白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

大学医学部入試女性差別問題

2018年12月15日 | 日記・エッセイ・コラム
個人的にはフェミニズムというものをどれほど理解しているかは定かでない。が、反差別の立場から、見るに見かねて述べておきたい。大学医学部入試女性差別問題について。といっても、いきなり引用から始める。

「ヨーロッパなどの外国の人たちの観察の方法と、ニッポン人の観察の仕方とは、本来的に非常に差異がありまして、ニッポン人はどうも物事を大いに偏(かたよ)って見る傾向がありまして、たとえば烈火のごとく怒ったとか、ハッタとにらんだとか、そんな風に云ってしまって、それだけで済ましてしまうという形が多いのであります。物事をそれらの物事そのものの個性によって見る、そのもの自体にだけしかあり得ないというような根本的にリアルな姿を、取得しておらないのであります。

このような観察の仕方にくらべますと、ヨーロッパ人たちの物事の見方というものは、個々の事物にしかない、それぞれのその物事自体にしかあり得ないところの個性というものを、ありのままに眺めて、それをリアルに書いておりますので、それだけに非常に資料価値が高いのであります。そのリアリティというものは尊敬すべきであります。

併(しか)し、それは今日の話でありまして、この話の当時にありましては、今私が申したような、個性に即した物事の見かたとか、観察の仕方というようなものは、驚くべきことには、婦女子の感覚だと云われていたのであります。そして、貶(け)なされていたのであります。それはどいういうことかと申しますと、その当時の考え方では、男子たる者は、もっと大ざっぱに物事を考えなければいけないので、こういった細かい物事にはわざと眼をふさいで、気がついていても気がつかない振りをするほうが立派なのだ、という人生観がずーっと流行していたからであります。それが絶対的な権威をもったニッポン的人生観であったわけであります。こういうバカバカしい事が、ニッポン人一般の、物事の観察法、世界観といいますか、人間観察というものを大変に遅鈍にさせまして、実態にふれることのない、抽象的な考え方をはびこらせることになったのであります」(坂口安吾「ヨーロッパ的性格、ニッポン的性格」『坂口安吾全集15・P.451~456』ちくま文庫)

「リアルに書いており」「資料価値が高い」「リアリティ」「個性に即した物事の見かた」。それらのどこがどういけないというのだろうか。むしろ要するに、高度な水準の記述性、ということだ。記述性の水準を判定するに当たって記録者の「性別」がどうかなどまったく関係ない。織田信長に関する資料として安吾が引用している実例も男性による記述だ。しかしなぜかそれらは「例外」として、「婦女子の感覚」というレッテルを貼り付けられ「貶(け)なされていた」。逆に「抽象的な考え方」という言葉の説明に関し、安吾は、「禅僧の態度」を例に取って比較している。

「禅には禅の世界だけの約束というものがあるのでありまして、そういった約束の上に立って、論理を弄(ろう)しているものなのであります。すべては、相互に前もって交わされている約束があって始めて成り立つ世界なのであります。例えば、『仏とは何ぞや?』と問いますと、『無である』『それは、糞搔(くそか)き棒である』とか云うのです。お互いにそういった約束の上で分ったような顔をしておりますけれども、それは顔だけの話なんであります。分っているかどうかが分らないのであります。ですから、実際のところは、仏というものは仏である、糞搔き棒は糞搔き棒である、というような尋常、マットウな論理の前に出ますというと、このような理論はまるで役に立たないのであります。そして、このような一番当り前の論理の前に出まして、それを根本的に覆(くつが)えすことの出来る力がどんなものだか、どこにあるかと云いますと、それは実践というものと思想というものが合一しておるところにしかないのであります。

ところが、このような生き方は、禅僧にとってはまことに困難なのであります。それで、禅僧というものは、約束の上に立っている観念でだけものごとを考えているばかりでありまして、実践がない。悟りというようなものを観念の世界に模索しておるのでありますから、智力というものに頼ってはいても、実際の自分の力なるものがどのくらいあるのか、分っておる人間はいないのであります。ですから、カトリックの坊さんのように、実践ということに全べてを賭けている宗教家、その実際的な行動の前には、禅僧は非常に脅威を感じるのであります。自分の実力のなさ、みすぼらしさを感じるわけであります。そうして、禅宗を信じる者が、僧侶でありながらカトリック教へ転向するということが、多いに流行したのであります。それは、今日、われわれが想像いたしますよりも、遥かに多数なのであります。これは今日から見ますと驚くべきことではありますけれども、事実なのでありまして、それは記録に残っておるのであります」(坂口安吾「ヨーロッパ的性格、ニッポン的性格」『坂口安吾全集15・P.472~473』ちくま文庫)

「仏というものは仏である」「糞搔き棒は糞搔き棒である、というような尋常、マットウな論理」。もっともだろう。もし仮に癌細胞摘出手術の際に、「メスとは何ぞや?」などと一体誰が言い出すだろうか。「メスはメス」であり「点滴は点滴」であり「血管は血管」であり「癌細胞は癌細胞」であって、それ以上でもなければ以下でもない。

