白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

アレントその可能性の内乱

2018年12月28日 | 日記・エッセイ・コラム
26日/朝日新聞夕刊/4面/テーブルトーク。

「生活に占める労働の割合 考えたい」とのタイトルで百木漠(立命館大専門研究員)の著書に関し、百木へのインタビューを通して記者が次のようにまとめている。ハンナ・アレントに関する。前回のブログでアレントを読み返すと述べたが、面倒なのが本音だったこともあり、ここでその代弁を務めてもらうことにしたいと思う。以下、引用。

「ドイツ系ユダヤ人の政治哲学者ハンナ・アーレントとマルクスを中心に労働について研究し、著書『アーレントのマルクス』(人文書院)で労働と全体主義についてまとめた。

アーレントは『マルクスは労働を人間の営みとして賛美した』と批判し、肥大化した労働が人びとをを私的利益の追及へと走らせ、公共的なものの衰退を招き、全体主義へとつながると説いた。だが、百木さんは『アーレントはマルクスを誤読していたが、そこにアーレントの労働思想があり、両者は近代資本主義への批判意識では共通していた』とみる。

大学卒業後、3年間会社勤めを経験した。『残業も多く、日本人の働き方に疑問を持った』。非正規雇用や格差社会、長時間労働、過労死などが社会問題化されつつあった。隣人との対話や政治的議論、ボランティアなど社会的活動の余裕さえない。そこに全体主義への道が開かれているのではと考える。『生活の中で労働の占める割合が大きくなり過ぎている。アーレントの思想を手がかりに働き方を考えていきたい』」

以上。

次にアレントから何ヶ所か引用してみよう。

「近代における労働の解放は、万人に自由を与える時代をもたらさないだけでなく、反対に、全人類をはじめて必然の軛(くびき)のもとに強制するという危険は、すでにマルクスによってはっきりと感じられていた。彼は、革命の目的は、すでに完成された労働階級の解放ではありえず、労働から人間を解放することにあるのでなければならないと主張していたのである。最初一見すると、この目的はユートピア的に見え、マルクスの教義における唯一の、厳密な意味でユートピア的な要素であるように思われる。マルクス自身の用語でいえば、労働からの解放とは、必然〔必要〕からの解放である。これは究極的には、消費からの解放であり、したがって、ほかならぬ人間生活の条件である自然との新陳代謝からの解放を意味する。しかし、ここ十年ばかりの発展を眼にし、とくにオートメーションがますます発達したために開かれた可能性を眼にすると、昨日のユートピアが明日のリアリティになるのではないかと疑っても当然であろう。もし、そうなれば最終的に人間の生命を拘束している生物学的サイクルに固有の『労苦と困難』として残るのは消費の努力だけであろう」(アレント「人間の条件・P.192」ちくま学芸文庫)

「ユートピア」。なるほど。マルクス主義を恣意的に擁護するつもりは全然ない。しかしマルクス主義ではなくマルクスに限って言えば、マルクスはところどころでユートピア思想に言及しつつ事実上のユートピア批判を行っているのではなかったか。第一に共産主義の定義にしてからが、ともすればあちこちで発生しがちなユートピア思想に対する批判だ。

「共産主義というのは、僕らにとって、創出されるべき一つの《状態》、それに則って現実が正されるべき一つの《理想》ではない。僕らが共産主義と呼ぶのは、<実践的な>現在の状態を止揚する《現実的な》運動だ。<僕らは単に次のことを記述するだけにしなければならない>この運動の諸条件は<眼前の現実そのものに従って判定されるべき>今日現存する前提から生じる」(マルクス=エンゲルス「ドイツ・イデオロギー・P.71(岩波文庫)

さらに。

「われわれは世人に対して教条主義的に新しい原理をふりかざして、ここに真理がある、ここに跪け!というように立ち向かうのではありません。ーーーわれわれは世人に対して、君の闘争から手を引け、そんな闘争は愚かなことだ、われわれが君に闘争の真のスローガンを呼びかけてあげよう、などと言いはしません。われわれは世人に対して、ただなにゆえに彼らが本来たたかっているのかという理由を示すだけであって、そして意識とは、世人がそれを獲得しようと思わない場合でも、獲得《しないではいられない》ものなのです」(マルクス「マルクスからルーゲへ」『ユダヤ人問題によせて・ヘーゲル法哲学批判序説・P.145』岩波文庫)

