白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

ステレオタイプと奇妙な空虚

2019年07月15日 | 日記・エッセイ・コラム
六月終わり頃、「モード化する資本」と題してこう述べた。

「読者はただ単なる一般性へと解消されたに過ぎない。一般化とともに皮相化し記号化し均質化し平均化し、そうなればなるほどますます粗雑化した。作者は死んだわけではけっしてない。むしろ仮面を付け替えた。実作者は資本によって押しのけられ、資本そのものへ置き換えられた。したがって、実在の作者はほとんど死体と化して疲弊しているけれども、作者の仮面を強奪した資本は、作者の死にとって代わって君臨し、なおのことかつてとは比較にならない権能を大いに振るっている」

さて、物語の語り手としての作者は死んだ。何やら意味ありげな横顔をのぞかせて写真に写っている純文学作家というものもまた死んだ。文学という「制度」の中で大いなる「父権」〔ロゴス=真実〕を担っていた「神」としての作者は確かに死んだのだ。その意味で「作者の死」は達成された。ところで実作者は何をしているのだろう。多少有名であればという条件つきで、かろうじて大学の非常勤講師を兼ねる兼業者として社会の中で細々と生存している。しかしその生存様式はバルト用語でいう「漂流」に近い。テクストの漂流は歓迎すべき生成変化だが、生活者としての漂流は実質的「日雇い労働者」待遇である。資本主義の発展とともに発展し、制度化し、幻想ではあっても全面的に手に入れた作者の特権的「父権〔ロゴス=真実〕中心主義」は、同じ資本主義のさらなる発展によって見放され、切り離され、死滅した。作者というものはいまや何らかの職業と兼業しなければ生きていくこともただならない、どこにでもいる賃金労働者の一形態でしかない。作者としての仮面はものの見事に資本の手に回収された。

ごくふつうの感覚をもっている人々なら容易に理解しているように、一つの「制度」がいつまでも永遠に相続されることなどあり得ない。にもかかわらず作家たちはあたかも世間知らずの子どものように「制度」の永遠の存続を信じていたというのだろうか。必ずしもそうではない。むしろ逆だ。一つの制度がいつまでも同様に存続されることなどあり得ないことをよく知っていた。世界は常に変容していく。生成変化していく。ニーチェが暴露した通りだ。しかし注目すべきは、制度の解体が可能であり実際に解体され大々的に変容したという歴史的事実は何を語っているかということにある。制度はステレオタイプの同義語でもある。それは反復を前提とする。ステレオタイプは同じ言語や同じ生活態度の強迫神経症的な繰り返しによって成立してくる。ただ、或る「ステレオタイプ=制度」が有効性を発揮し、多少なりとも実在する様々な異議申し立てにもかかわらず暴力的に貫徹され、資本〔ロゴス〕中心主義が世界を思うがままに動かしていられるのはなぜかという問いに答えることは、さほど困難でもなんでもない。要するに、或る特定の時期にのみ有効な「ステレオタイプ=制度」によって精力的に資本回転している社会が利子を生み出すからであり、またその限りでのみ、或る特定の「ステレオタイプ=制度」の利用価値に依存できるからである。「ステレオタイプ=制度」は、だから、利子を生む資本を延命させる限りで有効な一時的手段に過ぎないともいえる。資本が貨幣を資本化できなくなるやいなや資本は死ぬ。だから死なないために、あくまで資本の自己目的を貫徹していくために、資本は、利子を生む「ステレオタイプ=制度」だけを最大限利用する。社会主義的政治政策であってもそれが利子を生んで回帰してくるような「ステレオタイプ=制度」であれば、何の躊躇もなくむしろ積極的に活用する。資本は、いま現在有効に流通している「ステレオタイプ=制度」が資本自身のさらなる発展によって役立たずと化してしまうことを先取り的に想定する。そして次に用意されておくべき「ステレオタイプ=制度」構築の準備を常に怠らない。器用で柔軟で堅実ですらある。人間が発明した文化的産物であるにもかかわらず、少なくとも資本主義を謳歌することによってますます無気力で怠惰になっていく人間とは違い、何をおいても利子への意志という一点においては、逆に最も律儀なシステムなのだ。

