簡単によめる、パラパラとどこかのページに目を落とす、そんな読み方ができる本が、山行のお供にはもってこいと思うのだが、皆さんはどうだろうか。
今回は『尾崎放哉句集』池内紀編を採り上げよう。尾崎放哉といえば、自由律俳句で有名で、貧乏も厭わず自由気ままに生きた種田山頭火的な生き方をした人と思っていた。ところが、昨年その晩年の生きざまを赤裸々に、あまりにも無様に書いた吉村昭の小説、『新装版 海も暮れきる』を読んでしまって、あまりにも衝撃的なその晩年の道行きに恐れおののき、まったく従来のイメージと違うことに驚ろいてしまった。
40歳有余で亡くなっているのだが、その晩年の没落ぶりは、尋常ではない。金もなし、奥さんは逃げる、最後は小豆島のお遍路さんからのお布施に頼る堂守として暮らすことになるが、その生活はままならない。
体調を崩し、体の自由が徐々にきかなくなってくると、生への執着が強くなり、そして自らの欲望に従順になる。どのように人は体が衰え、精神状態がいかように変容し、そして死を迎えるのかをこの小説は克明に書いてしまっている。放哉という弱き人間をとおして。事実を丹念に調べ、真相はこうであろうという確たる信念のもとに、絶えず執筆し続けた吉村昭の筆は、あまりにも残酷だ。情け容赦なしのこの筆は、私を打ちのめすのに十分すぎた。
日を経るにつれ、この小説が頭の中でぐるぐる回りだし、放哉がいかなる俳句を吟じていたのか、興味は、雪だるま式に募っていった。ある日書店に行って、棚を丹念に探していくと、放哉の句集がひっそりと置かれていた。思わず手にとった。編者は池内紀氏。氏は山好き、旅好きで有名であるから、氏が編んだ句集であれば、自分の嗜好とまさにぴったりではと勝手な思い込みもあった。
本のなかから、ちょっと2、3句拾ってみよう。どれもいい感じなのだ。
釘箱の釘がみんな曲つて居る
久し振りの雨の雨だれの音
奥から奥から山が顔出す
そもそも俳句のよしあしなんて、さっぱりわからなかったのだが、私の目を開けさせてくれたのは、『無名』という本だった。著者である沢木耕太郎氏は、実父が亡くなる直前に、父の唯一の趣味であった俳句に目を向け、父のために最後の親孝行をしようと、父の句集づくりに悪戦苦闘する。その際に、俳句とは何ぞや、よい句とは、面白い表現とは、と沢木氏の俳句への探究がつづられていく。その思考過程をたどっていくにつれ、私もふむふむと俳句の真髄にわずかばかり触れた気分になったわけだ。
まあそれはさておき、句集は山行のお供にはうってつけだ。一句一句を味読して、情景を目に浮かべる(ちびちびウィスキーをなめながら)。それは山行時に触れる自然と一体化して、ちょっとした空想の旅に自分を連れ出してくれるのだ。
新装版 海も暮れきる (講談社文庫) | |
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