ところで、「カトリックの坊さんのように、実践ということに全べてを賭けている宗教家、その実際的な行動」、とある。戦国時代末期、信長の時代、キリスト教徒はその生活の全てを信仰に賭けるという実践的態度を維持していた。徳川幕藩体制が崩壊し明治になる頃には再び活発に活動の場を与えられるようになったが、その時キリスト教に強く惹かれ入信したのは没落階級と化していた武士であり、しかもほとんど武士周辺の間でしか信徒を獲得できなかった(プライドの保持/武士道の再発見)という経緯がある。従って、近代日本のキリスト教勢力はとるに足らない範囲でしか広がりを見せていない。一般的には大衆のあいだで生活/生命のすべてを賭けてまで実践的態度の表明と実行が必要となるのは昭和になってから、大資本を相手として階級闘争を繰り広げるほかなくなってきた人々によるマルクス主義の本格的展開を待たねばならない。この時、再び「実践的」とは何か、が問われることになった。しかしマルクスは実に用意周到である。

「人間的思惟に対象的真理がとどくかどうかの問題はーーーなんら観想の問題などではなくて、一つの《実践的な》問題である。実践において人間は彼の思惟の真理性、すなわち現実性と力、此岸性を証明しなければならない。思惟ーーー実践から切り離された思惟ーーーが現実的か非現実的かの争いは一つの純《スコラ的な》問題である」(マルクス「フォイエルバッハにかんするテーゼ」・マルクス=エンゲルス『ドイツ・イデオロギー・P.22』国民文庫)

さて、大学医学部不正入試問題に戻ろう。「女子の方がコミュニケーション能力が高い」という発言については、公正であるべき入試に「性別は関係ない」として抗議するのが妥当だろうと考える。けれども、低所得者層を実際に生きている五十歳の「社会化された」一個人の立場としては、もう一歩踏み込んで考えてみて欲しいものだと、多少なりとももどかしい思いはする。大学入試の結果(=学歴)や家柄や階級の違いによって個人の人間性もしくは人格のほとんどすべてが「あらかじめ」決定されてしまっている「かのような」近代社会の中で、なぜマルクスは次のようにも言い放ったのか。

「ある者は他の者よりも事実上多く受けとり、ある者は他の者より富んでいる等々ということが生ずる。これらすべての欠陥を避けるためには、権利は平等であるよりも、むしろ不平等でなければならないだろう。ーーー権利は、社会の経済的な形態とそれによって制約される文化の発展よりも高度であることは決してできない。ーーー各人はその能力に応じて、各人にはその必要に応じて!」(マルクス「ゴータ綱領批判・P.38〜39」岩波文庫)

さらにもし、この事件で大学に抗議する人々が多く出現し始めた場合、大学側はどのように捉えてみるだろう。「大学の秩序」に対する「犯罪」とまで見たがる人物などが出てこないとは限らない。あるいは抗議活動参加者を指して苦々しく感じるばかりに「暴徒」扱いしたいと欲する者すらいるだろう。とすれば「大学」とは一体誰が何をする「関連機関」なのかさっぱり分からず、そしてまた「大学」はこれまで「国家の中でどういう機能を果たす」ために設置・運営されてきたのか、という根本的な問いさえ問い直されてくるに違いない。一九六八年のように。ところでニーチェは正しく「暴徒」の側を支持するのだ。

「《犯罪》は『社会秩序に反抗する暴動』という概念のうちの一つである。暴徒は『罰せられる』のではなくて、《制圧される》のである。暴徒というものは憐れむべき軽蔑すべき人間でもありうるが、それ自体では暴動にはなんら軽蔑すべきものはない、ーーーしかも、現今のごとき社会に関して暴動をおこすということは、それ自体ではまだ人間の価値を低劣ならしめはしない。そうした暴徒は、攻撃することを要する何ものかを私たちの社会で感取しているということのゆえに、畏敬をうけてすらよい場合がある、ーーーすなわち、それは、その暴徒が私たちを仮眠からめざめさせる場合である」(ニーチェ「権力への意志・第三書・P.257」ちくま学芸文庫)

BGM

平成最後もカラクリ国会

2018年12月11日 | 日記・エッセイ・コラム
ここひと月ほどだろうか、「平成最後の」というキャッチ・フレーズ。あちこちで見られる(見せられる)/聞かれる(聞かされる)日はないと言っていいくらいだ。いい加減、しつこい。からだに障る。実を言えば、それほどまでに景気が不安定なのだろう。ところで八十年代バブル景気時代に学生だった個人としては、「平成最後の」という言葉はまた、残念ながら景気動向ばかりを指し示すだけの言葉ではまったくない。八十年代バブルはまだ「昭和」という抜きがたく動かしがたい歴史の暗渠を陰に陽に伴ってもいた。坂口安吾はいう。

「藤原氏や将軍家にとって何がために天皇制が必要であったか。何が故に彼等自身が最高の主権を握らなかったか。それは彼らが自ら主権を握るよりも、天皇制が都合がよかったからで、彼らは自分自身が天下に号令するよりも、天皇に号令させ、自分が先ずまっさきにその号令に服従して見せることによって号令が更によく行きわたることを心得ていた。その天皇の号令とは天皇自身の意志ではなく、実は彼等の号令であり、彼等は自分の欲するところを天皇の名に於て行い、自分が先ずまっさきにその号令に服してみせる、自分が天皇に服す範を人民に押しつけることによって、自分の号令を押しつけるのである。自分自らを神と称し絶対の尊厳を人民に要求することは不可能だ。だが、自分が天皇にぬかずくことによって天皇を神たらしめ、それを人民に押しつけることは可能なのである。そこで彼等は天皇の擁立を自分勝手にやりながら、天皇の前にぬかずき、自分がぬかずくことによって天皇の尊厳を人民に強要し、その尊厳を利用して号令していた。それは遠い歴史の藤原氏や武家のみの物語ではないのだ。見給え。この戦争がそうではないか」(坂口安吾「続堕落論」『坂口安吾全集14・P.586~587』ちくま文庫)