こうも。

「労働者階級は、コミューンから奇蹟を期待しはしなかった。彼らは《人民の命令》〔布告〕によって、はじめられるべき、何らでき合いのユートピアをももたない」(マルクス「フランスの内乱・P.103」岩波文庫)

またこうも。

「人間が彼らの労働生産物を互いに価値として関係させるのは、これらの物が彼らにとっては一様な人間労働の単に物的な外皮として認められるからではない。逆である。彼らは、彼らの異種の諸生産物を互いに交換において価値として等値することによって、彼らのいろいろに違った労働を互いに人間労働として等値するのである。彼らはそれを知ってはいないが、しかし、それを行うのである」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第一章・P.138」国民文庫)

「それを知ってはいないが、しかし、それを行う」という叙述に至っては、フロイトを思わせる点はさておき、ユートピアどころか逆にディストピア化を覚悟の上での真っ暗闇での賭けでしかないことの強調であり、有名な言葉で言えば「命懸けの飛躍」なのではないだろうか。

次のような、いわば「奥ゆかしい」受動的態度にも注目すべき点がある。

「すなわち、社会化された人間、結合された生産者たちが、盲目的な力によって支配されるように自分たちと自然との物質代謝によって支配されることをやめて、この物質代謝を合理的に規制し自分たちの共同的統制のもとに置くということ、つまり、力の最小の消費によって、自分たちの人間性に最もふさわしく最も適合した条件のもとでこの物質代謝を行なうということである。しかし、これはやはりまだ必然性の国である。この国のかなたで、自己目的として認められる人間の力の発展が、真の自由の国が、始まるのであるが、しかし、それはただかの必然性の国をその基礎としてその上にのみ花を開くことができるのである」(マルクス「資本論・第三部・第七篇・第四十八章・P.339」国民文庫)

アレントの文章に戻ろう。

「将来のオートメーションの危険は、大いに嘆き悲しまれているような、自然的生命の機械化や人工化にあるのではない。むしろ、その人工性にもかかわらず、すべての人間的生産力が、著しく強度を増した生命過程の中に吸収され、その絶えず循環する自然的サイクルに、苦痛や努力もなく、自動的に従う点にこそ、オートメーションの危険が存在するのである。機械のリズムは、生命の自然のリズムを著しく拡大し、強めるであろう。しかし、それは、世界にかんして生命がもつ主要な性格ーーー耐久性を食い尽すことーーーを変えるのではなく、逆にそれをもっと恐ろしいほど拡張するだろう」(アレント「人間の条件・P.193~194」ちくま学芸文庫)

例えばインターネットを始めとする諸機械の全世界的普及はそれに従事するすべての労働者の働き方を人間の側にではなく諸機械の側の操作手法に適応させる。

「『教師としての機械』。ーーー機械は、群集的人間のーーー各人がただひとつのことだけをすればよいような動作がなされるときのーーー歯車の噛み合い(一致協力)を身をもって教える。つまり機械は党派の組織や作戦用兵の模範となる。他方機械は、個人的な自主性を教えない。かえって機械は多数の人間から《一つの》機械を作り、個々の人間からは《一つ》目的への道具を作る。機械の最も一般的な効果は、集中の利益を教えることである」(「人間的、あまりに人間的2・二一八・P.433」ちくま学芸文庫)

