ネット検索してみたところ次のような数値が出た。
「不倫エロ」=5500万件。
「人妻エロ」=1億4200万件。
「不倫エロ」より「人妻エロ」の方が8700万件も多い。圧倒的な差だ。しかし、不倫はいかにして人妻に負けたのか。あるいは人妻はいかにして不倫を制圧したのか。それが問題だ。
「たしかに芝居見物は姦淫が罪であるようには罪でないのかもしれません」(内村鑑三「余はいかにしてキリスト信徒となりしか・P.52」岩波文庫)
内村鑑三は「芝居」と「姦淫」とを別々に分けて考えている。そして「姦淫」に比べれば「芝居見物」は「罪」のレベルが異なる。「罪」は軽いと言う。いずれにしても内村鑑三の信仰には身体に対する激烈な蔑視と抑圧がある。けれども、ネット検索された数値は、限定的とはいえ、「姦淫」と「芝居」との「合成品(AV)」へ向けられた人類の関心の高さの一端を如実に反映させている点で容赦がない。複合施設的商品経済の世界では両者(姦淫および芝居)は決して別々ではありえない。「姦淫」も「芝居」も人間の行為である。もし仮に「姦淫」と「芝居」とを無理に分割しようとすると、その分割が分割自身を通して逆に繋がり合ってしまうという逆説が生じる。この逆説は、分割されるものどうしが、あらかじめ「必然的」に「一様」で「同等」なものとして「均質化」されているがゆえに可能となる。両者の「均質化」が分割を逆に連続性へと置き換えてしまう契機なのだ。つまり問題は「理性的人間」と「非-理性的人間」との分割が、分割にもかかわらず、結果的に連続性へと転倒する点にある。
ニーチェはいう。
「これこそは《責任》の系譜の長い歴史である。約束をなしうる動物を育て上げるというあの課題のうちには、われわれがすでに理解したように、その条件や準備として、人間をまずある程度まで必然的な、一様な、同等者の間で同等な、規則的な、従って算定しうべきものに《する》という一層手近な課題が含まれている」(ニーチェ「道徳の系譜・P.64」岩波文庫)
ニーチェのこの一節を踏まえてフーコーが言うように、狂人がなぜ分割されたかという理由は、狂人が「人間」としては「必然的」に「一様」で「同等」なものとして「均質化」されたことが上げられる。狂人はなるほど非-理性の存在ではあるけれども、「人間」としては「同等・一様・均質」であるがゆえに始めて「狂った人間」という概念が発生し、従って「狂った人間」はあくまで「狂った人間」して監禁・排除される対象と化した。こうして人間としては「均質的存在」だと認められた以上、狂人は鉄格子の内部へ場を移すべき存在へと変貌する。このことのうちに、理性と非-理性(狂気)との分割が、その実、人間としては「同等」だとして理性との連続性が保証される一方、にもかかわらず「狂った人間」としては体良く世間から隔離される対象となった経緯がある。この歴史性を忘れてはいけない。
そして「姦淫」と「芝居」との「合成品(AV)」は、その意味内容が理性的であるにせよそうでないにせよ、「同等」な人間どうしの行為の製作物だと認定され他のものと交換可能なものとして認められうる以上、政治的宗教的官僚的御都合主義によって、いついかなる時にでもその現実的存在を左右・処罰できる単なる物的対象=商品となった。「姦淫」と「芝居」との「合成品(AV)」は今や新自由主義的貨幣経済システムの一部を見事に構成するのだ。管理権力の側から見て理性の範囲内として認められる場合、社会は、一方で「姦淫」と「芝居」との「合成品(AV)」を商品として奔放に売買して多額の利益を上げる。その一方でその同じ社会は、同じ「姦淫」と「芝居」との「合成品(AV)」が「狂った人間」の所業として認められる場合、再び鉄格子の内部へ監禁・排除して売買を中止させるがそのコピー商品は出回り続けてさらなる利益を生む。だがしかし、「狂って」いるかどうか判断する権利は一般市民の側には既になく、民主主義的選挙を通して選ばれた管理権力の側に移っている。いずれにしても「姦淫」と「芝居」との「合成品(AV)」は「自然」で「一様」で「同等」で「均質的」な人間の行為としては確かに認められているため、それを「狂った人間」の所業として社会から分割-排除するのも逆に単なる「人間」の所業として社会の表面に復帰させてやるのも、「人間/狂人」の連続性が成立しているがゆえであり、にもかかわらずその時その時の権力装置の都合次第なのだ。ともあれしかし、これらの売買から税収(議員報酬含む)を得ている国家は理性的だろうか、それとも非-理性的だろうか。なお多くの要素が多元的・多層的に問われねばなるまい。
