本をめくると、木曽駒の地図が出てくる。登山道が点線で描かれ、その点線上に、あるいはそこからはずれたところに名前が書かれ、「生存」「死亡」と付されている。『新装版 聖職の碑(いしぶみ)』は、いわゆる新田次郎による山岳遭難小説なのだが、事実に肉薄するべく、資料を渉猟し、関係者に話を聞き、徹底的にその時の状況を再現しようと試みている。その努力の跡は、巻末の取材記に詳しい。
最近の遭難であれば、何となく新聞やネットで見たり、読んだりしているわけだが、この遭難は、なんと大正2年。ただこの遭難事故は西駒山荘近くに遭難碑があるということで知っていたが、その内容はまったく知らなかった。
登山がまだ一般的ではなかったこの時代に、教育の一環として、木曽駒(舞台となる伊那では西駒と呼んでいる)に登るということにまずコトの発端がある。信州だから教育にとりいれるのはごく自然なのだろうが、なぜ山中で泊まらなければならないのか。日帰りであれば、そのまま下山して事なきをえたはずだ。
それよりも事故の最大にして唯一(?)ともいえる原因は、気象情報の欠如にある。この時代には富士山レーダーはない(今も時代遅れになってもうないが)。気象衛星ももちろんない。各地の気象観測データから天気図をつくり予報を出していたのだ。遭難時の予報は、くもりで午後にわか雨というものだった。出発時に青空が覗いていたこともあり、決行となる。でも台風が接近していたんだね。台風の予報ができないというのは、致命的だ。知っていればまず山には行かない。
それに加えて2番目の恐ろしき原因。それは泊まる予定だった伊那小屋(現在はない)が崩壊していたこと。前年の学校登山では老朽化がかなり目立っていたらしいが、このときには1/3の壁が壊れ、直前に登った人により、暖をとるために燃やされていた。
予算の問題で、前年までつけていた案内人もたてていなかったから、そんなことになっているとはつゆ知らず、また登山道や小屋がどうなっているか下見もしていなかったというから、行って仰天したことだろう。風雨が強くなり、移動もままならず、小屋を修復することになる。応急処置をした小屋では、夏とは言え、高地であるから冬のような気温のなか、1畳のスペースに5人が肩を寄せ合う。しかも仮ごしらえの天井からは雨漏りがひどく、体が濡れる。その過酷な状況で、まず生徒1人がおそらくは低体温症で逝ってしまう。
それがトリガーになる。皆その二の舞になることを恐れ、我先に小屋を出て、下山へと向かう。天井に敷かれていた、着茣蓙(きござ)は、早い者勝ちで引き剥がされる。強風にとばされてしまった着茣蓙もあるから、はおるものなく、外を歩かなければならない少年も出た。これが生死を分けたともいえる。寒さは体を衰弱させ、容赦なく体力を奪う。
遭難の状況は恐ろしいほどに克明に書かれている。その描写は真に迫っていて、情景が目に浮かんでしまう。かたやこの重大事を引き起こしてしまった校長赤羽長重の困惑と絶望感がひしひしと伝わってくる。
遭難時の息つくまもないドラマが終わるのもつかの間、今度は遭難後の人間関係のドロドロが描かれる。生還した子をもつ親と、遭難して亡くなった子をもつ親とでは、天と地ほどの激しい落差が生じた。赤羽校長の妻や、生還した先生方・青年団の若者は責められる。いつまでも村人たちの感情にこの遭難事件は影を落とし続けた。
あまりにも悲惨で暗い話なのだが、最後に救われるのは、遭難の碑(実際には記念碑)が建立され、赤羽校長の遺志を継いで学校登山が継続されたこと、そして伊那小屋に代わる西駒山荘が建てられたことだ。遭難から得た教訓、そして学校登山の意義は今日も生きていて、継承されているのだ。
新装版 聖職の碑 (講談社文庫) | |
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