「昨年八月十五日、天皇の名によって終戦となり、天皇によって救われたと人々は言うけれども、日本歴史の証するところを見れば、常に天皇とはかかる非常の処理に対して日本歴史のあみだした独創的な作品であり、方策であり、奥の手であり、軍部はこの奥の手を本能的に知っており、我々国民又この奥の手を本能的に待ちかまえており、かくて軍部日本人合作の大詰の一幕が八月十五日となった。たえがたきを忍び、忍びがたきを忍んで、朕(ちん)の命令に服してくれという。すると国民は泣いて、外ならぬ陛下の命令だから、忍びがたいけれども忍んで負けよう、と言う。嘘をつけ!嘘をつけ!嘘をつけ!」(坂口安吾「続堕落論」『坂口安吾全集14・P.588』ちくま文庫)

「我等国民は戦争をやめたくて仕方がなかったのではないか。竹槍をしごいて戦車に立ちむかい、土人形の如くにバタバタ死ぬのが厭でたまらなかったのではないか。戦争の終ることを最も切に欲していた。そのくせ、それが言えないのだ。そして大義名分と云い、又、天皇の命令という。忍びがたきを忍ぶという。何というカラクリだろう。惨(みじ)めとも又なさけない歴史大欺瞞(ぎまん)ではないか。しかも我等はその欺瞞を知らぬ。天皇の停戦命令がなければ、実際戦車に体当りをし、厭々ながら勇壮に土人形となってバタバタ死んだのだ。最も天皇を冒瀆する軍人が天皇を崇拝するが如くに、我々国民はさのみ天皇を崇拝しないが、天皇を利用することには狎(な)れており、その自らの狡猾さ、大義名分というずるい看板をさとらずに、天皇の尊厳の御利益を謳歌している。何たるカラクリ、又、狡猾さであろうか。我々はこの歴史的カラクリに憑(つ)かれ、そして、人間の、人性の、正しい姿を失ったのである。人間の、又人性の正しい姿とは何ぞや。欲するところを素直に欲し、厭な物を厭だと言う、要はただそれだけのことだ。好きなものを好きだという、好きな女を好きだという、大義名分だの、不義は御法度(ごはっと)だの、義理人情というニセの着物をぬぎさり、赤裸々な心になろう、この赤裸々な姿を突きとめ見つめることが先ず人間の復活の第一の条件だ」(坂口安吾「続堕落論」『坂口安吾全集14・P.588~589』ちくま文庫)

ここでもし「総括」と言えば大袈裟な感じが湧いてきて何となく好きでない。だからといって「反省」と言えば余りに子供っぽい。むしろ、そのようなことよりずっと大事なことは、わずかここ数年の間に、「実践的態度」とは何かという問いが改めて急速に問い直されなければならなくなってきた点だろう。それはそうと考察のためには或る種の身体能力が必要だ。まずニーチェから。

「《『漂泊者』は語る》。──われわれのヨーロッパの道徳性を一度遠くから眺められるようにするためには、それを過去あるいは将来の別な道徳性と比べて見るためには、ある町の塔の高さのほどを知ろうとする漂泊者のやりかたと同じことをやらねばならない、──つまり、それをやるために漂泊者はその町を《立ち去る》。『道徳的先入見についての考察』には、それが先入見に関する先入見に堕さないようにするためには、道徳《外》に位置することが、われわれがそこまで昇り・攀(よ)じ・飛翔すべき何か善悪の彼岸といった位置が、前提となる」(ニーチェ「悦ばしき知識・P.451」ちくま学芸文庫)

次にマルクス=エンゲルスから。

「実直なドイツ市民の胸中にさえ快適な国民感情をよびおこすこの哲学的大風呂敷(おおぶろしき)をただしく評価するためには、このヘーゲル新派運動全体のちっぽけさ、地域的狭さ、ことにこれら英雄たちの実際上の仕事と、これらの仕事にかんする幻想との悲喜劇的対照をはっきりさせるためには、この騒動全体を一度ドイツを出た外の立場からとっくりと眺めてみる必要がある」(マルクス=エンゲルス「ドイツ・イデオロギー・P.37」国民文庫)

情報通信技術あるいはインターネットの爆発的発展が可能にした「道徳《外》に位置する」ということ、そして「外の立場からとっくりと眺めてみる」ということ。試してみるのはわるくない。いやまったくわるくない。

BGM

反カルト・反メシア・反-自意識過剰

2018年12月08日 | 日記・エッセイ・コラム
シェークスピアが今日のような「物語/悲劇」として発見されたのは十九世紀ドイツ・ロマン派の中においてである。ニーチェはいう。

「シェークスピアについても事情は異ならない。この驚くべきスペイン風・ムーア風・ザクセン風の趣味綜合については、アイスキュロスと交情のあった古代アテーナイ人は半ば死ぬほど笑うか怒るかしたことであろう」(ニーチェ「善悪の彼岸・P.202」岩波文庫)

ではなぜ、シェークスピアの著作が、とりわけ「ハムレット」などの悲劇が、今日のように「自意識過剰」な「物語」として高く評価されるようになったのか。なお高く評価され続けているのか。