ところで、両者(姦淫および芝居)は決して別々ではない、両者は同じ国家の共同性のうちにあると知っても、「姦淫」の中に「芝居」的行為が混じり込んでいることをわざわざ示唆したいわけではなく、検閲のように「芝居」の中に「姦淫」的要素が見受けられうると指摘したいわけではさらにない。むしろそれではまるで戦前戦中の治安維持法だ。歴史的逆戻りでしかない。ところが極めて安易な方法で現実的な快楽を享受するばかりの一群(金利生活者、大株主、大土地所有者など)やこれもまた現実的な痛苦に喘いでばかりいる人々(低所得者層、生活保護世帯、日雇い労働者など)が流通貨幣を介して存在する以上、また同時に流通貨幣を介する限りにおいてしか存在できない以上、国家という「共同体」は、吉本隆明のいうような単なる「共同幻想」とは違っている。そうではなくて、重要なのは、両者(姦淫および芝居)はどの瞬間も「貨幣を介して」同時にグローバルな社会的連関のもとにあるということだ。この謎を解くためには、両者はーーーこう言ってよければ両者だけでなく検閲当局もまたーーーいつもすでに熱狂的な社会的-共犯関係の中に没入しているということが前提として表象に浮かべられていなくてはならない。さらにこれらの「質」と「量」の中にはたった一人のキリスト教徒も決して入っていないという根拠はどこにも見当たらない。だが逆にすべてがキリスト教徒であるなどと言いたいわけではまったくない。
フロイトはこう述べている。
「内的知覚の外界への投射は原始的メカニズムであり、たとえばわれわれの感覚的知覚もこれにしたがっている。したがってこのメカニズムは普通われわれの外界形成にあずかってもっとも力のあるものである。まだ充分に確かめられてはいないが、ある条件のもとでは、感情や思考の動きといった内的知覚までが感覚的知覚と同様に外部に投射され、内的世界にとどまるべきはずのものが、外部世界の形成に利用されるのである。このことは発生的にはおそらく、注意力のはたらきが本来内部世界にではなく、外界から押しよせる刺激に向けられていて、内的心理過程については快・不快の発展についての情報しか受けつけないということと関連があるのであろう。抽象的思考言語ができあがってはじめて、言語表象の感覚的残滓は内的事象と結びつくようになり、かくして内的事象そのものがしだいに知覚されうるようになった」(フロイト「トーテムとタブー」『フロイト著作集3・P.202~203』人文書院)
少し補足説明がいるだろう。フロイトは「発生的にはおそらく、注意力のはたらきが本来内部世界にではなく、外界から押しよせる刺激に向けられてい」ると言っている。この「外界から押しよせる刺激」とは何だろうか。一言で言ってしまえば、それは、人間にとっての脅威だ。自然の脅威、異民族の侵入、戦争、共同体の内と外とを問わず発生する様々な暴力的事象などだ。こういう事態に直面して人間はどういう態度で臨み、そして何を獲得したか。
ニーチェはこう述べる。
「外へ向けて放出されないすべての本能は《内へ向けられる》ーーー私が人間の《内面化》と呼ぶところのものはこれである。後に人間の『魂』と呼ばれるようになったものは、このようにして初めて人間に生じてくる。当初は二枚の皮の間に張られたみたいに薄いものだったあの内的世界の全体は、人間の外への放(は)け口が《堰き止められて》しまうと、それだけいよいよ分化し拡大して、深さと広さとを得てきた。国家的体制が古い自由の諸本能から自己を防衛するために築いたあの恐るべき防堡ーーーわけても刑罰がこの防堡の一つだーーーは、粗野で自由で漂泊的な人間のあの諸本能に悉く廻れ右をさせ、それらを《人間自身の方へ》向かわせた。敵意・残忍、迫害や襲撃や変革や破壊の悦び、ーーーこれらの本能がすべてその所有者の方へ向きを変えること、《これこそ》『良心の疚しさ』の起源である」(ニーチェ「道徳の系譜・P.99」岩波文庫)
と同時にフロイトのいう「抽象的思考言語ができあがっ」った。もしくは獲得した。言語獲得の過程はまた「内面化」の過程であり、すなわち「思考」や「反省」といった行為はここに発生の起源を持っている。
マルクス=エンゲルスも同じく次のように言っている。
「『精神』には物質が『憑(つ)きもの』だという呪(のろ)いがそもそものはじめから負わされている。そして物質はここでは動く空気層、音、約言すれば言語の形式において現われる。言語は意識と同じほど古い」(マルクス=エンゲルス「ドイツ・イデオロギー・P.59」国民文庫)
