河口慧海をご存じだろうか。周囲の人たちに聞いてみると、口をそろえて知らないという。河口慧海といえば、鎖国中のチベットに単独で密入国した探検家として知られているけれども、その功績は現代ではほとんど忘れられているようだ。
私はその昔、文庫本で河口慧海の評伝を読んでその存在を知ったのだが、いまミネルヴァ評伝選シリーズの1冊としても刊行されている。慧海の日記が新たに発見されたのを機に、慧海研究の第一人者である著者が従来よくわかっていなかった慧海の足跡を克明にたどり、その生涯を追ったのがこの本である。
慧海は釈迦の伝記に触発され、僧侶への道をめざし、不肉食、不飲酒、不淫の戒をたてた。それはほぼ生涯にわたって自分を律したほどで、それだけ己に対して厳しい人だったといえよう。最初は黄檗宗の僧侶として仏門に入るのだが、仏典を研究するうちにやがて黄檗宗という枠を超えていくことになる。哲学館(現在の東洋大学)の門をたたき仏教を学び、やがて釈迦の本来の教えを求めて、原典へと興味が集中していく。
普通の人なら、原典を見たいと思っても、いつかチャンスがあればと念じているだけであるが、慧海は違っていた。32歳のときに多くの友人、知人の支援を受けて、神戸港から原典探しの旅(チベット)へ向かうのだ。しばらくインドのダージリンに滞在してチベット語を学び、35歳のときにヒマラヤを越え、ついにチベットの地に入る。
彼の地で仏典を研究し、38歳で帰国。原典を日本に持ち帰った。驚くべきは、慧海はもう一度チベットを目指していることだ。翌年に再び神戸港から出発している。晩年慧海は、純粋な仏教とは何かを希求した、その成果を『正真仏教』にまとめているが、それこそが慧海が目指したひとつの到達点といえるだろう。
当時慧海を有名にしたのは、帰国時に新聞取材を積極的に受け、チベットにかかわる執筆や全国を巡る講演会などを行ったことにある。一方ではインドやチベットでチャンドラ・ボースやダライ・ラマ、パンチェン・ラマらの要人に会っていることや、チベットに密入国したことから、慧海はスパイなのではないかという疑いにもつながった。そうしたことから日本国内では多くの批判も受けた。それもこれも、当時の慧海の存在感があまりにも大きすぎたことによる産物なのだろう。
この時代の日本の探検家として、よく引き合いに出される大谷光瑞や白瀬矗は、隊を組んで多くの資金を得て探検を試みたけれども、慧海は単独での探検であり、この三者のなかではもっとも苦難が多かったことが推測される。ただ客観的にみて明らかな探検ではあるけれども、探検という意識を本人がもっていたかどうかは怪しい。それだけ純粋な志をもとにチベットを目指した。稀代の探検家にして仏教の伝道者であった河口慧海、その足跡は大きい。