しかしそれと共にかつては五人で三ヶ月間かかった仕事が今ではたった一人で三時間でできるようになった。一日八時間労働として必要労働が三時間で済むのなら、残りの五時間は労働から解放されて「余暇」や「休暇」に廻すことが可能になるはずだ。ところがそう単純にことがはかどるわけではない。一日八時間で契約している限り、残りの五時間もまた同様に労働しなくてはならない。「契約」=「約束」は死守されねばならない。それこそ社会の掟である。むしろ、残された五時間分は始めの三時間分と同様に有効活用されなくてはならず、必要労働が三時間で済んだからといって残りの五時間も同様に働くことを何ら妨げはしない。逆にもし「余暇」や「休暇」に廻すことが時間的に可能になったのなら、その「余暇」や「休暇」を率先して「消費」に当てさせようとする社会的強制力の暴力性によって「消費行動」さえも「労働」として感じ取られるようになる。「消費」は自動的に、なおかつ無意識的に「仕事の続き」である「かのように」感じ取られる転倒が起こる。そしてこの転倒した傾向は転倒したまま次第に速度を増し、暗黙のうちに強制的暴力性を増大させていく生活態度を常態化させる。何らの契約変更もなしに「延長された労働」とでもいうべきか。とはいえ勿論、この場合に顕在化するだろう「労働」と化した「消費」だが、それは名目上どこまでいっても「余暇・休暇」の規定範囲を出ない。法的契約でもあるからだ。従って、テクノロジーのグローバルな発展に伴って時間的にも空間的にも可能となり拡大もされた「余暇・休暇」が、その実、逆説的に暴力的強制性を持つ「延長された労働」としてしか考えられなくなるにしても、あくまで「余暇・休暇」として規定され「余暇・休暇」として取り扱われる限り、その「消費行動」の内実は、賃金が一切支払われない延長された不払い労働でしかない。こうして、テクノロジーの爆発的発展に伴ってこのような「余暇・休暇」の実質的「不払い労働の延長化」が加速度的に拡張されていく。

また仮に極めて単純な意味で「余暇・休暇」が実現したとしよう。だがそれは直ちに消費に当てられなくてはならない。消費することが社会の至上命題となる。日本では既にそうなってきた。マスコミは大声で言う。日本人の消費行動はバブル崩壊を経て「モノ消費からコト消費へ」変わってきたと。見た目は確かにそうかもしれない。そうだとしよう。しかし「モノ」から「コト」への消費対象の変遷は次の消費対象への過渡的現象に過ぎない。資本主義の真髄はそんな甘ったるいロマン主義的搾取過程などとうの昔に経験・学習し終わっている。さて、「モノ」・「コト」の次は何だろうか。「ココロ」だ。常に不安定な世情の中を生きること、しかも科学的な操作を伴ってより一層高齢化(長期化)した「生命・時間」の「資本化」および「税収獲得」がその狙いだという動かし難い世の動向がある。新自由主義の欲望は「モノ」から「コト」、「コト」から「ココロ」の消費へと対象を次々に置き換えていく。そしてそこからさらなる資本増殖をわがものとして次の投資へといささかの迷いもなく回転させることしか知らない。少子高齢化の先進国=日本は今、世界中の中央集権的多国籍企業ならびに国家政府諸機関から注目を集めている。高齢者の寿命の科学的操作による長期化とともに、社会はいかにして高齢者を守っていくのか、ではなく、長期化した寿命によって生じた資本価値としての高齢者から、世論はいかにして資本を実現するのか。そのベストな方法はどのようなシステムなのかと。

「同一性というのは、労働と消費に依存する社会に一般的に見られ、そのような社会の画一性に表現されている。というのもこの同一性は、共同労働の肉体的経験と密接に結びついているからである。共同労働においては、労働者の集団は、労働の生物学的リズムによって統合され、各人はもはや個人ではなく実際に他のすべての人たちと一つになっていると感じるようになる。このおかげで、たしかに、労働の労苦と困難は和らげられる。それは、行進で足並みをそろえると一人一人の兵士の歩く努力が和らげられるのとまったく同じである。したがって<労働する動物>にとって、『労働の意味と価値は完全に社会条件にかかっている』というのはまったく本当である。すなわち、労働の意味と価値は、『適切にいえば職業的態度』にかかわりなく、労働と消費の過程がどの程度円滑に、また容易に、機能できるかにかかっているのである。困るのはただ、労働によって最良の『社会条件』というのは、ひるがえって人間がアイデンティティを失うような条件であるということだけである。多数者を一つのものにするこの統合性は、基本的に反政治的なものである。この統合性は、政治共同体や商業共同体に一般的な共同性のまさに対極に立つ。これらの共同体の共同性はーーーアリストテレスの例をとればーーー二人の医者の間の団体から成るものではなく、医者と農夫の間、『そして一般的には異なっていて等しくない人びとの間』で成りたつものだからである」(アレント「人間の条件・P.341~342」ちくま学芸文庫)