だがしかし、どのような形態の「ステレオタイプ=制度」を世界的規模で展開しようとしても、それがあたかも《真理》であるかのように見せかける必要性が出てくる。そこで要請されるのが宗教だ。宗教は近代化を経て一般大衆の精神を思い通りに操る資本主義の忠実な下僕と化した。ところが思いもよらぬことに、十九世紀前半、「宗教はドラッグだ」とマルクスはいった。このとき椅子から飛び上がって恐怖したのは宗教者ではなく資本家だった。宗教者は無邪気にもただ単に怒っただけである。いかにも幼稚な態度だ。なぜ幼稚か。宗教者自身、それほどまでに俗世間の政治的経済的文化的動向について無知だったからである。無知の上にあぐらをかいていることができた。資本家を守ってやっているのは大量の信者をもつ宗教者の手腕だと本気で信じ込んでいた。だがさらにマルクスは畳みかけた。宗教の批判は〔ドイツでは〕本質的に果たされている。宗教が権力でありドラッグでもあるのは、俗世間の権力〔資本、国家〕が余りにも過酷壮烈悲惨であるがゆえに、人々はドラッグとしての宗教に殺到しているに過ぎない。したがって批判すべきは恥ずかしげもなく「天国」を語ってみせる宗教ではもはやなく、まぎれもないこの地上に君臨する俗世間の権力〔資本、国家〕であると。

さて、最初期のバルト作品。ごく一般的な文学の読解ではもちろんなく、というより、読解を中心とした研究にはほとんど関心がない。それより、ほんのわずかな断片的文章に過ぎない場合でさえ、なぜそれは《文学的》断片として取り扱われることになっているのかという、言語そのものの不可解さとその制度に注目する。

「作家が普遍的なものの証人であることをやめて不幸な意識となったとき(一八五〇年ごろ)から、作家が最初にみせる態度とは、自分よりも以前の作家のエクリチュールを受け入れるにせよ拒むにせよ、とにかく自分の表現様式の社会参加を選択するようになった、とわかるだろう。つまり、古典主義的なエクリチュールは砕け散ったのであり、フロベールから今日にいたるまでの『文学』全体は、言語についての問題提起となったのである。まさにそのときに、『文学』が(この言葉もすこし前に生まれたばかりだが)、ひとつの対象として決定的に認められたのだった」(バルト「序」『零度のエクリチュール・P.9』みすず書房)

ここで「不幸な意識」について触れておこう。ヘーゲル用語。

「自己意識が自分自身のなかで二重になることは、精神の概念においては本質的なことであり、それがいまここに現にあるわけであるが、まだ統一をえていない。そこで《不幸な意識》とは、二重の、矛盾するだけの実在であるような自己についての意識である。

だから、この《不幸な、自分だけで分裂した》意識は、自らの本質のこの矛盾が(同じ)《一つの》意識であるため、一方の意識にいながらいつも同時に他方の意識をもたざるをえず、こうしてこの二つの意識のそれぞれから、この意識が統一の勝利と安定に達したと思うと同時に、すぐにそのままその統一から追い払われるよりほかない。だが、この意識が自分自身にほんとうに帰り、自己と和解したときには、生けるものとなり、現存するに至った精神の概念が示現されるであろう。というのも、そのときには、分かれていない〔同じ〕一つの意識でありながら二重の意識であるということが、すでにこの不幸な意識に含まれているからである。不幸な意識自身は、一方の自己意識が他方を観ることで《あり》、その自己意識自身は対立の両方であり、両者の統一はその意識の本質でもある。だが、まだ《自分で》この本質になってはいないし、両者の統一にもなってはいない。

