白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

ステレオタイプに傷跡〔スティグマ〕を

2019年07月11日 | 日記・エッセイ・コラム
バルト「神話作用」は一九五四〜一九五六年に書かれ、一九五七年に出版された。約十五年後、バルトはこう振り返る。

「現代の神話は、不連続的である。それはもはや、構成された大きな物語としてではなく、ただ単に《ディスクール》(言説)として言表される。それはせいぜい《作文》であり、文(紋切型=ステレオタイプ)の集合体である。神話は消えていくが、それだけますます狡猾に、《神話的なもの》は残る」(バルト「対象そのものを変えること」『物語の構造分析・P.164』みすず書房)

ほとんど何も変わっていないのではないかという問いである。「神話」は消えていない。むしろ大量生産され大量消費されますます「紋切型=ステレオタイプ」を強化する傾向を積極的に加担している。一般大衆による神話の大量消費は一般大衆の思考内容をより一層固定化して人生の選択肢をいよいよ狭苦しいデータベースへ変換する息苦しさを加速させていくばかりだ。しかも「神話的なもの」はなおさら図々しく、いかにも意味ありげでそのじつ内容空虚な身振りを振りまいて人々の関心や世論を一方通行的な方向へ誘導する自動機械と化している。どうすればいいのか。

もっとも、「紋切型=ステレオタイプ」を揺るがす有効な手段ということについて、バルトは快楽や忘我、あるいはテクストという実践を提唱する。それは価値転覆というニーチェ用語を用いていながらもまったく「暴力的である必要はない」という。

「そこから、おそらく、現代風の作品を評価する手段が得られる。それらの価値は二重性から生れるのだろう。ということは、それらが常に二つの縁を持つという意に解さなければならない。価値転覆的な縁は暴力の縁であるために特権的地位にあるようにみえるかもしれない。しかし、快楽に作用するのは暴力ではない。破壊は快楽には関係がない。快楽が欲するのは忘我の場である。断層、切断面、デフレーション、悦楽のさなかに主体を捉える《フェイディング現象》(混乱・中断)である。だから、文化は縁として戻ってくる。様々な形で」(バルト「テクストの快楽・P.13~14」みすず書房)

「断層」「切断面」という言葉に注目しよう。こうある。

「テクストの理論のいうように、言語は再配分されるのだ。ところで、《この再配分は常に切断面から生れる》のである。二つの縁の形が描かれる。お行儀よく、従順で、剽窃的な縁(学校や文法書や文学や文化によって固定された規範的な状態で、言語を真似るからだ)と、変りやすく、空虚な(どんな輪郭をも取り得るような)、自分自身の効果の場でしかないような、《もう一つの縁》、言語活動の死が垣間見られる所だ。この二つの縁、そして、《両者の行う妥協》が必要なのだ。文化もそれの破壊もエロティックではない。エロティックになるのは両者の断層である」(バルト「テクストの快楽・P.12~13」みすず書房)

なお、「《両者の行う妥協》」とある。あらかじめ計画された予定調和ではなく、むしろ無意識的になおかつ偶発的に生じてくる「共犯関係」という意味で捉えるほうがより理解しやすいとおもわれる。テクストすることはこの共犯関係を文化的一般的な見地からコード化して「制度としての文学」へ無理やり封じ込めることではなく、共犯関係から発生してくる様々な論理矛盾や違和感や多様な読み方を積極的に「賞味する」態度である。また、「文化もそれの破壊もエロティックではない」とすれば一体エロティックになるのは何がどうなったときなのか。「エロティックになるのは両者の断層である」、とバルトはいう。実際のところを落ち着いて観察してみよう。すると次のことが明瞭になるはずだ。

「身体の中で最もエロティックなのは《衣服が口を開けている所》ではなかろうか。倒錯(それがテクストの快楽のあり方である)においては、《性感帯》(ずい分耳ざわりな表現だ)はない。精神分析が的確にいっているように、エロティックなのは間歇である。二つの衣服(パンタロンとセーター)、二つの縁(半ば開いた肌着、手袋と袖)の間にちらちら見える肌の間歇。誘惑的なのはこのちらちら見えることそれ自体である。更にいいかえれば、出現-消滅の演出である」(バルト「テクストの快楽・P.18」みすず書房)

