白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

大学医学部入試女性差別問題

2018年12月15日 | 日記・エッセイ・コラム
個人的にはフェミニズムというものをどれほど理解しているかは定かでない。が、反差別の立場から、見るに見かねて述べておきたい。大学医学部入試女性差別問題について。といっても、いきなり引用から始める。

「ヨーロッパなどの外国の人たちの観察の方法と、ニッポン人の観察の仕方とは、本来的に非常に差異がありまして、ニッポン人はどうも物事を大いに偏(かたよ)って見る傾向がありまして、たとえば烈火のごとく怒ったとか、ハッタとにらんだとか、そんな風に云ってしまって、それだけで済ましてしまうという形が多いのであります。物事をそれらの物事そのものの個性によって見る、そのもの自体にだけしかあり得ないというような根本的にリアルな姿を、取得しておらないのであります。

このような観察の仕方にくらべますと、ヨーロッパ人たちの物事の見方というものは、個々の事物にしかない、それぞれのその物事自体にしかあり得ないところの個性というものを、ありのままに眺めて、それをリアルに書いておりますので、それだけに非常に資料価値が高いのであります。そのリアリティというものは尊敬すべきであります。

併(しか)し、それは今日の話でありまして、この話の当時にありましては、今私が申したような、個性に即した物事の見かたとか、観察の仕方というようなものは、驚くべきことには、婦女子の感覚だと云われていたのであります。そして、貶(け)なされていたのであります。それはどいういうことかと申しますと、その当時の考え方では、男子たる者は、もっと大ざっぱに物事を考えなければいけないので、こういった細かい物事にはわざと眼をふさいで、気がついていても気がつかない振りをするほうが立派なのだ、という人生観がずーっと流行していたからであります。それが絶対的な権威をもったニッポン的人生観であったわけであります。こういうバカバカしい事が、ニッポン人一般の、物事の観察法、世界観といいますか、人間観察というものを大変に遅鈍にさせまして、実態にふれることのない、抽象的な考え方をはびこらせることになったのであります」(坂口安吾「ヨーロッパ的性格、ニッポン的性格」『坂口安吾全集15・P.451~456』ちくま文庫)

「リアルに書いており」「資料価値が高い」「リアリティ」「個性に即した物事の見かた」。それらのどこがどういけないというのだろうか。むしろ要するに、高度な水準の記述性、ということだ。記述性の水準を判定するに当たって記録者の「性別」がどうかなどまったく関係ない。織田信長に関する資料として安吾が引用している実例も男性による記述だ。しかしなぜかそれらは「例外」として、「婦女子の感覚」というレッテルを貼り付けられ「貶(け)なされていた」。逆に「抽象的な考え方」という言葉の説明に関し、安吾は、「禅僧の態度」を例に取って比較している。

「禅には禅の世界だけの約束というものがあるのでありまして、そういった約束の上に立って、論理を弄(ろう)しているものなのであります。すべては、相互に前もって交わされている約束があって始めて成り立つ世界なのであります。例えば、『仏とは何ぞや?』と問いますと、『無である』『それは、糞搔(くそか)き棒である』とか云うのです。お互いにそういった約束の上で分ったような顔をしておりますけれども、それは顔だけの話なんであります。分っているかどうかが分らないのであります。ですから、実際のところは、仏というものは仏である、糞搔き棒は糞搔き棒である、というような尋常、マットウな論理の前に出ますというと、このような理論はまるで役に立たないのであります。そして、このような一番当り前の論理の前に出まして、それを根本的に覆(くつが)えすことの出来る力がどんなものだか、どこにあるかと云いますと、それは実践というものと思想というものが合一しておるところにしかないのであります。

ところが、このような生き方は、禅僧にとってはまことに困難なのであります。それで、禅僧というものは、約束の上に立っている観念でだけものごとを考えているばかりでありまして、実践がない。悟りというようなものを観念の世界に模索しておるのでありますから、智力というものに頼ってはいても、実際の自分の力なるものがどのくらいあるのか、分っておる人間はいないのであります。ですから、カトリックの坊さんのように、実践ということに全べてを賭けている宗教家、その実際的な行動の前には、禅僧は非常に脅威を感じるのであります。自分の実力のなさ、みすぼらしさを感じるわけであります。そうして、禅宗を信じる者が、僧侶でありながらカトリック教へ転向するということが、多いに流行したのであります。それは、今日、われわれが想像いたしますよりも、遥かに多数なのであります。これは今日から見ますと驚くべきことではありますけれども、事実なのでありまして、それは記録に残っておるのであります」(坂口安吾「ヨーロッパ的性格、ニッポン的性格」『坂口安吾全集15・P.472~473』ちくま文庫)