まず不幸な意識は、両者の《直接的な統一》であるにすぎないが、両者が自分にとって同じものではなく、対立したものである。そのため、その一方、つまり単一で不変な意識は《本質》〔的実在〕としてあるが、他方、多面的で変化する意識は《非本質的なもの》として在る。両者は《不幸な意識にとっては》互いに縁なきものである。不幸な意識自身は、この矛盾の意識であるから、変化する意識の側に立ち、自ら非本質的なものであるが、不変つまり単一な本質〔的実在〕の意識としては、同時に、非本質的なもの、すなわち、自己自身から解放されることを目指さざるをえない。というのもその意識は、《自分にとっては》〔自覚的には〕、変化するものであり、不変なものは自分に縁なきものにすぎないとしても、《それ自体では》、単一なしたがって不変な意識であるため、これを《自らの》本質として意識しておりながらも、《それ自身》自分にとっては〔自覚的には〕まだこの本質でないことを意識しているからである。この不幸な意識が両方の意識に与える位置は、だから、両者互いの無関心ではありえない、すなわち、不変なものに対する自己自身の無関心ではありえない。そうではなく、その意識は自らそれら両者である。その意識はその意識にとって、本質の非本質的なものに対する関係としての、《両者の関係そのもの》である。したがってこの非本質的なものは廃棄されるべきである。だが不幸な意識は、自らにとっては、両者が等しく本質的でありまた矛盾しているので、矛盾した運動であるにすぎない。この運動にあっては、反対は自らの反対において安定するのではなく、自らのうちで自分を反対として新たに生み出すだけである。

だから、〔ここには〕一つの敵に対する一つの戦いが現にあるわけで、この敵に対しては、勝利がむしろ敗北であり、いずれか一方をうることが、むしろその反対のなかで、それを失うことである。生命、生命の定在および行為などの意識は、この定在と行為に対する苦しみであるにすぎない。というのもそこでは意識は、自らの反対が本質であるという、己れ自身の空しさの意識を、もつにすぎないからである。意識はここから出て高まり、不変なものに移って行く。が、この高まり自体がこの意識である。つまりこの高まりはそのまま反対の意識、すなわち、個別性としての自己自身の意識である。この意識のなかに歩み入る不変なものは、ほかならぬこの理由で、同時に、個別性にふれられており、もっぱらこれとともにだけ現存している。この個別性は、不変なものの意識のなかで亡ぼされてしまわないで、いつもそこに立ち現われるだけである」」(ヘーゲル「精神現象学・上・P.245~248」平凡社ライブラリー)

普遍的ではなく個別性を自覚している意識。だがこの意識は二重に分裂しており統一されていないことを常に意識している自己意識でもある。文学がそのまま何ら濁りのない透明な真実として受け止められていた安穏な古典主義時代はすでに過ぎ去り、「神」による絶対的保証を失った個別性という形式が文学に与え直される。「神」による絶対的保証というのは一元的に完結した形式だ。しかしそうでないということは、特記すべき事項として、たった一つの断片からだけでも次から次へと「様々な意味」が生じてくるし生じてこないわけにはいかないということをも意味している。むしろ古典ではない「文学」というものはそこから始めて発生したといえる。近代社会の産物なのだ。世界文学の萌芽ともいえる。

「これ以後は、文学形式が存在にかかわる感情を生じさせうるようになるからである。奇抜な感じや、親しみやすさ、不快感、愛想のよさ、礼儀正しさ、殺害といった、いかなる対象のくぼみにも付着している感情をである」(バルト「序」『零度のエクリチュール・P.9~10』みすず書房)

いわゆる近代的「人間」の出現である。次のフレーズは実に近代ヨーロッパ的な文学という形式を問題としている。

「『対象としての形式』とは作家がみずからの途上でどうしても出会うものであり、作家は直視し、立ち向かい、引き受けねばならず、それを破壊しようとすれば、作家として自滅するしかない」(バルト「序」『零度のエクリチュール・P.9~10』みすず書房)