アレントが引用しているアリストテレスから。

「詳言すれば、かような共同関係の生ずるのは二人の医者の間においてではなくして、医者と農夫との間においてであり、総じて異なったひとびとの間においてであって、均等なひとびとの間においてではない。かえってこれらのひとびとは均等化されることを要するのである」(アリストテレス「ニコマコス倫理学・上・P.187」岩波文庫)

アレントはこう続ける。

「公的領域につきものの平等というのは、必ず、等しくない者の平等のことであり、等しくないからこそ、これらの人びとは、ある点で、また特定の目的のために、『平等化される』必要があるのである。そう考えると平等化要因は人間『本性』から生じるのではなく、外部から生じるのである。それはちょうどーーーアリストテレスの例を続けるとーーー医者と農夫の等しくない活動力を等しくする外部要因として、貨幣が必要とされるのと同じである」(アレント「人間の条件・P.342」ちくま学芸文庫)

ここで言われている人間「本性」とは何か。ただ単なる人間「存在」のことではないだろうか。そしてそれに価値を与え、さらに与えられた価値を高くもし低くもする要因は「外部から生じる」。もし仮に、二人の人間に対して同一の価値を持つ「貨幣」が一度に与えられた場合、両者はその時始めて同一価値を有する「平等」な人間だと認められる。と同時についさっきまであった両者の間の差異はおおい隠されてしまって跡形もない。外部=貨幣は到着するや否や、或る存在と他の存在との間にあった差異の歴史性を隠蔽してしまう。そういうことだ。アリストテレスとはまた違った意味でマルクスは「貨幣」の「均等化」作用を次のように述べる。

「生産物交換は、いろいろな家族や種族や共同体が接触する地点で発生する。なぜならば、文化の初期には独立者として相対するのは個人ではなくて家族や種族などだからである。共同体が違えば、それらが自然環境のなかに見いだす生産手段や生活手段も違っている。したがって、それらの共同体の生産様式や生活様式や生産物も違っている。この自然発生的な相違こそは、いろいろな共同体が接触するときに相互の生産物の交換を呼び起こし、したがって、このような生産物がだんだん商品に転化することを呼び起こすのである。交換は、生産部面の相違をつくりだすのではなく、違った諸生産部面を関連させて、それらを一つの社会的総生産の多かれ少なかれ互いに依存し合う諸部門にするのである」(マルクス「資本論・第一部・第四篇・第十二章・P.215~216」国民文庫)

無数の「共同体」がある。それと同じだけの「生産様式」=価値体系がある。それらの接触から諸商品の「社会的総依存」が生じる。次第により一層巨大な価値体系ができ上がる。「交換」されるのは常に貨幣とでなければならない。さらに共同体がだんだん大きくなるに連れて流通する貨幣の広さも広大になって行く。近代も後期になると世界を制覇した「世界貨幣」の流通によって世界自身が「均等化」される。あるいは均質空間が出現する。

だが均質空間の出現は常にその「同一的価値体系」にまとめ込まれたまま推移してしまうところに問題がある。ソ連の失敗は、労働者の運動がもし仮に政治的な色彩を帯びたものであった限り、いつも既に宿命的に失敗ないし制圧される構造になっていたことだ。というのは、ソ連は名目上は「労働者国家」(労働社会)であり、実際に働いている労働者に何らかの異議があったとしても、ソ連国家(労働者のための政治権力体制)に圧力をかけるということは形式的体系的な矛盾だからだ。従ってソ連における労働運動はただ単なる矛盾と断定され都合良く〔首尾よく〕処理されるほかなくなる。