「われわれが『高次の文化』と呼ぶものは殆どすべて、《残忍》の精神化と深刻化に基づいている。ーーーあの『粗暴な野獣』は決して殺されてしまったのではない。それは生きており、栄えている。ーーーそれはただーーー神化されただけなのだ」(ニーチェ「善悪の彼岸・P.212」岩波文庫)

「神化されただけ」。つまりキリスト教によって「弱化された=馴致された=飼い慣らされた」ということを意味している。と同時に、一体どのような事態が発生してきたか。「暴力意志の内向化」がそれだ。さらに「内向化=転倒」した「暴力意志」は、とどまるところを知らないまま「残忍への意志」として、自分自身の内側へ向けられた「自己滅却・自己否認・自己犠牲」などといった種々の精神的肉体的な自己暴圧装置となる。そしてこの自己暴圧装置の諸機能は今なお片時も休むことなく様々な形を取って働き続けている。というのも、自分自身に向け換えられた自己暴圧という態度の中にさえも、ロマン主義的な、或る種の「甘美な享楽」があるからだ。

「悲劇の悲痛な悦楽をなすものは残忍である。いわゆる悲劇的同情において、根本的にはついに形而上学の最も高く最も繊細な戦慄に至るまでのすべての崇高なものにおいてすら、快適の感じを惹(ひ)き起こすものは、その甘美さをひとりそのうちに混入された残忍の要素から得ているのである。ーーー残忍とは《他人の》苦悩を眺める際に生じるものだとのみ教えなければならなかった以前の愚鈍な心理学を追い払わなければならない。自分自身の苦悩、自分自らを苦しめるということにも夥(おびただ)しい、有り余るほどの享楽があるのだ」(ニーチェ「善悪の彼岸・P.212」岩波文庫)

その証拠が今もロング・セラーを続けるシェークスピア悲劇、あるいは「自意識過剰なハムレット」などという現象に端的に現れていると言えはしないだろうか。

さて、そのように倒錯した精神的暴力装置としてのキリスト教だが、他の宗教的政治的諸勢力から幾度となく暴圧されながらも、むしろそれを逆にバネに世界最大の宗教勢力として発展してきた。なかでも注目されたのは、ほかでもない、その「殉教者」の態度が立派なことだった。同志がむざむざと処刑されるシーンを他の一般大衆が見るという構造。無論、キリスト教徒がそれを阻止しようとしなかったわけでは決してない。圧倒的な力関係の違いがある場合、阻止しようとしても出来なかっただけだ。そしてまた「抵抗してはいけない」という教義の特異さもあった。だがそのぶん、同志が残虐この上ない方法で処刑されるシーンを一般大衆が見る、という形を取って、そんな実状をさらなる布教のために優位に利用したこともまた事実であるに違いない。キリスト教徒の無残極まりない死体。するとなおのこと、無慈悲な処刑に耐えた「殉教」に対する尊敬とキリスト教に対する敬意が民衆の心を捉えるという逆説が起こってきた。こうして異端者は逆に英雄となる。しかし、そんな逆説も或るちょっとした考え方の転倒をきっかけにして見る見る間に消えてしまった。坂口安吾は次のように述べている。

「パジェスの『日本切支丹(キリシタン)宗門史』だとか『鮮血遺書』のようなものを読んでいると、切支丹の夥(おびただ)しい殉教に感動せざるを得ないけれども、又、他面に、何か濁ったものを感じ、反撥を覚えずにいられなくなるのである。当時は切支丹の殉教の心得に関する印刷物があったそうで、切支丹達はそれを熟読して死に方を勉強していた。潜入の神父とか指導者達はまるで信徒の殉教を煽動しているような異常なヒステリイにおちており、それが第一に濁ったものを感じさせる。切支丹は抵抗してはいけない掟(おきて)であるから、捕吏に取囲まれたとき、わざわざ大小を鞘(さや)ぐるみ抜きとって遠方へ投げすてて捕縛されたなどという御念の入った武士があり、こういうものを読むと、その愚直さにいたましい思いをさせられ、やりきれない思いになる。

然し、彼等の堂々たる死に方には実際感動すべきものがあるのであって、始めのころは斬首や磔(はりつけ)であったが、その立派な死に方に感動して首斬りの役人までが却(かえ)って切支丹になる者がある始末、そこで火炙(ひあぶ)りを用いるようになり、それも直接火をかけず、一間ぐらい離れた所から炙(あぶ)るようにし、網目をわざと弛(ゆる)めておいた。というのは、彼等が見苦しく逃げ廻ったりすることの出来る余地を与えるわけで、見物にまぎれて刑場をとりまいている信徒達に彼等の敬愛する先輩達の見苦しく取りみだした様をみせつけて改宗をうながすよすがにするためであった。この火炙りにかかると一時間から三四時間生きているのが普通であったが、見苦しく取りみだして逃げ廻ったりするのは極めて稀れで、大概は身動きもせず唯一念に祈念の声を放ちつづけて堂々と死に、その荘厳さに見物人から多数の切支丹になる者が絶えなかった。結局二十年目に穴つるしという刑を発明したが、手足を縛して穴の中へ逆さに吊るすのだそうで、これにかかると必ず異様滑稽なもがき方をするのがきまりで、一週ぐらい生きているから、見物人もウンザリして引上げてしまう。苦心二十年ようやく切支丹の死の荘厳を封じることが出来、その頃から切支丹がめっきり衰えた」(坂口安吾「文学と国民生活」『坂口安吾全集14・P.470~471』ちくま文庫)