「精神」(内面)は「言語」と同い年だ、と。両者は同時に発生し同時に成長した。さらに「言語」は「物質」だという点が起源にはある。そして内面の発達=言語の質的量的獲得の増大に連れて、言葉で何かを「語る・書く・表現する」という行為が常態化して来る。しばらくすると世界中で当たり前のこととされるようになる。そうして言語表現がどこでも当たり前の常識として流通するようになった時、内面の発生は言語の起源と同時であるにもかかわらず、どういうわけか「抽象的・観念的(イデアル)」なものではなくて元来「物質的(マテリアル)」なものであるという「起源」が忘れ去られる。そして逆に、物質的なものよりも観念的なもののほうが先に「自然」に発生したという遠近法的倒錯/転倒が瞬時に起こり蔓延し常識化する。
内村鑑三に戻ろう。彼の弟子格だった志賀直哉。やがてキリスト教を離れていわゆる自然主義へ移行するわけだがーーー、一九二四年(大正十三年)十二月、「人妻」という言語がその「魔性的」な意味の「競り上げ」に関して極めて重要な役割を果たしている、ということを早くも感覚的に知っていた節がある。勿論当時はインターネットもないしネット検索など知るよしもなかったわけだが。ちなみにこの年はロシアでレーニンが死に、中国で第一次国共合作が成立、日本では築地小劇場開場、孫文が神戸に立ち寄ったりもしている。
志賀は次のように書く。
「この話は僕には全く意外だった。この話で僕は僕の頭にある薫さんという人間を全く作り変えねばならなかった。何処にそういう熱情をあの人は隠しているのだろう?そういう熱情が今も尚あの人の何処かに隠されてあるのだろうか、そう思った。が、僕がそう思ったのも実は束の間だった。僕はそれでこそ、あの人があの人らしくなった、それでこそあの人が丸彫りになったのだ、と、直ぐこんなに思うようになった。僕は今まであの人を余りに平面的に見ていた。それは岸本があの人の妊娠に幻滅を感じた事が余りに平面的な見方からであったと同様であると考えた。
それから年月(としつき)が経つにつれ段々に薫さんという人が僕には明瞭(はっきり)して来た。同時に平凡にもなって来たが、薫さんに対する知らず知らずの好意は少しも変らなかった。姉の家(うち)で落ち合ったりすると、その日一日、或いは翌日(よくじつ)までも私は云いしれぬ淡い幸福を感ずる事がある。然しそれが薫さんを自分が恋しているからだとは僕は少しも考えなかった。臆病者の僕にはそれは考えられない。人妻を恋する。ーーーそういう経歴を持った人だから恋する、若(も)しこうなって来ると、それは尚考えてはならぬ事だった。が、事実は僕はやはり薫さんを恋していた。只それを意識に上らせる事が出来なかった。これは臆病といえば臆病だが、人間はそれでいいのだと思う。時には人妻を好きにならぬとはかぎらない」(志賀直哉「冬の往来」『小僧の神様・城の崎にて・P.205~206』新潮文庫)
こうある。
「人妻を恋する。ーーーそういう経歴を持った人だから恋する」
大胆と言えばいいのか。率直と言えば率直すぎる文章だ。その相手の名は「薫さん」とある。最初に夫がいた。妊娠も経験する。夫の生存中に「岸本」という男性と不倫してしまい岸本を愛するようになる。が、岸本はアメリカへ渡り、その後に満州へ出かけたきり消息不明。夫はまだ生きている。そんな時、話者「僕」が「薫=人妻」に欲情の「競り上げ」を覚えるという展開だ。次のことに気を付けたい。
始めのうちは「淡い幸福を感ずる事がある」程度でしかなかった。「僕」は「臆病者」だった。「臆病者」の「僕」が、「薫」=夫のいる「人妻」という「言葉」を突きつけられた時、始めて「恋する」=欲情を「競り上げ」=「意識に上らせる」。一見、ただ単なる三角関係に見える。三角関係の成立と同時に欲情が始まっている「かのように」見えはする。フロイト経由のエディプス・コンプレクスのように。しかしそれだけでは、いつの時代でもどこにでもありそうなーーー例えば近松門左衛門の作品に出てくるようなーーーただ単なる男女の三角関係でしかない。なるほど目に映るのは三人の男女が繰り広げる単なる痴情沙汰に過ぎない。だがこれはそうではないのだ。近松作品と近代文学の違いもそこにある。「臆病者」の「僕」が途端に大胆な思いに駆られ開き直ってしまう瞬間は、まさしく「人妻」という言葉とばったり出会った瞬間と一致する。そしてこの欲情は想像的幻想的な奇怪奇抜この上ないあらゆる性的技法を脳内全域を駆使し思い切り描き尽くし舐め尽くそうとする。妄執的観念の渦巻きに深く溺れ劣情の隅々までを堪能し合い耽溺し合う。この欲情の「競り上げ」は、一方でその発火点・起源となった「人妻」という言葉が実はただ単なる物質的言語(エクリチュール)に過ぎないという足元の現実をすっかり忘れさせてしまう効果を持つ。
小林秀雄は志賀直哉を評してこう言っている。