「今日、労働者はもはや社会の外部にはいない。彼らは社会の一員であり、他のすべての人たちと同じように賃仕事人である。労働運動の政治的重要性は、今では、他の圧力集団の重要性と同じものになっている。もし、人民という言葉を、住民とも社会とも違う真の政治団体と理解するなら、労働者が百年近くもその人民全体を代表しえた時代は去っている。(ハンガリー革命で労働者たちは他の人びととまったく区別がなかった。一八四八年から一九一九年まで、政党ではなく評議会にもとづく議会制度という観念は、ほとんど労働者階級の独占物であった。しかし、ハンガリー革命では、この観念は、すでに人民全体の一致した要求になっていたのである)。労働運動は、そもそも最初からその内容と目的が多義的であった。その上、最も発達した経済をもつ西側世界では、労働者階級は社会の枢要部分となり、独自の社会的・経済的権力となった。またロシアやその他の非全体主義的条件のもとでも、住民全体が『首尾よく』労働社会に組み込まれた。このような事態が起こったところではどこでも、労働運動は、ただちに人民を代表する性格を失い、したがってその政治的役割を失ったのである」(アレント「人間の条件・P.347~348」ちくま学芸文庫)

またこうも。

「私たちは以前は、権力は、人びとが共に集合し『協力して活動する』とき生まれ、人びとが分散する途端に消滅すると述べた。人びとが集合する出現の空間やこの公的空間を存続させる権力と異なり、人びとを一緒にさせておくこの力は、相互的な約束あるいは契約の力である。主権というのは、人格という個人的な実体であれ、国民という集合的な実体であれ、孤立した単一の実体によって要求される場合、常に虚偽である。しかし、相互の約束によって拘束された多数の人びとの場合には、ある限定されたリアリティをもつ。この場合の主権は、結果的に、未来の不可測性をある程度免れている場合に生まれる。その程度というのは、人びと全員をなぜか魔法のように鼓舞する単一の意志によって結びつけられた人びとの団体の意味ではない。そうではなく、それは、同意された目的によって結ばれ、一緒になっている人びとの団体の主権であり、そこで交わされた約束は、この同意された目的にたいしてのみ有効であり、拘束力をもつのである。完全に自由で、いかなる約束によっても拘束されず、いかなる目的によってもしばられていない人びとにたいし、この種の主権は文句のない優位を極めてはっきりと示している。この優位は、未来を現在であるかのように扱う能力にある。いいかえると、権力が効果を発揮する次元そのものが、まったく奇蹟と思われるほど大きく拡大されるのである。ニーチェは、道徳的現象に異常なほど敏感であったために、すべての権力の源泉を孤立した個人の意志の力に求めるという近代的偏見を免れなかった。それにもかかわらず、彼は、約束の能力(彼が呼んでいたところでは『意志の記憶』)こそ、人間生活を動物生活から区別するものであると考えていた」(アレント「人間の条件・P.382~383」ちくま学芸文庫)