昨今、目に余る日本政府のカルト性。その切り崩しのための糸口の、ささやかなアイデアの一つがこんなところにもあるように思える。例えば、ウルトラ・ナショナリズムに対してはモノマネや諧謔や皮肉の継続を。同時に、帝国主義的キリスト教徒に対してはその荘厳さを取り上げて逆に滑稽さに置き換えてしまうこと。などなど。

BGM

近代/文学/共同体6

2018年12月01日 | 日記・エッセイ・コラム
小川未明から。

「『こんなにおそくなってからーーー』と、おばあさんは口のうちでいいながら戸を開けてみました。するとそこには、十二、三の美しい女の子が目をうるませて立っていました。『どこの子か知らないが、どうしてこんなにおそくたずねてきました?』と、おばあさんは、いぶかしがりながら問いました。『私(わたし)は、町の香水製造場(せいぞうじょう)で雇われています。毎日、毎日、白ばらの花から取った香水をびんに詰めています。そして、夜、おそく家(うち)に帰ります。今夜も働いて、独りぶらぶら月がいいので歩いてきますと、石につまずいて、指をこんなに傷つけてしまいました。私は、痛くて、痛くて我慢ができないのです。血が出てとまりません。もう、どの家(うち)もみんな眠ってしまいました。この家(うち)の前を通ると、まだおばあさんが起きておいでなさいます。私は、おばあさんがごしんせつな、やさしい、いい方だということを知っています。それでつい、戸をたたく気になったのであります』と、髪の毛の長い、美しい少女はいいました。おばあさんは、いい香水の匂(にお)いが、少女の体にしみているとみえて、こうして話している間に、ぷんぷんと鼻にくるのを感じました」(小川未明「月夜と眼鏡」『小川未明童話集・P.30〜31』新潮文庫)

あるいは。

「あちらに輝いている小さな星がいいました。この星は、終夜(しゅうや)、下の世界を見守っている、やさしい星でありました。『いえ、いま起きている人があります。私(わたし)は一軒の貧しげな家をのぞきますと、二人の子供は、昼間の疲れですやすやとよく休んでいました。姉のほうの子は、工場(こうば)へいって働いているのです。弟のほうの子は、電車の通る道の角に立って新聞を売っているのです。二人の子供は、よくお母さんのいうことをききます。二人とも、あまり年がいっていませんのに、もう世の中に出て働いて、貧しい一家のために生活の助けをしなければならないのです。母親は、乳飲(ちの)み児(ご)を抱いて休んでいました。しかし、乳が乏しいのでした。赤ん坊は、毎晩夜中になると乳をほしがります。今、お母さんは、この夜中に起きて、火鉢(ひばち)で牛乳のびんをあたためています。そして、もう赤ちゃんがかれこれ、お乳をほしがる時分だと思っています』。『二人の子供はどんな夢を見ているだろうか?せめて夢になりと、楽しい夢を見せてやりたいものだ』と、ほかの一つの星がいいました。『いや、姉のほうの子は、お友だちと公園へいって、道を歩いている夢を見ています。春の日なので、いろいろの草花(くさばな)が花壇の中に咲いています。その花の名などを、二人が話し合っています。ふとんの外へ出ている顔に、やさしいほほえみが浮かんでいます。この姉のほうの子は、いま幸福であります』と、やさしい星は答えました。『男の子は、どんな夢を見ているだろうか?』と、またほかの星がたずねました。『あの子は、昨日(きのう)、いつものように、停留場(ていりゅうじょう)に立って新聞を売っていますと、どこかの大きな犬がやってきて、ふいに、子供にむかってほえついたので、どんなに、子供はびっくりしたでしょう。そのことが、頭にあるとみえて、いま大きな犬に追いかけられた夢を見てしくしくと泣いていました。無邪気なほおの上に涙が流れて、うす暗い燈火(ともしび)の光が、それを照らしています』と、やさしい星は答えました」(小川未明「ある夜の星たちの話」『小川未明童話集・P.40~41』新潮文庫)

柄谷行人は次のように指摘する。

「小川未明における児童は、『現実の子ども』からみると、ある転倒した観念にすぎないといわれている。未明における『児童』がある内的な転倒によって見出されたことはたしかであるが、しかし、実は『児童』なるものはそのように見出されたのであって、『現実の子ども』や『真の子ども』なるものはその《あと》で見出されたにすぎないのである。したがって、『真の子ども』というような観点から未明における『児童』の転倒性を批判することは、この転倒の性質を明らかにするどころか、いっそうそれをおおいかくすことにしかならない」(柄谷行人「日本近代文学の起源・P.157」講談社文芸文庫)

国木田独歩、田山花袋、志賀直哉、徳富蘆花など「日本近代文学」の先駆者らによる「風景/内面/告白/病」の「発見」についてはこれまで触れてきた。

「まったく同じことが『児童』についてもいえる。『児童』とは一つの『風景』なのだ。それは《はじめ》からそうだったし、現在もなおそうである。したがって、小川未明のようなロマン派的文学者によって『児童』が見出されたことは奇異でも不当でもない。むしろ最も倒錯しているのは『真の子ども』などという観念なのである」(柄谷行人「日本近代文学の起源・P.158」講談社文芸文庫)