「志賀直哉氏の問題は、言わば一種のウルトラ・エゴイストの問題なのであり、この作家の魔力は、最も個体的な自意識の最も個体的な行動にあるのだ。氏に重要なのは世界観の獲得ではない、行為の獲得だ」(小林秀雄「志賀直哉」『小林秀雄初期文芸論集・P.36』岩波文庫)
そしてエドガー・アラン・ポーの制作態度と対比して、志賀の「手足」といった身体性を強調している。この身体性の強調はどこかニーチェに似ている。
「私は気分で書くとか理屈で書くとかいう程度の問題を云々しているのじゃない。制作の全過程を明らかに意識する事が如何に絶望的に精密な心を要するものと知りつつこれを敢行せざるを得なかったポオの如き資質と、制作する事は、手足を動かすという事のように、一眦(いっし)をもって体得すべき行動であると観ぜざるを得ない志賀氏の如き資質とを問題としているのだ」(小林秀雄「志賀直哉」『小林秀雄初期文芸論集・P.44』岩波文庫)
ところでもし志賀直哉作品の身体性に対して、あるいは「姦淫」と「芝居」との「合成品(AV)」とその視聴者が要求する身体性に対して、世の中のキリスト教徒が拒絶的態度を取るとすればそれは明らかに甚だしい自己欺瞞だというほかない。事実はこうだ。キリスト教はAV〔言語としての「人妻」の姦淫〕の蔓延にもかかわらず生き延びたのではなく、逆にAV〔言語としての「人妻」の姦淫〕の蔓延ゆえにその《別種》の対処療法の一つとして生き延びた。そして現在も生き延びている。
※ただし「児童ポルノ」に関してはなお精神医学的領域・社会学的ないし法哲学的領域での問題が未解決のまま数多く残されており、より一層専門的かつ多層的横断的な取り組みの必要性が要求されている事実を社会自身が明確に自覚しておかなければならないことは言うまでもない。世界中の紛争地帯で発生している幼児・児童に対するレイプもその一つだ。けれども、犯罪に問われた者をただ単なる刑事犯として取り扱い「暴力的装置」(武器・武力・監禁)をもって処刑・処罰するだけでは何ら根本的解決に繋がらないことをはっきりさせておきたい。マルクスは言っている。
「批判の武器はもちろん武器の批判にとって代わることはできず、物質的な力は物質的な力によって倒されねばならぬ。しかし理論もまた、それが大衆をつかむやいなや、物質的な力となる。理論は、それが《人間に即して》論証をおこなうやいなや、大衆をつかみうるものとなるのであり、理論がラディカル〔根本的〕になるやいなや、それは《人間に即して》の論証となる。ラディカルであるとは、事柄を根本において把握することである。だが、人間にとっての根本は、人間自身である」(マルクス「ヘーゲル法哲学批判序説」『ユダヤ人問題によせて・ヘーゲル法哲学批判序説・P.85』岩波文庫)
「人間にとっての根本は、人間自身である」。キリスト教徒だけでなくキリスト教徒と共に、さらには仏教徒やイスラム教徒らと共に考え取り組んでいかねばならない問題であることは間違いない。なお、このような峻厳かつ困難な問題に対して取り組む際に、それぞれのイデオロギーや教義をそれぞれが譲り合い弛め合う必要性があると考えられがちだ。そうしないと各人は連帯しにくくなるのではないかというのである。なるほどそういう面はあるだろう。日常生活の食事や作法といった様式的分野に限っては。しかし実のところ、このような峻厳かつ困難な問題に対して取り組む時にこそ、逆にそれぞれのイデオロギーや教義はますます厳密に硬直性を増しつつ、同時にその有効性を本質的に試される。とりわけ世界中の紛争地帯で幼児・児童らが受ける性暴力・レイプの多発に対して、どこまで《現実的》に有効であるか有効でないか、各々の思想・信条の実質的可能性の射程がまったくの丸裸にされて世界中に晒されるのだ。こうした連帯の危うさについて、各々の厳格さにもかかわらず同盟関係を崩壊させないためにまず言えることは、マルクスに限って述べるとすれば次のような「アソシエーション」(association)の可能性の探求ということになるだろう。「アソシエーション」とは何か。その概念の一端についてマルクスはこう述べる。
「労働者たちが協同組合的生産の諸条件を社会的な規模で、まず自国に国民的な規模でつくりだそうとすることは、かれらが現在の生産諸条件の変革をめざして働くということにほかならず、国家補助をうけて協同組合を設立することとはなんの共通点もないのだ!また、今日の協同組合についていえば、それらが価値をもつのは、政府からもブルジョアからも保護をうけずに労働者が自主的に創設したものであるときに《かぎって》、である」(マルクス「ゴータ綱領批判・P.50~51」岩波文庫)