要するに「約束をなしうる動物の育成」。全体主義分析の急所がここにある。しかしいかにしてそれが可能だったか。アレントにならってニーチェに触れておこう。

「意識の扉や窓を一時的に閉鎖すること、意識下における隷属的な諸器官が相互に恊働したり対抗したりするための喧噪や闘争に煩わされないこと、新しいものに、わけてもより高級の機能や器官に、統制や予測や予定に(われわれの有機体の組織は寡頭政体だから)再び地位が与えられるようになるための僅かばかりの静穏、僅かばかりの意識の《白紙状態》ーーーこれが、前述のように、心的秩序・安静・礼儀のいわば門番であり執事であるあの能動的な健忘の効用である。このことからして直ちに看取されることは、健忘がなければ、何の幸福も、何の快活も、何の希望も、何の矜持も、何の《現在》もありえないだろうということだ。この阻止装置が破損したり停止したりした人間は、消化不良患者にも比せらるべきものだ(そして単に比せらるべきものより以上のものだ)。ーーー彼は何事にも『決着をつける』ことができないーーーこの必然的な健忘な動物にあっては、健忘は一つの力、《強い》健康の一形式を示すものであるが、しかもこの同じ動物が、今やそれと反対の能力を、すなわちある場合に健忘を取りはずすことを助けるあの記憶という能力を習得した、ーーーここにある場合とは、約束をしなくてはならない場合のことだ。従ってそれは、単にいったん刻み込まれた印象から再び脱却することができないというような受動的な状態では決してなく、また単にいったん質入れして再び請(う)け出すことができなくなった言質の惹き起こす消化不良でもない。むしろ、再び脱却したくないという能動的な《意欲》であり、いったん意欲したことをいつまでも継続しようとする意欲であり、本来の《意志の記憶》である。そこで、本来の『私はしたい』・『私はするであろう』と、意志の真の放出である意志の《活動》との間には、一群の新奇な事物や事情、新奇な意志活動すらもが躊躇なく挿入されうることになり、しかもその際この長い意志の連鎖が断ち切られてしまうというようなことはない。しかし、これらすべての事柄の前提となるものは何か!そういう風に未来を予め処理することができるようになるためには、人間はまず、必然的な生起を偶然的な生起から区別して、それを因果的に考察する能力、遥かな未来の事柄を現在の事柄のように観察し予見する能力、何が目的であり何がそれの手段であるかを確実に決定する能力、要するに、計算し算定する能力を習得してかかることを、いかに必要としたことか!ーーー一個の約束者として《未来としての》自己を保証しうるようになるためには、人間は自らまずもって、自己自身の観念に対してもまた《算定し得べき》、《規則的な》、《必然的な》ものになることをいかに必要としたことか!」(ニーチェ「道徳の系譜・P.62~64」岩波文庫)

「算定し得べき」とある。「計算し算定する能力を習得してかかることを、いかに必要としたことか!」とニーチェはいう。つまりここでは「数学」もまた「体系」の内部で「体系」とともに告発されている。

「『自称学問としての言語』。ーーー文化の発展に対する言語の意義は、言語において人間が他の世界に並ぶ一つの自分の世界をうちたてた、ほかの世界を土台から変えて自分がそれに君臨できるほど、それほど堅固であると考えたような一つの立脚点をうちたてた、という点にある。人間は、事物の概念や名称を《永遠の真理》であると長い期間を通じて信じてきたことによって、動物を眼下に見下ろしたあの誇りをも身につけてきたのである。じっさい彼は言語をもつことが世界の認識をもつことだと思いこんだ。言語の形成者は、自分が事物にほんの記号を与えているにすぎない、と信じるほどには謙虚でなく、むしろ彼は、事物に関する最高の知を言葉で表現したのだ、と妄想した。事実、言語は学問のための努力の第一段階なのである。ここでもまた、もっとも強い力の泉が湧きでてきた源は、《真理をみつけたという信仰》である。ずっと後になってーーー今やはじめてーーー言語を自分たちが信仰してきたためにとんでもない誤謬を流布してしまったということが、人々の意識にのぼってくる。さいわいにもあの信仰にもとづく理性の発展をふたたび逆行せしめるには、もう手遅れである。ーーー《論理学》もまた現実世界には決して相応じるもののない前提、たとえば諸事物の一致とか異なった時点における同じ事物の同一性とかいう前提にもとづいている、だがその学問は現実とは相反する信仰(そのようなものが現実世界にたしかにあるということ)によって成立したのである。《数学》に関しても事情は同様である。もしはじめから自然には決して精密な直線とかほんとうの円とか大きさの絶対的な尺度などはない、と知られていたら、数学はきっと成立していなかったであろう」(ニーチェ「人間的、あまりに人間的1・十一・P.34~35」ちくま学芸文庫)

ニーチェは「数学」を「言語」と共に問題視している。アレントはいう。

「労働社会の最終段階である賃仕事人の社会は、そのメンバーに純粋に自動的な機能の働きを要求する。それはあたかも、個体の生命が本当に種の総合的な生命過程の中に浸されたかのようであり、個体が自分から積極的に決定しなければならないのは、ただその個別性ーーーまだ個体として感じる生きることの苦痛や困難ーーーをいわば放棄するということだけであり、行動の幻惑され『鎮静された』機能的タイプに黙従することだけであるかのようである。近代の行動主義的理論で厄介なのは、それが誤っているということではなく、それが正しいものになったということであり、それが実際に近代社会のある明白な傾向を概念化するのに最も可能性のある方法であるということである。たしかに近代は人間の活動力の先例のない、将来を約束するような爆発力を持って始まった。しかしその近代は、歴史上最も不活発で、最も不毛な受身の状態のままで終わるかもしれない」(アレント「人間の条件・P.500」ちくま学芸文庫)