ではなぜ、「真の子ども」あるいは「真の人間」という観念は問題なのか。

「ユートピアを構想する者は(そのユートピアでの)独裁者だと、ハンナ・アーレントがいっているが、『真の人間』、『真の子ども』を構想する教育者・児童文学者はそのような《独裁者》でしかありはしない。しかも、いつもそのことをまったく意識しない」(柄谷行人「日本近代文学の起源・P.186」講談社文芸文庫)

というわけだ。しかし「児童」や「子ども」を語る時、避けて通れない課題として「学制」というものがある。学制が社会主義的だとすれば旧ソ連のような社会を再び出現させてしまうことになるだろう。また学制がナチス・ドイツのような支配形態を持てばそれはそれでファシズムの再来を反復させてしまう。ならば、「民主主義的」な「学校」なら良いのではないか。そう考えて信じ切っているとこれもまた厄介な問題社会へ転倒するという事実を社会は見ない。あるいは「民主主義的」な「学校」なら良いに決まっていると信じて疑わなくなってしまい、「民主主義」もまた制度的諸問題を孕んでいるという決定的な負の部分から目をそらせてしまう危険性を社会全体へ蔓延させたまま放置してしまう。そうするともう、ほとんど誰も、「民主主義もまた完全ではない」という前提を見失っている「異常」な状態が逆に常態化する、という倒錯の内に生きていくこととなる。冗談ではない、と思うのだ。

レーニンはいう。

「たとえば、われわれがすでにその深遠な意見を知っている新『イスクラ』の例の『一実践家』は、私が党を、中央委員会という支配人をいただく『巨大工場』と考えているといって告発している(第57号、付録)。この『一実践家』は、彼のもちだしたこのおどし文句が、プロレタリア組織の実践にも理論にもつうじていないブルジョア・インテリゲンツィアの心理を一挙にさらけだしていることに、気づいてもいない。ある人にはおどし道具としかみえない工場こそ、まさにプロレタリアートを結合し、訓練し、彼らに組織を教え、彼らをその他すべての勤労・被搾取人民層の先頭にたたせた資本主義的協業の最高形態である。資本主義によって訓練されたプロレタリアートのイデオロギーとしてのマルクス主義こそ、浮動的なインテリゲンツィアに、工場がそなえている搾取者としての側面(餓死の恐怖にもとづく規律)と、その組織者としての側面(技術的に高度に発達した生産の諸条件によって結合された共同労働にもとづく規律)との相違を教えたし、いまも教えている。ブルジョア・インテリゲンツィアには服しにくい規律と組織を、プロレタリアートは、ほかならぬ工場というこの『学校』のおかげで、とくにやすやすとわがものにする」(レーニン「一歩前進二歩後退・P.261」国民文庫)

「学校のおかげ」、ということについて特に力点を置いて、柄谷はこう指摘する。

「工場は『学校』であり、また軍隊も『学校』であり、逆にいえば、近代的な学校制度そのものがそのような『工場』でもある。工場あるいはマルクスのいう産業プロレタリアートがほとんどない国で、革命権力がまっさきにやるのは、実際の工場を作ることーーーそれは不可能であるーーーではなく、結局『学制』と『徴兵制』であって、それによって国家全体を工場=軍隊=学校として組織しなおすのである。その際のイデオロギーが何であってもよい。近代国家は、それ自体『人間』をつくりだす一つの教育装置なのである」(柄谷行人「日本近代文学の起源・P.185」講談社文芸文庫)

旧ソ連が免れなかったように、ナチス・ドイツも、さらには大日本帝国の「学制」もまたその全体主義化から逃れることはできなかった。しかし逆説的に思われるかも知れないが、同時に、「民主主義的」という点で世界の最先端を走っていたアメリカもまたそうだと言わざるを得ない。特に昨今のアメリカを見れば一目瞭然というほかない。とはいえ、明治の日本文学のどこにもまったく救いは持てない、と柄谷はいっているわけではない。

「明治三十年代に、それまで個々の例外的な突出としてあった『近代文学』が一般化するにいたったのは、『学制』が整備され定着してきたことと関連している。そして、その上で、小川未明らによる『児童の発見』が可能だったのである。江戸以来、徒弟(とてい)制を引きずっていた硯友社系の作家らは、そのような『児童』を見出すことができなかった。しかし、われわれはその周辺に、子供の《ために》書かれたものではないが子供のことを書いたすぐれた作品を見出すことができる。樋口一葉の作品である」(柄谷行人「日本近代文学の起源・P.186」講談社文芸文庫)

樋口一葉「にごりえ・たけくらべ」新潮文庫

さらに、時代は明治でなくなるものの、坂口安吾のエッセイから重要なヒントを導き出している。

「安吾がここでいう物語は、『物語』そのものを突き破るものとしてある。ヴラジーミル・プロップの『民話の形態学』以来、神話や昔話が諸要素の構造的組み替えにほかならないことが明らかにされている。口承(こうしょう)としての昔話は、まさにそのために、構造論的規則に厳密に従うのである。しかし、安吾が『ふるさと』とよんだものは、そのように規則化されねば人間存在を自壊させてしまうような、ある過剰性・混沌だといってよい。そして、それは、『文学』という新たな物語を『突き放す』ものとしてありつづけている」(柄谷行人「日本近代文学の起源・P.174~175」講談社文芸文庫)

安吾から引用しておきたい。これまた長いが、今なお少しは「お役立ち」な文章だ。少なくとも「文学・批評」という「制度」の中で、ともすればあっという間もなく発火しがちなファシズム、それも昨今は非常にソフトなイメージを纏って安易かつ簡便に出現してくるファシズムから逃れ出るためには、大変有益なテキストであるに違いない。