「仏というものは仏である」「糞搔き棒は糞搔き棒である、というような尋常、マットウな論理」。もっともだろう。もし仮に癌細胞摘出手術の際に、「メスとは何ぞや?」などと一体誰が言い出すだろうか。「メスはメス」であり「点滴は点滴」であり「血管は血管」であり「癌細胞は癌細胞」であって、それ以上でもなければ以下でもない。

ところで、「カトリックの坊さんのように、実践ということに全べてを賭けている宗教家、その実際的な行動」、とある。戦国時代末期、信長の時代、キリスト教徒はその生活の全てを信仰に賭けるという実践的態度を維持していた。徳川幕藩体制が崩壊し明治になる頃には再び活発に活動の場を与えられるようになったが、その時キリスト教に強く惹かれ入信したのは没落階級と化していた武士であり、しかもほとんど武士周辺の間でしか信徒を獲得できなかった(プライドの保持/武士道の再発見)という経緯がある。従って、近代日本のキリスト教勢力はとるに足らない範囲でしか広がりを見せていない。一般的には大衆のあいだで生活/生命のすべてを賭けてまで実践的態度の表明と実行が必要となるのは昭和になってから、大資本を相手として階級闘争を繰り広げるほかなくなってきた人々によるマルクス主義の本格的展開を待たねばならない。この時、再び「実践的」とは何か、が問われることになった。しかしマルクスは実に用意周到である。

「人間的思惟に対象的真理がとどくかどうかの問題はーーーなんら観想の問題などではなくて、一つの《実践的な》問題である。実践において人間は彼の思惟の真理性、すなわち現実性と力、此岸性を証明しなければならない。思惟ーーー実践から切り離された思惟ーーーが現実的か非現実的かの争いは一つの純《スコラ的な》問題である」(マルクス「フォイエルバッハにかんするテーゼ」・マルクス=エンゲルス『ドイツ・イデオロギー・P.22』国民文庫)

さて、大学医学部不正入試問題に戻ろう。「女子の方がコミュニケーション能力が高い」という発言については、公正であるべき入試に「性別は関係ない」として抗議するのが妥当だろうと考える。けれども、低所得者層を実際に生きている五十歳の「社会化された」一個人の立場としては、もう一歩踏み込んで考えてみて欲しいものだと、多少なりとももどかしい思いはする。大学入試の結果(=学歴)や家柄や階級の違いによって個人の人間性もしくは人格のほとんどすべてが「あらかじめ」決定されてしまっている「かのような」近代社会の中で、なぜマルクスは次のようにも言い放ったのか。

「ある者は他の者よりも事実上多く受けとり、ある者は他の者より富んでいる等々ということが生ずる。これらすべての欠陥を避けるためには、権利は平等であるよりも、むしろ不平等でなければならないだろう。ーーー権利は、社会の経済的な形態とそれによって制約される文化の発展よりも高度であることは決してできない。ーーー各人はその能力に応じて、各人にはその必要に応じて!」(マルクス「ゴータ綱領批判・P.38〜39」岩波文庫)

さらにもし、この事件で大学に抗議する人々が多く出現し始めた場合、大学側はどのように捉えてみるだろう。「大学の秩序」に対する「犯罪」とまで見たがる人物などが出てこないとは限らない。あるいは抗議活動参加者を指して苦々しく感じるばかりに「暴徒」扱いしたいと欲する者すらいるだろう。とすれば「大学」とは一体誰が何をする「関連機関」なのかさっぱり分からず、そしてまた「大学」はこれまで「国家の中でどういう機能を果たす」ために設置・運営されてきたのか、という根本的な問いさえ問い直されてくるに違いない。一九六八年のように。ところでニーチェは正しく「暴徒」の側を支持するのだ。

「《犯罪》は『社会秩序に反抗する暴動』という概念のうちの一つである。暴徒は『罰せられる』のではなくて、《制圧される》のである。暴徒というものは憐れむべき軽蔑すべき人間でもありうるが、それ自体では暴動にはなんら軽蔑すべきものはない、ーーーしかも、現今のごとき社会に関して暴動をおこすということは、それ自体ではまだ人間の価値を低劣ならしめはしない。そうした暴徒は、攻撃することを要する何ものかを私たちの社会で感取しているということのゆえに、畏敬をうけてすらよい場合がある、ーーーすなわち、それは、その暴徒が私たちを仮眠からめざめさせる場合である」(ニーチェ「権力への意志・第三書・P.257」ちくま学芸文庫)

BGM