このブログで伝教大師様の「願文」について講義しますと書いたところ、早速、知り合いの方から頼まれまして、去る26日に会津若松市河東町にある磐南会館でお話をしてまいりました。出席されたのは、いずれも天台宗の檀信徒ではない方々で、「願文」については、まったくご存知ないようで、真剣に聴き入っておられました。私は「伝教大師様は当時の腐敗した仏教に背を向け、衆生を救わんとして誓願したのが『願文』です」と前置きし、一度全文が読み上げてから私なりの解説をいたしました。
とくに、冒頭の部分が重要なので時間をかけました。「悠々たる三界は純ら苦にして安きこと無く、擾々たる四生は唯だ患にして楽しからず。牟尼の日久しく隠れて慈尊の月未だ照さず。三災の危きに近づき、五濁の深きに没む。加以ず、風命保ち難く露体消え易し。草堂楽しみ無しと雖も然も老少白骨を散じ曝し、土室闇く(狭)しと雖も而も貴賎魂魄を争い宿す。彼を瞻、己を省みるに此の理必定せり」。伝教大師様は、末法の世にあって、自らを省みられことを説かれたからです。
皆さんが感動されたのは「是に於いて、愚が中の極愚、狂が中の極狂、塵禿の有情、底下の最澄、上は諸仏に違い、中は皇法に背き、下は孝礼を闕く」という文章でした。愚か者、狂っている者の極みで、徳もない最低の人間で、仏の法にも従わず、天皇がお定めになった法も守らず、親孝行も怠っていると、厳しく自らを責めている伝教大師様を、身近に感じられたからだと思います。
今回出席された方々からは「最近になって仏教に関心を持つようになったので、大いに勉強になりました」「親鸞の『悪人正機』説と相通じるものがあるような気がします」「弱さを弱さとして認めるのは立派だと思います」との感想が述べられ、私も大いに参考になりました。
合掌
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