この「自滅」。後期バルトでは「自滅」というより「漂流」「解体」という語彙を用いて、より自由に「テクスト」することへ向かうことになる。ただそれが自滅的に見えるのは、当時はまだ余りにも実験性が高過ぎるようにおもわれたからである。とはいえ、実際に下手にやってしまうとそれこそただ単なる「突飛なもの」という項目に分類され、実験的挑戦的であるよりも逆にただちに大文字の文化に回収され、誰にかえりみられることもなく消滅して終わる。だから、よく練り上げられた「テクスト」理論の提出まで幾らか時間を要したことは確かだ。ところが「テクスト」や「テクスト分析」という理論もまた、後に続いたジュリア・クリステヴァら周囲の研究者によって理論として周囲から整除されるようになってくると、バルトはテクストという言葉は使いたくないと言い始めたのだった。「テクスト」は理論というより、一度きりの実践を快楽する漂流あるいは運動ではあるけれども、精密に繰り返し理論化され固定化されることで逆にバルトが常に逃れようとしていたステレオタイプと化してしまう恐れがあったからだ。一元的なものへとドグマ化〔通説化〕されることを非常に嫌がっていた。いつも軽い身のこなしを好んだ。

ところで初期のバルトは「労働価値」という語彙を引っ張りだしてきている。

「労働価値というものの到来によって、フロベールが決定的に『文学』を対象として作りあげた。陶器や宝石のように、かたちこそが『製作行為』を仕上げるものとなったのである。(製作行為がそのように『意味をもつ』ようになったこと、すなわち、はじめてショー化したものとして提供され認められたことを読みとらなければならない)。そして最後にマラルメが登場して、あらゆる対象化行為の究極的なものである殺害によって『対象としての文学』の構築の最後をかざったのだった。周知のようにマラルメの努力のすべては、『文学』がいわば死体でしかなくなるような言語の破壊に向けられていた」(バルト「序」『零度のエクリチュール・P.10~11』みすず書房)

マルクスの影響である。しかしここで注目すべきは、文学の「価値」というより、文学の「価値部分」という概念だろう。文学は商品化した。と同時に作者はなるほど労働者でもありはするだろう。しかし文学は商品価値というよりも、むしろ「価値部分」として「意味」というものに取り憑かれてしまったのではないかという、注意深く取り扱わないと取り返しのつかないことになるような、ただならぬ気配を感じ取っているかのように見える。後期バルトでは言語の多様な意味生成性を駆使して繰り広げられる「テクスト」。だがそれはバルト自身が決してステレオタイプに陥らないための、新しく発見された生活「様式」の一つに過ぎなかったとすれば、意味の反復あるいは反復される「テクスト」という呪縛からどんどん逃走の線を描いていくには言語そのものを解体してしまうほかない。反復されてしまえばもうそれは「テクスト」ではないからだ。「テクスト」はあくまで一回限りの固有な差異化の実践であって、一回ごとに切断された断層の刻印と消去であり、そしてそれはけっして理論ではないし理論化してもならない。快楽としての漂流。

「快楽はテクストの一《要素》ではない。素朴な残滓ではない。それは悟性や感覚の論理に左右されない。それは漂流だ。革命的であると同時に、非社会的で、どんな集団も、どんな精神状態も、どんな個人言語も、引き受けることのできないものだ。《中性的な》もの?テクストの快楽が顰蹙を買うものであることは明らかだろう。それが不道徳だからではなく、《アトピック》だからである」(バルト「テクストの快楽・P.43」みすず書房)

《アトピック》だから、とある。“topic”=「話題、主題、項目」に否定形の“a”を付した“atopic”。要するに、場所の外。一般的文化圏の他。コード化されない。分類できない。わけがわからない。

