白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

マスコミ理性批判

2018年12月31日 | 日記・エッセイ・コラム
裏切るのは感性あるいは身体ではない。理性のほうこそ裏切るのだ。なぜか。

「人間の理性は、或る種の認識について特殊の運命を担っている、即ち理性が斥けることもできず、さりとてまた答えることもできないような問題に悩まされるという運命である。斥けることができないというのは、これらの問題が自然的本性によって理性に課せられているからである、また答えることができないというのは、かかる問題が人間理性の一切の能力を越えているからである。人間の理性が、かかる窮境に陥るのは、理性に責めがあるわけではない。理性は原則から出発する、そしてこれらの原則は、経験の経過においては必ず使用せられねばならないものであると同時に、この使用は経験によって十分に実証せられているのである。かかる原則をもって理性は(その自然的本性上、必然的にそうせざるを得ないので)条件からそのまた条件へと条件の系列を遡ってますます高く昇っていく。しかし問題はいつになっても尽きるところを知らないので、理性はこのような仕方では自分の本務がいつまでも不完全な域にとどまっていなければならないということに気づくのである。そこで理性は、一切の可能的な経験的使用を越えるにも拘らず常識とすら一致するほど確実に見えるような原則に逃避せざるを得なくなる。ところがそのために理性は、昏迷と矛盾とに陥いる、そしてなるほどこれらの昏迷と矛盾とから、どこかに隠れた謬見が根底に潜んでいるに違いないことを推量しはするものの、しかしこれを発見することができないのである。理性の用いる原則は、一切の経験の限界を超出しているので、経験による吟味をもはや承認しないからである」(カント「純粋理性批判・上・P.13~14」岩波文庫)

理性はただ単に「理性」と呼ばれているだけでなく実際にそうであるように取り扱われている。「モラル」あるものとして信じられ何らの疑いも立てられずにいる。しかしカントは何と言っているだろうか。理性は難問の解決に当たって、ともすればいとも安易に経験の限界を超出していく、と述べてはいなかったか。そうして理性は超越論的な「越権」によって「神」「自由」「不死」といった難問を「理論的」(思弁的)に、要するに「一方的」に「解決」してしまい、自分だけで満足する。だがこのような理性による天上への自己満足は明らかな転倒に過ぎない。さて、どうすればよいのか。「要するに」とカントはいう。

「要するに、思弁的理性から、経験を超越して認識すると称する越権を《奪い去らぬ》限り、私は《神》、《自由》および《不死》〔霊魂の〕を、私の理性に必然的な実践的理性使用のために《想定》することすらできない」(カント「純粋理性批判・上・P.43」岩波文庫)

理性からその「越権」を剥奪すること。ともすれば理性がしばしば侵してしまいがちな「空論的」(理論的)なだけの自己満足的解決あるいは自己満足的解釈を廃棄すること。なぜなら、「理論的に《認識》し得る一切のもの」とカントは言い、ただ単に「理論的」にであれば、それこそありとあらゆる事象を「現実」として認識してしまうことも可能となってしまうため、そのような転倒した事態の発生を退けようとしたからだ。ところで、そんな転倒に陥ってしまわないためには感性ではなく理性をこそ疑惑の対象としなければならない。と同時に、理性を、あくまで「実践的」(現実的)な吟味の内に据え直さなければならなくなってくる。

しかしカントを思い出したのにはわけがある。単純にそう思い返さずにはいられない事態が二〇一八年の日本を通して発生したと思うからだ。再認識させられた一年だったと感じる。なぜだろうか。沖縄の米軍基地問題を始めとした安倍政権の暴挙を上げればそれで済まされるような問題だからか。違うだろうと思う。マスコミ(主にテレビ)報道は沖縄の基地問題を、特に「土砂投入」を、どのように取り扱ったか。ただ単に報じたというだけか、または局によっては平然と問題のすり替えまでやっていた。時間の無駄。無駄に電気代をかけてしまった。テレビ報道の世界の「理性」とはまったくもってそういうものでしかなのかも知れないが。

そのようなわけで何かとお騒がせな日米安保条約だが、日米安保条約は日米首脳陣同士の間での、そしてその限りでの条約だ。しかし日米首脳陣とは何か。民主主義的選挙によって選ばれた人々のことだ。ならば人格が条約化したものだと言える。昨今は逆に条約の人格化としても定着してきた感すらある。仮にだが、もしこの条約が人間だとしたら、この条約に向かって、どのような評価を与えればいいのだろう。などと考えていると、頭がどうかしてしまいそうになる。精神的身体的な苦痛を伴わずにはいられない。事実、アレルギー症状が出るのだ。皮膚の痒みや喘息などーーー。そこで、本来なら自分の言葉で述べるべきなのだが、不本意ながらもここはあえてニーチェに代弁してもらうことにしたい。こうだ。

「わたしはおまえの軽蔑(けいべつ)を軽蔑する。そしておまえがわたしに警告するならーーーなぜおまえはおまえ自身に警告しないのか。

わたしはわたしの軽蔑とわたしの警告の鳥とを、ただ愛のなかから飛び立たせることにしている。沼のなかから飛び立たせるのではない。

泡を吹き立てる阿呆よ、世人はおまえをわたしの猿と呼んでいる。しかしわたしはおまえを不平豚(ふへいぶた)と呼ぶ。ーーー不平をうなり散らすことによって、おまえはわたしの物狂い礼賛の意志をも台なしにしてしまう。

いったいおまえを不平の豚にしたそもそもの原因は何か。それはだれもおまえの気に入るようにおまえに《媚び》てくれないということだ。ーーーそれでおまえはこの汚穢所(おわいじょ)にすわりこんだのだ。たえず不平をうなり散らす種(たね)に不自由しないために。ーーーたえず《復讐》をする種に不自由しないために。虚栄心にかられている阿呆よ。つまりおまえが吹き立てている泡のすべては、復讐なのだ。わたしはおまえを見抜いている。

だが、おまえの阿呆のことばは、それに理がある場合でも、《わたしに》損害を与える」(ニーチェ「ツァラトゥストラ・第三部・通過・P.283~284」中公文庫)

BGM