日本では「ペリーヌ物語」として知られている「家なき子/家なき娘」。原田ひ香は次のようにいう。
「ペリーヌは母親ゆずりの語学力を活かして社長である祖父に近づくことができ、ラストは工場の環境改善にも携わる、シンデレラストーリーになっている。でも今の私からすると、まわりの少女たちが疲れ切ってその日暮らしになんの疑問も持たず熟睡する中、『ぜんぜんお金が残らないわ』といち早く気づいた、彼女の知性や未来を予測できる力の方が語学力よりも大切なように思う。一方、同じ部屋で明日をも知れず、こんこんと眠る少女たちとの差に、どこか残酷さも覚えるのだ」(原田ひ香「ペリーヌの卵とパン」『群像・10・P.103』講談社 二〇二四年)
これも当たり前だがひとつの「おいしそうな文学」特集の中の一節。
小説の中で「食べる」シーンを描くのはことのほか難しいだろうと思うのは読者も一緒だ。物理的に困難だとか不自然過ぎるとか理由はさまざま考えられる。
とはいえしかし、例えば飢餓に襲われれば何を食べても「おいしい」かも知れないとは誰しも考えるとしてさえ、それが実に「旨そう」に描けているかどうかはまた別の話。原武史が大岡昇平「野火」に触れているが、あの「塩」がどうしてあれほど「うめえ」のか。大岡昇平が書き方を「知っていた」あるいは「野火」を書き上げるまでのどこかで「知った」のでなければああは出来なかったに違いない。
さて原田ひ香のエッセイに戻ると最初にモンゴメリ「赤毛のアン」やオールコット「若草物語」といった作品名を記している。食べ物がよく出てくるので有名だが、また「それだけについての本もある」。もう少しで十月。こんな文章がある。
「グリーンゲイブルズの十月は美しい。窪地(くぼち)のカバノキの葉は金色に、果樹園(かじゅえん)の裏手のカエデの葉は夕陽と同じ鮮(あざ)やかな赤に色を変える。小道沿いのサクラの葉は深紅(しんく)色から緑がかった青銅色まで、さまざまな色合いにみごとに染(そ)まっていく」(モンゴメリ「赤毛のアン・P.162」二〇〇六年 西村書店)
この章のタイトルは「キイチゴのシロップ」。
ところで「それだけについての本」も実は家にある。
「赤毛のアンの手作り絵本Ⅰ、Ⅱ、Ⅲ」(白泉社 一九九五年)
今年の三月に亡くなった母が買って持っていた。去年の春の終わり頃から癌でじわじわと食欲がなくなりただ眺めるだけになってしまっていたが最後まで大切にしていた。
先に引用した「グリーンゲイブルズの十月」の光景。今はカナダのモントリオール近郊に「メープル街道」という観光名所が整備されていて訳文に近い雰囲気が味わえるようだが、「赤毛のアンの手作り絵本Ⅰ、Ⅱ、Ⅲ」のⅢ巻に「カナダ風メープルシロップ・パイ」が紹介されている。うちはお金持ちでも何でもないのに母はメープルシロップが欲しいと言い出した。欲しいと言うのなら食べられるかもと願って思いきって買ったのだが、見る見るうちに体力を消耗していく中で一日ごとに激しい衰弱に見舞われ食欲を奪われてしまうため結局食べることはできなかった。
それはそれとして、メープルシロップを使ったパイがカラー写真で載っている。何かの小説でただ単に食べる描写だけだったとしたら本当にそれだけで「おいしく」思えるだろうか。写真をみるとパイ自体は頁の下半分を占めるにとどめてあり、上半分は薄く青みがかった磁器で揃えた紅茶セットが映っている。そうして始めて「おいしい(かも知れない)」と思えるわけだが、今の日本ではよほど特別なことでもない限りとても無理な気がしてくるというほかないのが色んな意味で残念な気がする。