BGM
「不倫エロ」=5500万件。
「人妻エロ」=1億4200万件。
「不倫エロ」より「人妻エロ」の方が8700万件も多い。圧倒的な差だ。しかし、不倫はいかにして人妻に負けたのか。あるいは人妻はいかにして不倫を制圧したのか。それが問題だ。
「たしかに芝居見物は姦淫が罪であるようには罪でないのかもしれません」(内村鑑三「余はいかにしてキリスト信徒となりしか・P.52」岩波文庫)
内村鑑三は「芝居」と「姦淫」とを別々に分けて考えている。そして「姦淫」に比べれば「芝居見物」は「罪」のレベルが異なる。「罪」は軽いと言う。いずれにしても内村鑑三の信仰には身体に対する激烈な蔑視と抑圧がある。けれども、ネット検索された数値は、限定的とはいえ、「姦淫」と「芝居」との「合成品(AV)」へ向けられた人類の関心の高さの一端を如実に反映させている点で容赦がない。複合施設的商品経済の世界では両者(姦淫および芝居)は決して別々ではありえない。「姦淫」も「芝居」も人間の行為である。もし仮に「姦淫」と「芝居」とを無理に分割しようとすると、その分割が分割自身を通して逆に繋がり合ってしまうという逆説が生じる。この逆説は、分割されるものどうしが、あらかじめ「必然的」に「一様」で「同等」なものとして「均質化」されているがゆえに可能となる。両者の「均質化」が分割を逆に連続性へと置き換えてしまう契機なのだ。つまり問題は「理性的人間」と「非-理性的人間」との分割が、分割にもかかわらず、結果的に連続性へと転倒する点にある。
ニーチェはいう。
「これこそは《責任》の系譜の長い歴史である。約束をなしうる動物を育て上げるというあの課題のうちには、われわれがすでに理解したように、その条件や準備として、人間をまずある程度まで必然的な、一様な、同等者の間で同等な、規則的な、従って算定しうべきものに《する》という一層手近な課題が含まれている」(ニーチェ「道徳の系譜・P.64」岩波文庫)
ニーチェのこの一節を踏まえてフーコーが言うように、狂人がなぜ分割されたかという理由は、狂人が「人間」としては「必然的」に「一様」で「同等」なものとして「均質化」されたことが上げられる。狂人はなるほど非-理性の存在ではあるけれども、「人間」としては「同等・一様・均質」であるがゆえに始めて「狂った人間」という概念が発生し、従って「狂った人間」はあくまで「狂った人間」して監禁・排除される対象と化した。こうして人間としては「均質的存在」だと認められた以上、狂人は鉄格子の内部へ場を移すべき存在へと変貌する。このことのうちに、理性と非-理性(狂気)との分割が、その実、人間としては「同等」だとして理性との連続性が保証される一方、にもかかわらず「狂った人間」としては体良く世間から隔離される対象となった経緯がある。この歴史性を忘れてはいけない。
そして「姦淫」と「芝居」との「合成品(AV)」は、その意味内容が理性的であるにせよそうでないにせよ、「同等」な人間どうしの行為の製作物だと認定され他のものと交換可能なものとして認められうる以上、政治的宗教的官僚的御都合主義によって、いついかなる時にでもその現実的存在を左右・処罰できる単なる物的対象=商品となった。「姦淫」と「芝居」との「合成品(AV)」は今や新自由主義的貨幣経済システムの一部を見事に構成するのだ。管理権力の側から見て理性の範囲内として認められる場合、社会は、一方で「姦淫」と「芝居」との「合成品(AV)」を商品として奔放に売買して多額の利益を上げる。その一方でその同じ社会は、同じ「姦淫」と「芝居」との「合成品(AV)」が「狂った人間」の所業として認められる場合、再び鉄格子の内部へ監禁・排除して売買を中止させるがそのコピー商品は出回り続けてさらなる利益を生む。だがしかし、「狂って」いるかどうか判断する権利は一般市民の側には既になく、民主主義的選挙を通して選ばれた管理権力の側に移っている。いずれにしても「姦淫」と「芝居」との「合成品(AV)」は「自然」で「一様」で「同等」で「均質的」な人間の行為としては確かに認められているため、それを「狂った人間」の所業として社会から分割-排除するのも逆に単なる「人間」の所業として社会の表面に復帰させてやるのも、「人間/狂人」の連続性が成立しているがゆえであり、にもかかわらずその時その時の権力装置の都合次第なのだ。ともあれしかし、これらの売買から税収(議員報酬含む)を得ている国家は理性的だろうか、それとも非-理性的だろうか。なお多くの要素が多元的・多層的に問われねばなるまい。