「シャルル・ペロオといえば『サンドリヨン』とか『青髯(あおひげ)』とか『眠りの森の美女』というような名高い童話を残していますが、私はまったくそれらの代表作と同様に、『赤頭巾』を愛読しました。否、むしろ『サンドリヨン』とか『青髯』を童話の世界で愛したとすれば、私はなにか大人の寒々とした心で『赤頭巾』のむごたらしい美しさを感じ、それに打たれたようでした。愛くるしくて、心が優しくて、すべてが美徳ばかりで悪さというものが何もない可憐な少女が、森のお婆さんの病気を見舞に行って、お婆さんに化けている狼にムシャムシャ食べられてしまう。私達はいきなりそこで突き放されて、何か約束が違ったような感じで戸惑いしながら、然し、思わず目を打たれて、プツンとちょん切られた空しい余白に、非常に静かな、しかも透明な、ひとつの切ない『ふるさと』を見ないでしょうか」(坂口安吾「文学のふるさと」『坂口安吾全集14・P.324』ちくま文庫)

「これは『狂言』のひとつですが、大名が太郎冠者(たろうかじゃ)を供につれて寺詣でを致します。突然大名が寺の屋根の鬼瓦(おにがわら)を見て泣きだしてしまうので、太郎冠者がその次第を訊ねますと、あの鬼瓦はいかにも自分の女房に良く似ているので、見れば見るほど悲しい、と言って、ただ、泣くのです。まったく、ただ、これだけの話なのです。四六版の本で五、六行しかなくて、『狂言』の中でも最も短いものの一つでしょう。これは童謡ではありません。いったい狂言というものは劇の中間にはさむ息ぬきの茶番のようなもので、観衆をワッと笑わせ気分を新らたにさせればそれでいいような役割のものではありますが、この狂言を見てワッと笑ってすませるか、どうか、尤(もっと)も、こんな尻切れトンボのような狂言を実際舞台でやれるかどうかは知りませんが、決して無邪気に笑うことはできないでしょう。この狂言にもモラルーーー或いはモラルに相応する笑いの意味の設定がありません。お寺詣に来て鬼瓦を見て女房を思いだして泣きだす、という、なるほど確かに滑稽で、一応笑わざるを得ませんが、同時に、いきなり、突き放されずにもいられません。私は笑いながら、どうしても可笑(おか)しくなるじゃないか、いったい、どうすればいいのだーーーという気持になり、鬼瓦を見て泣くというこの事実が、突き放されたあとの心の全てのものを攫(さら)いとって、平凡だの当然だのというものを超躍した驚くべき厳しさで襲いかかってくることに、いわば観念の眼を閉じるような気持になるのでした。逃げるにも、逃げようがありません。それは、私達がそれに気付いたときには、どうしても組みしかれずにはいられない性質のものであります。宿命などというものよりも、もっと重たい感じのする、のっぴきならぬものであります。これも亦(また)、やっぱり我々の『ふるさと』でしょうか」(坂口安吾「文学のふるさと」『坂口安吾全集14・P.325~326』ちくま文庫)

「晩年の芥川龍之介の話ですが、時々芥川の家へやってくる農民作家ーーーこの人は自身が本当の水呑百姓の生活をしている人なのですが、あるとき原稿を持ってきました。芥川が読んでみると、ある百姓が子供をもうけましたが、貧乏で、もし育てれば、親子共倒れの状態になるばかりなので、むしろ育てないことが皆のためにも自分のためにも幸福であろうという考えで、生れた子供を殺して、石油缶だかに入れて埋めてしまうという話が書いてありました。芥川は話があまり暗くて、やりきれない気持になったのですが、彼の現実の生活からは割りだしてみようのない話ですし、いったい、こんな事が本当にあるのかね、と訊ねたのです。すると、農民作家は、ぶっきらぼうに、それは俺がしたことなのだがね、と言い、芥川があまりの事にぼんやりしていると、あんたは、悪いことだと思うかね、と重ねてぶっきらぼうに質問しました。芥川はその質問に返事することができませんでした。何事にまれ言葉が用意されているような多才な彼が、返事ができなかったということ、それは晩年の彼が始めて誠実な生き方と文学との歩調を合せたことを物語るように思われます。さて、農民作家はこの動かしがたい『事実』を残して、芥川の書斎から立去ったのですが、この客が立去ると、彼は突然突き放されたような気がしました。たった一人、置き残されてしまったような気がしたのです。彼はふと、二階へ上り、なぜともなく門の方を見たそうですが、もう、農民作家の姿は見えなくて、初夏の青葉がギラギラしていたばかりだという話であります。この手記ともつかぬ原稿は芥川の死後に発見されたものです。ここに、芥川が突き放されたものは、やっぱり、モラルを超えたものであります。子を殺す話がモラルを超えているという意味ではありません。その話には全然重点を置く必要がないのです。女の話でも、童話でも、なにを持って来ても構わぬでしょう。とにかく一つの話があって、芥川の想像もできないような、事実でもあり、大地に根の下りた生活でもあった。芥川はその根の下りた生活に、突き放されたのでしょう。いわば、彼自身の生活が、根が下りていないためであったかも知れません。けれども、彼の生活に根が下りていないにしても、根の下りた生活に突き放されたという事実自体は立派に根の下りた生活であります。つまり、農民作家が突き放したのではなく、突き放されたという事柄のうちに芥川のすぐれた生活があったのであります。もし、作家というものが、芥川の場合のように突き放される生活を知らなければ、『赤頭巾』だの、さっきの狂言のようなものを創りだすことはないでしょう。モラルがないこと、突き放すこと、私はこれを文学の否定的な態度だとは思いません。むしろ、文学の建設的なもの、モラルとか社会性というようなものは、この『ふるさと』の上に立たなければならないものだと思うものです」(坂口安吾「文学のふるさと」『坂口安吾全集14・P.326~328』ちくま文庫)

