラルがない、ただ突き放す、ということだけで簡単にこの凄然たる静かな美しさが生まれるものではないでしょう。ただモラルがない、突き放すというだけならば、我々は鬼や悪玉をのさばらせて、いくつの物語でも簡単に書くことができます。そういうものではありません」(坂口安吾「文学のふるさと」『坂口安吾全集14・P.328~330』ちくま文庫)

「それならば、生存の孤独とか、我々のふるさとというものは、このようにむごたらしく、救いのないものでありましょうか。私は、いかにも、そのように、むごたらしく、救いのないものだと思います。この暗黒の孤独には、どうしても救いがない。我々の現身(うつしみ)は、道に迷えば救いの家を予期して歩くことができる。けれども、この孤独は、いつも曠野を迷うだけで、救いの家を予期すらもできない。そうして、最後に、むごたらしいこと、救いがないということ、それだけが、唯一の救いなのであります。モラルがないということ自体がモラルであると同じように、救いがないということ自体が救いであります。私は文学のふるさと、或いは人間のふるさとを、ここに見ます。文学はここから始まるーーー私は、そうも思います。アモラルな、この突き放した物語だけが文学だというのではありません。否、私はむしろ、このような物語を、それほど高く評価しません。なぜなら、ふるさとは我々のゆりかごではあるけれども、大人の仕事は、決してふるさとへ帰ることではないから。ーーーだが、このふるさとの意識・自覚のないところに文学があろうとは思われない。文学のモラルも、その社会性も、このふるさとの上に生育したものでなければ、私は決して信用しない。そして、文学の批評も。私はそう信じています」(坂口安吾「文学のふるさと」『坂口安吾全集14・P.330~331』ちくま文庫)

さて、これまで柄谷行人の著作を大きな手掛かりとして引用しつつ、明治二十年代の日本文学に起こった「風景/内面/告白/病/児童」の転倒的出現について振り返ってきた。前に言っていたように、今度は、TPPをはじめとする環太平洋全域を舞台とした世界の変貌とともに、どんなふうに文学・批評あるいはマスコミが変貌・変質・日和見して行くのか。あるいはもう既に変貌・変質・日和見し始めているのか。ゆっくり見ていければと思っている。

BGM