さらにマラルメのたくらみ。ニーチェとの関連でフーコーから引用したい。

「ニーチェにとって問題は、善と悪がそれじたい何であるかではなく、自身を指示するため《アガトス》、他者を指示するため《デイロス》と言うとき、だれが指示されているか、というよりはむしろ、《だれが語っているのか》、知ることであった。なぜなら、言語(ランガージュ)全体が集合するのは、まさしくそこ、言説(ディスクール)を《する》者、より深い意味において、言葉(パロール)を《保持する》者のなかにおいてだからだ。だれが語るのか?というこのニーチェの問いにたいして、マラルメは、語るのは、その孤独、その束の間のおののき、その無のなかにおける語そのものーーー語の意味ではなく、その謎めいた心もとない存在だ、と述べることによって答え、みずからの答えを繰り返すことを止めようとはしない。ーーーマラルメは、言説(ディスクール)がそれ自体で綴られていくような<書物>の純粋な儀式のなかに、執行者としてしかもはや姿を見せようとは望まぬほど、おのれ固有の言語(ランガージュ)から自分自身をたえず抹殺しつづけたのである」(フーコー「言葉と物・P.324~325」新潮社)

ニーチェから。

「《ἐσθλός》(エストロス)という語は語根から言えば、《存在する者》、実在性をもつ者、現実的な者、真実な者を意味する。やがて主観的転意によって、『真実な者』は『誠実な者』を意味するようになる。概念変化のこの位相において、この語は貴族の合言葉となり、『高貴な』という意味にすっかり移行し、テヘオグニスが取り上げて描いているような《嘘つき》で卑俗な者からの区別を示すためのものとなる。ーーーそれで結局この語は、貴族の没落以後は、単に精神的な《高貴性》(ノブレス)を表示するものとして残り、いわば熟して甘くなってしまった。ーーー《δειλός》(デイロス=臆病な)という語は《ἀγαθός》(アガトス=よい、優れた)に対立する平民を指す」(ニーチェ「道徳の系譜・五・P.27」岩波文庫)

制度としての文学を解体させた功績はニーチェによるところが大きい。ここでニーチェが語っているのは、まさしく、語っているのは誰かという問いだからだ。そもそも「誰」という問いからして何か重大な錯覚に陥ってしまっているのでは、とニーチェはいう。言葉は意味を置き換えることができる。とすると、意味するものと意味されるものとに分裂していることになる。書かれた文字。文字という或る種の死体。したがって、語っているのは死物であるほかない文字ではないのか。しかしバルトがその地点へたどりつくまで、まだ少しあいだがある。

さて。そんなにまで忌避したがったステレオタイプ。たとえば一枚の写真。それがプンクトゥム(私を突き刺すもの、私を突き刺す細部、固有の時間)でなくストゥディウム(文化的一般的関心)でしかないのは、その写真が、「製作者と消費者のあいだで結ばれた一つの約束事」でしかないからである。ステレオタイプは文化でもあるわけだが、文化のほとんどすべてはプンクトゥムにではなくストゥディウムの内部におとなしく吸収されており、間違っても「わけがわからない」という反応を引き起こすことはない。それはまたたく間になおかつ友好的な仮面のもとに「お約束」として成立したいわば「いい子ちゃん」に過ぎない。

なるほど現代的な問題として世界的規模で共有されつつある「いい子ちゃん」問題。その壮絶な内幕の歴史。これまで巧妙に隠蔽されてきた歴史の暗部。著名な写真家もまた多かれ少なかれこの隠蔽に加担してきたし今なおしている写真家さえいる。バルトにいわせれば「写真家」には「写真家」の「神話」があるのだ。しかしせっせと「神話化」作業を推し進めたのは何の変哲もない、どこにでもある大手マスコミ資本であり、「大手マスコミ資本」というだけのことで一挙に神話化作業に加担した一般大衆という怪物である。写真は基本的に《危険なもの》だからだ。

「『写真家』の神話は、もちろん『写真』を社会と和解させる(神話とは、そうした和解の役割をもつものなのである)ことを目指して(これは必要なことなのか?ーーーもちろん必要なことである。『写真』は《危険なもの》だからである)、『写真』に種々の《機能》を負わせ、『写真家』はそれをアリバイとして利用する」(バルト「明るい部屋・P.41」みすず書房)