ところで、両者(姦淫および芝居)は決して別々ではない、両者は同じ国家の共同性のうちにあると知っても、「姦淫」の中に「芝居」的行為が混じり込んでいることをわざわざ示唆したいわけではなく、検閲のように「芝居」の中に「姦淫」的要素が見受けられうると指摘したいわけではさらにない。むしろそれではまるで戦前戦中の治安維持法だ。歴史的逆戻りでしかない。ところが極めて安易な方法で現実的な快楽を享受するばかりの一群(金利生活者、大株主、大土地所有者など)やこれもまた現実的な痛苦に喘いでばかりいる人々(低所得者層、生活保護世帯、日雇い労働者など)が流通貨幣を介して存在する以上、また同時に流通貨幣を介する限りにおいてしか存在できない以上、国家という「共同体」は、吉本隆明のいうような単なる「共同幻想」とは違っている。そうではなくて、重要なのは、両者(姦淫および芝居)はどの瞬間も「貨幣を介して」同時にグローバルな社会的連関のもとにあるということだ。この謎を解くためには、両者はーーーこう言ってよければ両者だけでなく検閲当局もまたーーーいつもすでに熱狂的な社会的-共犯関係の中に没入しているということが前提として表象に浮かべられていなくてはならない。さらにこれらの「質」と「量」の中にはたった一人のキリスト教徒も決して入っていないという根拠はどこにも見当たらない。だが逆にすべてがキリスト教徒であるなどと言いたいわけではまったくない。
フロイトはこう述べている。
「内的知覚の外界への投射は原始的メカニズムであり、たとえばわれわれの感覚的知覚もこれにしたがっている。したがってこのメカニズムは普通われわれの外界形成にあずかってもっとも力のあるものである。まだ充分に確かめられてはいないが、ある条件のもとでは、感情や思考の動きといった内的知覚までが感覚的知覚と同様に外部に投射され、内的世界にとどまるべきはずのものが、外部世界の形成に利用されるのである。このことは発生的にはおそらく、注意力のはたらきが本来内部世界にではなく、外界から押しよせる刺激に向けられていて、内的心理過程については快・不快の発展についての情報しか受けつけないということと関連があるのであろう。抽象的思考言語ができあがってはじめて、言語表象の感覚的残滓は内的事象と結びつくようになり、かくして内的事象そのものがしだいに知覚されうるようになった」(フロイト「トーテムとタブー」『フロイト著作集3・P.202~203』人文書院)
少し補足説明がいるだろう。フロイトは「発生的にはおそらく、注意力のはたらきが本来内部世界にではなく、外界から押しよせる刺激に向けられてい」ると言っている。この「外界から押しよせる刺激」とは何だろうか。一言で言ってしまえば、それは、人間にとっての脅威だ。自然の脅威、異民族の侵入、戦争、共同体の内と外とを問わず発生する様々な暴力的事象などだ。こういう事態に直面して人間はどういう態度で臨み、そして何を獲得したか。
ニーチェはこう述べる。
「外へ向けて放出されないすべての本能は《内へ向けられる》ーーー私が人間の《内面化》と呼ぶところのものはこれである。後に人間の『魂』と呼ばれるようになったものは、このようにして初めて人間に生じてくる。当初は二枚の皮の間に張られたみたいに薄いものだったあの内的世界の全体は、人間の外への放(は)け口が《堰き止められて》しまうと、それだけいよいよ分化し拡大して、深さと広さとを得てきた。国家的体制が古い自由の諸本能から自己を防衛するために築いたあの恐るべき防堡ーーーわけても刑罰がこの防堡の一つだーーーは、粗野で自由で漂泊的な人間のあの諸本能に悉く廻れ右をさせ、それらを《人間自身の方へ》向かわせた。敵意・残忍、迫害や襲撃や変革や破壊の悦び、ーーーこれらの本能がすべてその所有者の方へ向きを変えること、《これこそ》『良心の疚しさ』の起源である」(ニーチェ「道徳の系譜・P.99」岩波文庫)
と同時にフロイトのいう「抽象的思考言語ができあがっ」った。もしくは獲得した。言語獲得の過程はまた「内面化」の過程であり、すなわち「思考」や「反省」といった行為はここに発生の起源を持っている。
マルクス=エンゲルスも同じく次のように言っている。
「『精神』には物質が『憑(つ)きもの』だという呪(のろ)いがそもそものはじめから負わされている。そして物質はここでは動く空気層、音、約言すれば言語の形式において現われる。言語は意識と同じほど古い」(マルクス=エンゲルス「ドイツ・イデオロギー・P.59」国民文庫)