「昔、ある男が女に懸想(けそう)して頻(しき)りに口説(くど)いてみるのですが、女がうんと言いません。ようやく三年目に、それでは一緒になってもいいと女が言うようになったので、男は飛びたつばかりに喜び、さっそく、駈落(かけおち)することになって二人は都を逃げだしたのです。芥の渡しと言うところをすぎて野原へかかった頃には夜も更(ふ)け、そのうえ雷が鳴り雨が降りだしました。男は女の手をひいて野原を一散に駈けだしたのですが、稲妻にてらされた草の葉の露をみて、女は手をひかれて走りながら、あれはなに?と尋ねました。然し、男はあせっていて、返事をするひまもありません。ようやく一軒の荒れ果てた家を見つけたので、飛びこんで、女を押入の中へ入れ、鬼が来たら一刺しにしてくれようと槍(やり)をもって押入れの前にがんばっていたのですが、それにも拘(かかわ)らず鬼が来て、押入の中の女を食べてしまったのです。生憎(あいにく)そのとき、荒々しい雷が鳴りひびいたので、女の悲鳴もきこえなかったのでした。夜が明けて、男は始めて女がすでに鬼に殺されてしまったことに気付いたのです。そこで、ぬばたまのなにかと人の問ひしとき露と答へてけなましものをーーーつまり、草の葉の露を見てあれはなにと女がきいたとき、露だと答えて、一緒に消えてしまえばよかったーーーと言う歌をよんで、泣いたという話です。この物語には男が断腸の歌をよんで泣いたという感情の附加があって、読者は突き放された思いをせずに済むのですが、然し、これも、モラルを超えたところにある話のひとつでありましょう。この物語では、三年も口説いてやっと思いがかなったところでまんまと鬼にさらわれてしまうという対照の巧妙さや、暗夜の曠野を手をひいて走りながら、草の葉の露をみて女があれは何ときくけれども男は一途に走ろうとして返事すらできないーーーこの美しい情景を持ってきて、男の悲嘆と結び合せる綾(あや)とし、この物語を宝石の美しさにまで仕上げています。つまり、女を思う男の情熱が激しければ激しいほど、女が鬼に食われるというむごたらしさが生きるのだし、男と女の駈落のさまが美しくせまるものであればあるほど、同様に、むごたらしさが生きるのであります。女が毒婦であったり、男の情熱がいい加減なものであれば、このむごたらしさは有り得ません。又、草の葉の露をさしてあれは何ときくけれども男は返事のひますらもないという一挿話がなければ、この物語の値打の大半は消えるものと思われます。つまり、ただモラルがない、ただ突き放す、ということだけで簡単にこの凄然たる静かな美しさが生まれるものではないでしょう。ただモラルがない、突き放すというだけならば、我々は鬼や悪玉をのさばらせて、いくつの物語でも簡単に書くことができます。そういうものではありません」(坂口安吾「文学のふるさと」『坂口安吾全集14・P.328~330』ちくま文庫)

「それならば、生存の孤独とか、我々のふるさとというものは、このようにむごたらしく、救いのないものでありましょうか。私は、いかにも、そのように、むごたらしく、救いのないものだと思います。この暗黒の孤独には、どうしても救いがない。我々の現身(うつしみ)は、道に迷えば救いの家を予期して歩くことができる。けれども、この孤独は、いつも曠野を迷うだけで、救いの家を予期すらもできない。そうして、最後に、むごたらしいこと、救いがないということ、それだけが、唯一の救いなのであります。モラルがないということ自体がモラルであると同じように、救いがないということ自体が救いであります。私は文学のふるさと、或いは人間のふるさとを、ここに見ます。文学はここから始まるーーー私は、そうも思います。アモラルな、この突き放した物語だけが文学だというのではありません。否、私はむしろ、このような物語を、それほど高く評価しません。なぜなら、ふるさとは我々のゆりかごではあるけれども、大人の仕事は、決してふるさとへ帰ることではないから。ーーーだが、このふるさとの意識・自覚のないところに文学があろうとは思われない。文学のモラルも、その社会性も、このふるさとの上に生育したものでなければ、私は決して信用しない。そして、文学の批評も。私はそう信じています」(坂口安吾「文学のふるさと」『坂口安吾全集14・P.330~331』ちくま文庫)

さて、これまで柄谷行人の著作を大きな手掛かりとして引用しつつ、明治二十年代の日本文学に起こった「風景/内面/告白/病/児童」の転倒的出現について振り返ってきた。前に言っていたように、今度は、TPPをはじめとする環太平洋全域を舞台とした世界の変貌とともに、どんなふうに文学・批評あるいはマスコミが変貌・変質・日和見して行くのか。あるいはもう既に変貌・変質・日和見し始めているのか。ゆっくり見ていければと思っている。

BGM