白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

猫さまざま

2018年12月25日 | 日記・エッセイ・コラム
ラカン派精神科医としてと同時に思想家としても知られる斎藤環は実は猫を飼っているらしい。猫の年齢は2015年当時で6才。生きていれば9才になるはずだ。「猫はなぜ二次元に対抗できる唯一の三次元なのか」(青土社)の巻頭を飾る部分で「なぜ猫を飼うことにしたのか」という理由について斎藤が述べている文章が面白い。

簡単に言えば「猫は自立心・自尊心ともに大変高い」と言われているから、らしい。ところが実際に飼ってみるとその甘えっぷりに辟易しているという。隙あらば斎藤のそばに寄って来てはベタベタとカラダを擦り付けてスリスリしたがる。これで「ニャア」と鳴かずに「ワン」と鳴けばそれこそ犬だ、と書いている。読んで思わず微笑してしまった。

ちなみにうちの飼猫タマはまったく逆だ。「自立心・自尊心の高さ」は言語に絶する。まずもって「抱っこ」させてくれない。家族の誰かが下手に「抱っこ」しようものならその人間の甘えに対してひねりを効かせた蹴りを腹部へ的確にねじ込みすぐに跳躍して離れ距離を置く。家族の中で唯一、貰ってきた上に育ててもきた飼主による「抱っこ」だけは少しの間だが許してくれるという始末だ。けれどもタマの気性を知っているのですぐに解放してやることにしている。

もともとタマはノラ猫でさらに生まれて数日も経たないうちに迷子になっていたところを心ある人に拾われてこちらへ貰われてきたという経緯がある。血統書もなければ値段もない。あるとすれば「猫自身」のプライドとその野生的感覚のみであろう。

一、二度ビニール製の「首輪」を付けてやろうとしたことがあった。が、タマはその日のうちに荒れ狂い始め、翌日には「首輪」を噛みちぎってそこらへんにポイと捨ててしまった。人の手による「首輪」はよほどタマの自尊心を傷つけてしまったのか、ストレスのために両目の上を搔きむしり見事な「10円ハゲ」をつくっていた。

年に一度のワクチン接種の際などはもっとひどい。診察台の上に載せられるや否やここぞとばかりに「うんち」を三〜四個連続発射して主治医やスタッフを困らせてしまう。もっとも、恥ずかしい思いをするのは飼主なのだが。そしてこのエピソードは、斎藤環なら直ちにメラニー・クライン「分裂的機制についての覚書」の中で述べられているような「迫害的不安・欲求不満」による「破壊衝動」概念を想起することだろう。つまり猫を人間と比較すると、人間の0歳〜4歳児レベルの行動様式を、猫は1才になるかならないうちに身に付けてしまうということがわかる。

斎藤環は知っているだろうか。愛犬家・愛猫家のあいだではこんな名言がある。

「周囲から愛されて育てられた犬は、自分の周りの人間という存在は何ていい人ばかりなんだろう」と考える。逆に猫は、「周囲からこんなにも愛されて育てられる自分は何て素晴らしく尊く偉い存在なんだろう」と考える、と。

ところで話題は変わるが、昨今アメリカ第一主義と新自由主義の装いを新たにした複合的〔軍事=政治=産業=大学中心の〕多層的な社会形態の大々的変容が民主主義の劣化を踏み台として急激に進行している。わけてもインターネットをはじめとするテクノロジーのグローバル化は僅か数年のうちを見ただけでもまったく様変わりした。大都市ばかりか地方都市の風景/内面/イデオロギーを激変させつつ両者の間に大きな格差を再生産している。

個人的に思うのは、声高に「民主主義を守れ」などと叫ぶだけでは限界があるということだ。かつて柄谷行人が提唱したように、「民主主義プラス𝛂」がいま痛切に必要なのだと思われる。二十世紀のあの全体主義はナチス・ドイツのみによって発生したのではない。むしろナチス党の求心力は当時のドイツを取り巻くヨーロッパ諸国およびソ連がドイツよりも早く全体主義化を成し遂げていたがゆえに、ドイツ国民、とりわけ労働者大衆を不安の渦に巻き込み、その不安と不満をナチスがうまうまと利用したという歴史的事実にじっくりと着目せねばならない。

そんなわけで、しばらくはアレントでも読み返してみようと思っている。彼女はナチス・ドイツだけでなくソ連における全体主義をも経験している。そこから生まれた思想の到達過程にはまだまだ汲むべき部分が少なくないと考えるからだ。

ハンナ・アレント「人間の条件」(ちくま学芸文庫)

BGM