「精神」(内面)は「言語」と同い年だ、と。両者は同時に発生し同時に成長した。さらに「言語」は「物質」だという点が起源にはある。そして内面の発達=言語の質的量的獲得の増大に連れて、言葉で何かを「語る・書く・表現する」という行為が常態化して来る。しばらくすると世界中で当たり前のこととされるようになる。そうして言語表現がどこでも当たり前の常識として流通するようになった時、内面の発生は言語の起源と同時であるにもかかわらず、どういうわけか「抽象的・観念的(イデアル)」なものではなくて元来「物質的(マテリアル)」なものであるという「起源」が忘れ去られる。そして逆に、物質的なものよりも観念的なもののほうが先に「自然」に発生したという遠近法的倒錯/転倒が瞬時に起こり蔓延し常識化する。
内村鑑三に戻ろう。彼の弟子格だった志賀直哉。やがてキリスト教を離れていわゆる自然主義へ移行するわけだがーーー、一九二四年(大正十三年)十二月、「人妻」という言語がその「魔性的」な意味の「競り上げ」に関して極めて重要な役割を果たしている、ということを早くも感覚的に知っていた節がある。勿論当時はインターネットもないしネット検索など知るよしもなかったわけだが。ちなみにこの年はロシアでレーニンが死に、中国で第一次国共合作が成立、日本では築地小劇場開場、孫文が神戸に立ち寄ったりもしている。
志賀は次のように書く。
「この話は僕には全く意外だった。この話で僕は僕の頭にある薫さんという人間を全く作り変えねばならなかった。何処にそういう熱情をあの人は隠しているのだろう?そういう熱情が今も尚あの人の何処かに隠されてあるのだろうか、そう思った。が、僕がそう思ったのも実は束の間だった。僕はそれでこそ、あの人があの人らしくなった、それでこそあの人が丸彫りになったのだ、と、直ぐこんなに思うようになった。僕は今まであの人を余りに平面的に見ていた。それは岸本があの人の妊娠に幻滅を感じた事が余りに平面的な見方からであったと同様であると考えた。
それから年月(としつき)が経つにつれ段々に薫さんという人が僕には明瞭(はっきり)して来た。同時に平凡にもなって来たが、薫さんに対する知らず知らずの好意は少しも変らなかった。姉の家(うち)で落ち合ったりすると、その日一日、或いは翌日(よくじつ)までも私は云いしれぬ淡い幸福を感ずる事がある。然しそれが薫さんを自分が恋しているからだとは僕は少しも考えなかった。臆病者の僕にはそれは考えられない。人妻を恋する。ーーーそういう経歴を持った人だから恋する、若(も)しこうなって来ると、それは尚考えてはならぬ事だった。が、事実は僕はやはり薫さんを恋していた。只それを意識に上らせる事が出来なかった。これは臆病といえば臆病だが、人間はそれでいいのだと思う。時には人妻を好きにならぬとはかぎらない」(志賀直哉「冬の往来」『小僧の神様・城の崎にて・P.205~206』新潮文庫)
こうある。
「人妻を恋する。ーーーそういう経歴を持った人だから恋する」
大胆と言えばいいのか。率直と言えば率直すぎる文章だ。その相手の名は「薫さん」とある。最初に夫がいた。妊娠も経験する。夫の生存中に「岸本」という男性と不倫してしまい岸本を愛するようになる。が、岸本はアメリカへ渡り、その後に満州へ出かけたきり消息不明。夫はまだ生きている。そんな時、話者「僕」が「薫=人妻」に欲情の「競り上げ」を覚えるという展開だ。次のことに気を付けたい。
始めのうちは「淡い幸福を感ずる事がある」程度でしかなかった。「僕」は「臆病者」だった。「臆病者」の「僕」が、「薫」=夫のいる「人妻」という「言葉」を突きつけられた時、始めて「恋する」=欲情を「競り上げ」=「意識に上らせる」。一見、ただ単なる三角関係に見える。三角関係の成立と同時に欲情が始まっている「かのように」見えはする。フロイト経由のエディプス・コンプレクスのように。しかしそれだけでは、いつの時代でもどこにでもありそうなーーー例えば近松門左衛門の作品に出てくるようなーーーただ単なる男女の三角関係でしかない。なるほど目に映るのは三人の男女が繰り広げる単なる痴情沙汰に過ぎない。だがこれはそうではないのだ。近松作品と近代文学の違いもそこにある。「臆病者」の「僕」が途端に大胆な思いに駆られ開き直ってしまう瞬間は、まさしく「人妻」という言葉とばったり出会った瞬間と一致する。そしてこの欲情は想像的幻想的な奇怪奇抜この上ないあらゆる性的技法を脳内全域を駆使し思い切り描き尽くし舐め尽くそうとする。妄執的観念の渦巻きに深く溺れ劣情の隅々までを堪能し合い耽溺し合う。この欲情の「競り上げ」は、一方でその発火点・起源となった「人妻」という言葉が実はただ単なる物質的言語(エクリチュール)に過ぎないという足元の現実をすっかり忘れさせてしまう効果を持つ。
小林秀雄は志賀直哉を評してこう言っている。