こうある。「二つの縁(半ば開いた肌着、手袋と袖)の間にちらちら見える肌の間歇。誘惑的なのはこのちらちら見えることそれ自体である」。「二つの縁」。探してみよう。たくさん見つかるとおもう。たとえば「タイトスカートとパンプス」の「間にちらちら見える肌の間歇」。あるいは「ブラジャーの左右のカップ」の「間にちらちら見える肌の間歇」。つい昨今まではそのタイプの服装が女性にとってはほとんど制服と化していた。さらに勃起した男性器が女性器の「縁」において何度もしつこく繰り返し演じる「出現-消滅の演出」。また階段やエスカレーターなどで発生しがちな女性のスカート内のパンティの「出現-消滅の演出」。もっとも、後者の場合を「演出」という言語で規定するのは不合理であろう。それは地下鉄や階段を吹き荒れる風(自然現象)によって引き起こされる場合を含むからである。そうなるとただ単なるお洒落の範囲を逸脱する。この逸脱に乗じて男性は目の色を変えて凝視する。その様子は「女性は女を売りにしている」という覗き込む側の抗議の声とともに差別問題として終わりなき水掛論へ突入していく。しかしこの種の議論へいったん突入すると、水掛論として消費されるほかないということがわかっているにもかかわらず、性別を問わず、異常ともいえる熱を帯びて盛り上がることが多いのはなぜだろうか。だがしかし議論の内容は全然エロティックでない。むしろエロティックなものが生じる条件は「二つの縁」を軸としている。「スカート、階段、パンティ、地下鉄を吹き荒れる風、眼差し」など「或る種の言葉」を口にしようとして、その言葉をさらりと言ってしまうことができず言葉がつっかえたりしたときに生じる「奇妙な間」、ひとかたまりの「或る種の言葉」をなぜか二つに分裂させてしまい、ひとかたまりの言葉を「二つの縁」に分け隔てさせてしまったことによって生じた「二つの縁の間にちらちら見える肌の間歇」=「奇妙な間」こそ、その場にエロティックなものをいきなり発生させる条件なのだ。「間歇」。《あいだ》。バルトのいう「断層」である。

さて、バルトの文章を見ていると「温室の写真」という言葉が出てくる。「温室の写真」は、一般的な意味でいえば、要するにバルト以外の一般市民なら誰であれ、それを見たとしても何も思わないごくありふれた一枚の写真でしかないものだ。ということは「温室の写真」にはバルトにとってだけのプンクトゥム(見るものを突き刺すもの、見るものを突き刺す細部)があるということだ。それはバルトの実の母の写真である。もっとも、バルトは「制度としての家族」に断固として反対する。

「私は、私の家族を『家族』一般に還元することを欲しないのと同じく、私の母を『母』一般に還元することを欲しない」(バルト「明るい部屋・P.90」みすず書房)

あらかじめ社会的に加工=変造(社会化)し、有無も言わさず一方的に社会的な位置を与えてしまう資本主義的家族制度を否定する。それは「パパ-ママ-ボク」というオイディプス三角形を暴力的かつ暗黙のうちに押し付ける政治的装置でしかないからだ。ところが「パパ-ママ-ボク」というオイディプス三角形は〔ただ単に事後的に捏造された政治的神話でしかないにもかかわらず〕今なおマスコミ(特にテレビ)を中心に猛烈な権能を振るっている。もちろんそれは強迫神経症的に繰り返されるステレオタイプによる蹂躙がいまだに存続している証拠でしかないが。ともあれ、繰り返されるステレオタイプの被害者として「バルトの母」という「かけがえのない」唯一の《固有性》は剥奪されている。そればかりか、すでに「『母』一般に還元」されてしまっていてバルトの他にはたぶん誰もそれを疑わないという狡猾この上ない「制度のトリック」による欺瞞的埋葬すらとっくに済んでいるのだ。バルトはこのような「制度のトリック」をけっして肯定しない。そこでバルトが「温室の写真」に求めることができるのはまことしやかな「真実」ではなく「アリアドネ」でしかない。諦観を込めて語っている。

「この世にある写真の全体は一つの『迷路』を形づくっていた。その『迷路』のまっただなかにあって、私は、このただ一枚の写真以外に何も見出せないことを知り、ニーチェの警句を地で行くことにしたのだ。すなわち《迷路の人間は、決して真実を求めず、ただおのれの導いてくれるアリアドネを求めるのみ》。『温室の写真』は、私のアリアドネだった。それが何か隠されたもの(怪物や宝物)を発見させてくれるからではない。そうではなく、私を『写真』のほうへ引き寄せるあの魅力の糸が何で出来ているのかを私に告げてくれるだろうからである」(バルト「明るい部屋・P.88」みすず書房)

ニーチェ参照。

「迷宮のような人間というものは、けっして真理をではなくて、つねにおのれのアリアドネだけを探し求める」(ニーチェ「生成の無垢・下巻・一七〇・P.101」ちくま学芸文庫)

バルトの思い出は、いつもそうだとは限らないが、ここでプルーストの語り手の経験との一致を示す。

「ただ一度だけ、写真が、思い出と同じくらい確実な感情を私の心に呼びさましたのだ。それはプルーストが経験した感情と同じものである。彼はある日、靴を脱ごうとして身をかがめたとき、とつぜん記憶のなかに祖母の本当の顔を認め、《完璧な無意志的記憶によって、初めて、祖母の生き生きとした実在を見出した》のである」(バルト「明るい部屋・P.84」みすず書房)