さきほど「突飛なもの」について触れた。しかし「突飛なもの」は何ら危険なものではない。すでに「突飛なもの」としてコード化完了済みの安心安全な子ども向けの玩具に過ぎない。「突飛なもの」は「突飛なもの」として分類されている。言語化されている。一般的文化的な資本の側へと、とっくの昔に回収済みなものでしかない。

「突飛な仕草は、私の視線を引きつけ、プンクトゥムを構成するにはうってつけである。だが、それはプンクトゥムではない。というのも、私はただちに、いやおうなしに、その姿勢を《突飛なもの》としてコード化するからである」(バルト「明るい部屋・P.65」みすず書房)

それはすでに名付けられている。名指すことができるものはいささも《アトピック》(わけがわからない)ものではない。バルトはむしろ名指すことができないということに、あるいは名指すことができないという「混乱」にこそ、資本主義化した無気力で怠惰で凡庸な文化を根こそぎ揺さぶるより良き「沈黙」の可能性を見出している。

「私が名指すことのできるものは、事実上、私を突き刺すことができないのだ。名指すことができないということは、乱れを示す良い徴候である。メイプル・ソープがボブ・ウィルソンとフィル・グラスを撮影した〔写真14〕。ボブ・ウィルソンは私を引きつけるが、しかし私は、なぜ引きつけられるのか、言いかえれば、《どこに》引きつけられるのか、を言うことができない。私を引きつけるのは、視線か、皮膚か、両手の位置か、バスケットシューズか?効果は確かに感じられるのだが、しかしその位置を突きとめることはできず、その記号、その名前が見出せない。その効果は切れ味がよいのだが、しかしそれが達しているのは、私の心の漠とした地帯である。それは鋭いが覆い隠され、沈黙のなかで叫んでいる。奇妙に矛盾した言い方だが、それはゆらめく閃光なのである」(バルト「明るい部屋・P.65」みすず書房)

言語化されない《アトピック》(わけがわからない)もの。それはありがちな「感動的映画」とは似ても似つかないものだ。いわゆる「感動的映画」を見た観衆はしばしば思想操作を目的として効果的に制作された「感動」のあまり、登場人物への「共感」はもはや限度を知らず、虐待され調教された幼児が偽物の救いに見出してしまった「感動」のためにすべてを投げ出し自分を失うかのように、その興奮を「言葉にできない」と口を揃える。恥も外聞もなく商品交換によって〔すでに資本化済みの〕涙さえ無批判に垂れ流してしまう場合すらしょっちゅう見かける。しかしそれはただちに「説明不可能」を意味しない。ちょっとした評論家の手にかかるとたちまちのうちに「言葉にできない」部分について気の利いた評論を披露することで観衆が「言葉にできなかった」理由についてさもわかったような諸要素を根拠なく因果関係づけて説明してしまう。御用評論家のお家芸である。そして一般の観衆は「感動的」映画と御用評論家による二重の無言の同盟によって相変わらず瞞着され、二重の瞞着にもかかわらずなぜか健気にも貴重な老後の生活資金を注ぎ込むことにさえ何らの躊躇も感じない深刻な不感症患者化されていくのだ。その点でバルトは写真においても常套句(ステレオタイプ)を信用しない。

「写真が心に触れるのは、その常套句的な美辞麗句、《技巧》、《現実》、《ルポルタージュ》、《芸術》、等々から引き離されたときである」(バルト「明るい部屋・P.67」みすず書房)

むしろ「切断」を切望する。ステュディウム(一般的文化)に汚染された人々を顰蹙させる《アトピック》(わけがわからない)もの。それはただ単なる反権力などというよくありがちな態度ではない。安直な反権力はむしろ権力との親密な年中行事的共同作業の反復でしかなくなることが珍しくないからだ。バルトが写真の中にステュディウム(一般的文化)ではなくプンクトゥム(名指され得ぬもの)を見出すのは、そこに名指されることのできない奇妙な空虚が、「切実なもの」「傷ついたもの」が静かに揺れ動くのを見るときをおいてほかにない。

BGM