「志賀直哉氏の問題は、言わば一種のウルトラ・エゴイストの問題なのであり、この作家の魔力は、最も個体的な自意識の最も個体的な行動にあるのだ。氏に重要なのは世界観の獲得ではない、行為の獲得だ」(小林秀雄「志賀直哉」『小林秀雄初期文芸論集・P.36』岩波文庫)
そしてエドガー・アラン・ポーの制作態度と対比して、志賀の「手足」といった身体性を強調している。この身体性の強調はどこかニーチェに似ている。
「私は気分で書くとか理屈で書くとかいう程度の問題を云々しているのじゃない。制作の全過程を明らかに意識する事が如何に絶望的に精密な心を要するものと知りつつこれを敢行せざるを得なかったポオの如き資質と、制作する事は、手足を動かすという事のように、一眦(いっし)をもって体得すべき行動であると観ぜざるを得ない志賀氏の如き資質とを問題としているのだ」(小林秀雄「志賀直哉」『小林秀雄初期文芸論集・P.44』岩波文庫)
ところでもし志賀直哉作品の身体性に対して、あるいは「姦淫」と「芝居」との「合成品(AV)」とその視聴者が要求する身体性に対して、世の中のキリスト教徒が拒絶的態度を取るとすればそれは明らかに甚だしい自己欺瞞だというほかない。事実はこうだ。キリスト教はAV〔言語としての「人妻」の姦淫〕の蔓延にもかかわらず生き延びたのではなく、逆にAV〔言語としての「人妻」の姦淫〕の蔓延ゆえにその《別種》の対処療法の一つとして生き延びた。そして現在も生き延びている。
※ただし「児童ポルノ」に関してはなお精神医学的領域・社会学的ないし法哲学的領域での問題が未解決のまま数多く残されており、より一層専門的かつ多層的横断的な取り組みの必要性が要求されている事実を社会自身が明確に自覚しておかなければならないことは言うまでもない。世界中の紛争地帯で発生している幼児・児童に対するレイプもその一つだ。けれども、犯罪に問われた者をただ単なる刑事犯として取り扱い「暴力的装置」(武器・武力・監禁)をもって処刑・処罰するだけでは何ら根本的解決に繋がらないことをはっきりさせておきたい。マルクスは言っている。
「批判の武器はもちろん武器の批判にとって代わることはできず、物質的な力は物質的な力によって倒されねばならぬ。しかし理論もまた、それが大衆をつかむやいなや、物質的な力となる。理論は、それが《人間に即して》論証をおこなうやいなや、大衆をつかみうるものとなるのであり、理論がラディカル〔根本的〕になるやいなや、それは《人間に即して》の論証となる。ラディカルであるとは、事柄を根本において把握することである。だが、人間にとっての根本は、人間自身である」(マルクス「ヘーゲル法哲学批判序説」『ユダヤ人問題によせて・ヘーゲル法哲学批判序説・P.85』岩波文庫)
「人間にとっての根本は、人間自身である」。キリスト教徒だけでなくキリスト教徒と共に、さらには仏教徒やイスラム教徒らと共に考え取り組んでいかねばならない問題であることは間違いない。なお、このような峻厳かつ困難な問題に対して取り組む際に、それぞれのイデオロギーや教義をそれぞれが譲り合い弛め合う必要性があると考えられがちだ。そうしないと各人は連帯しにくくなるのではないかというのである。なるほどそういう面はあるだろう。日常生活の食事や作法といった様式的分野に限っては。しかし実のところ、このような峻厳かつ困難な問題に対して取り組む時にこそ、逆にそれぞれのイデオロギーや教義はますます厳密に硬直性を増しつつ、同時にその有効性を本質的に試される。とりわけ世界中の紛争地帯で幼児・児童らが受ける性暴力・レイプの多発に対して、どこまで《現実的》に有効であるか有効でないか、各々の思想・信条の実質的可能性の射程がまったくの丸裸にされて世界中に晒されるのだ。こうした連帯の危うさについて、各々の厳格さにもかかわらず同盟関係を崩壊させないためにまず言えることは、マルクスに限って述べるとすれば次のような「アソシエーション」(association)の可能性の探求ということになるだろう。「アソシエーション」とは何か。その概念の一端についてマルクスはこう述べる。
「労働者たちが協同組合的生産の諸条件を社会的な規模で、まず自国に国民的な規模でつくりだそうとすることは、かれらが現在の生産諸条件の変革をめざして働くということにほかならず、国家補助をうけて協同組合を設立することとはなんの共通点もないのだ!また、今日の協同組合についていえば、それらが価値をもつのは、政府からもブルジョアからも保護をうけずに労働者が自主的に創設したものであるときに《かぎって》、である」(マルクス「ゴータ綱領批判・P.50~51」岩波文庫)
BGM