プルースト参照。

「私はいま、記憶のなかに、あの最初の到着の夕べのままの祖母の、疲れた私をのぞきこんだ、やさしい、気づかわしげな、落胆した顔を、ありありと認めたのだ、それは、いままで、その死を哀悼しなかったことを自分でふしぎに思い、気がとがめていたあの祖母、名前だけの祖母、そんな祖母の顔ではなくて、私の真の祖母の顔であった、彼女が病気の発作を起こしたあのシャン=ゼリゼ以来はじめて、無意志的で完全な回想のなかに、祖母の生きた実在を見出した」(プルースト「失われた時を求めて6・P.267」ちくま文庫)

しかし「失われた時を求めて」で語り手の祖母が死ぬのはもっと早くである。有名な論点なので簡単に述べるが、語り手が、実際の「祖母の死」から記憶の中で「祖母の生きた実在を見出」すまで、文庫本にして七〇〇ページほどある。七〇〇ページを経て訪れるその部分には「心情の間歇」というサブタイトルが付されており、まさしく《不意打ち=驚き》だ。バルトは「エロティックなのは間歇である」といった。とすれば、プルーストでは「或る時間の流れ」あるいは「意識の流れ」の《間》に突如出現する「間歇」がエロティックなものということになる。ここでいうエロティックなものとは、写真におけるプンクトゥム(見るものを突き刺すもの、見るものを突き刺す細部)を持つものにほかならない。それは「二つの縁」の《間》をちらちらする。さらにいえば、おのおのの読者に向けてそれぞれ「各自の死」までに与えられた限りある時間を、時間的に「エロティックなものとして」意識化させる機能を果たしているといえるかもしれない。というのも人間の生涯は、本当に平均百年に達したとしてもなお、遥か永劫に続いていく数値化できない時の流れの中のほんの「間歇」でしかないからだ。エロティックなものとは、永劫の時間の流れの中の「間歇」として捉えることができる。ゆえに生き生きと「死の本能」(小さな死、忘我、エクスタシーなど)を謳歌することもできるに違いないとおもえてこないだろうか。

バルトは続ける。「制度」に回収されてしまわない、かけがえのない固有性としての「母の死」について。

「プルーストの小説の『語り手』が祖母の死について言ったように、私もまたこう言うことができた。《私はただ単に苦しむというだけでなく、その苦しみの独自性をあくまでも大事にしたかった》と。なぜなら、その独自性は、母のうちにある絶対に還元不可能なものの反映だったからである。そしてそれが、まさに還元不可能であるゆえに、一挙に、永遠に失われてしまったのだ。喪は緩慢な作業によって徐々に苦悩を拭い去ると人は言うが、私にはそれが信じられなかったし、いまも信じられない。私にとっては、『時』は死別の悲しみを取り除いてくれる、ただそれだけにすぎないからである(私は単に死別したことを悲しんでいるのではない)。それ以外のことは、時がたっても、すべてもとのまま変わらない。というのも、私が失ったものは、一個の『形象』(『母』なるもの)ではなく、一個の人間だからである。いや、一個の人間ではなく、一個の《特質》(一個の魂)だからである。必要不可欠なものではなく、かけがえのないものだからである」(バルト「明るい部屋・P.91~92」みすず書房)

プルーストはいう。

「単に苦しむことをねがっただけではなく、私が受けた苦しみの独特さ(オリジナリティ)を、私がふいに、無意志で、それを受けた状態のままで、尊敬してゆこうとしたからだ」(プルースト「失われた時を求めて6・P.272」ちくま文庫)

バルトの母の写真に触れることによってようやくここで「時間」というものについて考察することができる。ちなみにデリダは「明るい部屋」について「バルトが母の喪について語っている」と驚いたらしいが、「明るい部屋」はバルトにとっての「喪の作業」だということになるだろう。ただし世間一般でいう単なる喪の作業ではまったくない。平穏無事というわけにはもちろんいかない。むしろそこには危険も不安も心の傷跡〔スティグマ〕も毒もある。ユーモアすらある。ところで、デリダにとって「喪の作業」といえる著書はあるのだろうか。「喪について」書かれた文章ならしばしば見たようにおもうが。よくわからないところだ。ただ、内容は変則的であるものの、デリダの母が死の床にあったときに書かれた「盲者の記憶」がある。そこではデリダにしてはやや露骨とも思える実兄に対する「兄殺しの欲望」が語られている。その兄は兄弟の中でとりわけ素描が得意だった。そして「盲者の記憶」は素描論である。

BGM