個別性を喪失した人間、自動人間と化した人間はまだ人間と呼べるだろうか。だからといって、何もここでいわゆる人間主義(ヒューマニズム)の危機を論じたいわけではない。むしろ安易なヒューマニズムの謳歌が一体どのような過程を経ていかに簡単にファシズムへ転倒するかが問題なのだ。容赦しないのは反人間主義でもない。そうではなくて、容赦しないのは民主主義と共に何食わぬ顔で民主主義と共存していて常にそこにある人間社会なのであり、そのような人間社会を人間社会たらしめている「体系」こそ問われるべきなのだ。ところでこの「体系」は何を起源として世界の「体系化」を果たしたのだろうか。インターネット出現の遥か以前にそれは整っていた。貨幣だけでもなく、労働だけでもない。無論、人間だけでもないが、人間が人間として生きていくには最低限必要なものだ。それも観念的理念的(イデアル)なものでは決してなく根本的に物質的(マテリアル)なものだ。さらにそれは他の何よりも「体系」を「体系たらしめ」ている。言語とその「文法」だ。ちなみにニーチェは「特定の文法的機能の呪縛は究極のところ《生理学的》価値判断と種族的条件の呪縛」だとする一方、同時に、異なった複数の言語体系の差異(複数の同一的価値共同体の間の差異)が接触する地点で生じる歴史性を見出している。

「個々の哲学的概念は何ら任意なもの、それだけで生育したものではなく、むしろ互いに関係し類縁を持ち合って伸長するものであり、それらはどんなに唐突に、勝手次第に思惟の歴史のうちに出現するように見えても、やはり或る大きな大陸の動物のすべての成員が一つの系統に属するように、一つの系統に属している。このことは結局、極めて様々の哲学者たちもいかに確実に《可能な》諸哲学の根本図式を繰り返し充(み)たすか、という事実のうちにも窺(うかが)われる。彼らは或る眼に見えない呪縛(じゅばく)のもとに、常にまたしても新しく同一の円軌道を廻(めぐ)るのである。彼らはその批判的または体系的な意志をもって、なお互いに大いに独立的であると自ら感じているであろう。彼らのうちにある何ものかが彼らを導き、何ものかが一定の秩序において次々と彼らを駆り立てる。それはまさしく概念のあの生得的な体系性と類縁性とにほかならない。彼らの思惟は実は発見ではなく、むしろ再認であり、想起であり、かつてあの諸概念が発生して来た遥遠な大昔の魂の全世帯への還帰であり帰郷である。ーーーそのかぎりにおいて、哲学することは一種の高級な先祖返りである。すべてのインドの、ギリシアの、ドイツの哲学の不思議な家族的類縁性は、申し分なく簡単に説明される。言語上の類縁性の存するところ、まさにそこでは文法の共通な哲学のおかげでーーー思うに、同様な文法的機能による支配と指導とのおかげでーーー始めから一切が哲学大系の同種の展開と順序とに対して準備されていることは、全く避けがたいところである。同様にまた、世界解釈の或る別の可能性への道が塞(ふさ)がれていることも避けがたい。ウラル・アルタイ言語圏の哲学者たち(そこにおいては、主語概念が甚だしく発達していない)が、インド・ゲルマン族や回教徒とは異なった風に『世界を』眺め、異なった道を歩んでいることは、多分にありうべきことであろう。特定の文法的機能の呪縛は究極のところ《生理学的》価値判断と種族的条件の呪縛である。ーーー以上は、観念の由来に関するロックの浅薄さを斥けるためである」(ニーチェ「善悪の彼岸・P.38~39」岩波文庫)

BGM