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山の神にお供して歩きつづける、ある山のぼら~の記録。ネイチャー、冒険の本もとりあげるよ。

御岳山の怪異譚『神座す山の物語』

2018-03-20 | 山・ネイチャー・冒険・探検の本

 『神座(いま)す山の物語』浅田次郎(双葉社)

浅田次郎氏の母方の実家は、御岳(みたけ)山の神官の家ということだ。この小説の巻末にインタビューが収録されていて、それを明かしている。だからこそ書けた異色の怪異譚。実際に御岳山であった不思議なものがたりを脚色して短編に仕立てている。

例によって、まるであの傑作小説「天切り松闇語り」の一節のように、次はどうなるのだと期待に胸膨らませ、あるいはどきどきしながら、語り手のおばあちゃんの言葉に耳を澄ませることになる。冴え渡る浅田節にどんどん引き込まれ、息もつがずに読んでしまう面白さだ。

たとえばこんな話が出てくる。タイトルは「聖」。少し引用しよう(注:ネタばれあり)。

夜目にも白い鈴懸衣(すずかけごろも)の背中に、大きな笈(おい)を担いでいる。金剛杖を立て、正座しているのではなく勇み立つように片膝を立てていた。坊主頭には烏天狗のような頭襟(ときん)を載せており、首からは太い念珠と、法螺貝の赤い緒が下がっていた。

聖の登場シーンだが、ごっついヤツの姿が目に浮かんでくるだろう。この聖は、御岳山で修行を積み、満行(まんぎょう)を迎えるのだが、常人の及ばないような験力は得られなかった。この小説世界では、もともと備わっているものを磨くことはできても、備わっていないものは、いくら修行しても、生まれもしないし、磨くこともできないとしている。結果、聖は岩場から天狗よろしく身を空中に投げ出し、あちらの世界へと旅立ってしまう。衝撃的な話だ。

狐憑きのものがたりもある。

ちょっと前の日本、昭和の時代までは、当たり前のように狐憑きの話が転がっていた。それは、身近に狐の存在があったからだ。いつも狡猾そうに見える狐。だからこそ、狐に憑かれれば、正気ではいられなくなると人は信じていた。いまでいえば、たんなる精神疾患なのだろうが、社会の慣習やならわしとは恐ろしいものだ。小説では、狐憑きを落とすために、真面目に神官さんを訪れて、お祓いを頼む。そしてエクソシストのような闘いがクライマックスとなる。

ほかにも、ミステリアスな短編がこれでもかと詰まっているのがこの本だ。そこここに八百万の神の存在を感じる。東京では、アクセスもよく身近な御岳山であるからこそ、親近感も湧く。いちどこの小説の舞台である、御岳山の宿坊にも泊まってみたいものだ。そういえば、前の会社で、お正月に泊まった人がいたっけ。静寂にして清浄な趣があって、期待以上だったとその人は推薦していた。宿坊でこの本を読むのも一興。眠れなくなるかもしれないが、、、 

神坐す山の物語 (双葉文庫)
浅田 次郎
双葉社

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