『大峯千日回峰行 修験道の荒行』塩沼亮潤/板橋興宗(春秋社)
先日のEテレのスイッチインタビューを見て思わず手に取った本だ。大峯千日回峰行を満行した塩沼大阿闍梨とは、どんな人物なのか、どんな考えをもち、どんな修行をこれまで行ってきたのか、興味津々でこの本を紐解いた。宗派が異なる曹洞宗の板橋興宗禅師が聞き役となって、塩沼大阿闍梨からさまざまな話を引き出す。
塩沼大阿闍梨の生い立ちは、普通の人とは異なる。酒乱の父がいて、家庭は崩壊していた。その父と母が離婚すると、この現代にこんな赤貧があるのかというくらいの貧困状態に陥る。アルバイトをして、家計の足しにする。罪悪感もなしにパチンコをしてお米と交換する。ただ赤貧の中でも家庭は常に明るく、祖母、母、塩沼少年の楽しい3人暮らしだったようだ。そして高校で進路を考えるにあたり、子どものころにテレビで見た比叡山の酒井大阿闍梨の千日回峰行を思い出す。自分もできないかと。千日回峰行は、比叡山と大峯と2つある。距離が長いのが大峯。塩沼少年は、迷わず自らに困難なほうを課した。吉野から山上ヶ岳の大峯山寺までを、春から秋にかけて毎日48Km往復する。
寺に入った塩沼少年は、密教では必須の四度加行(しどけぎょう)という四つの行、十八道、金剛界、胎蔵界、護摩を修法する。続いて百日回峰行。最初の50日は、山上ヶ岳の宿坊で1泊してから翌日下山という行程で25往復。残りの50日は1日で往復して、計75往復の行となる。
そして塩沼大阿闍梨は、平成4年5月3日ついに千日回峰行に入った。連続して千日行う行ではなく、9月23日の戸閉め式でいったん中断し、また翌年の戸開け式から始めるというものだ。なんだ冬はやらないのかと思うかもしれないが、冬になっても続ければ、確実に死が訪れるのではないかというほど過酷な行である。行に入って3ヵ月で血尿が出るというほど体は消耗する。そのため戸閉め式から年内は体調を戻すことに務め、年開けから戸開け式に向けて体力づくりをするのが普通だ。
では、血尿が出るほどの激しい1日の行はといえば、まず起床は夜11:25、滝行から始まる。5月頭だと、3、4度くらいの気温で体は凍りそうになる。水に打たれたあとに約500段ほどの階段を上がって、蔵王堂に入り、山伏の姿に着替える。時間がないので、着替えながら、小さく握ったおにぎりを食べる。真っ暗ななかを提灯ひとつで4キロ先の金峯神社へ。そこから先は、獣道になり、熊よけの鈴を鳴らしながら歩く。足場は悪く、危険な箇所が多いので、注意しながら登高する。夏になると、マムシやイノシシも出るので、さらに厄介になる。百丁茶屋跡で夜明けを迎え、ここで朝食。大天井ヶ岳を越え、最後に鎖場をよじり8:30頃に山上ヶ岳に到着。ここで早い昼ごはんを食べ、元来た道を戻る。書いてみると、大変そうだけれど、できそうな山登りと受け取られてしまうが、山頂と下界の行き来だけではない。その間身の回りのことをすべて自分でやるため、睡眠時間は4~5時間になってしまう。1回登って下りてきただけで、クタクタになるだろうに、それをまた明日も、あさっても、その次もと延々と繰り返すわけだ。
天気も晴ればかりではない。台風が来ても出発する。土砂崩れに遭遇したこともある。高熱を発して往復したこともある。腹がぷっくりと出た餓鬼を見たこともある。意識が混濁すると、妄想も見るわけだ。肉体をここまで追い込む。それは人々(自分も)の苦や死というものを見つめる行なのだろう。
塩沼大阿闍梨は、千日回峰行を満行し、さらなる荒行、四無行(しむぎょう)にも挑戦する。あしかけ9日間に渡り、1日3回の勤行を行いながら、断食、断水、不眠、不臥を全うする。大阿闍梨は、事前に断食を行うなど周到な準備をしていた。体を馴らしていたわけだ。中世の飢饉のときは、意図せず断食を強いられたわけだが、その状態を自ら生み出している。現代では飢餓遺伝子のありなしが話題になったりするけれども、断食を行うと、体の防御反応が出てくる。少ない代謝で生活が可能になる。大阿闍梨は、四無行満行後、介助なしにお堂を出、しかも翌日には自分の食事を自らつくっていて、それを目撃した僧侶に化け物と言わしめた。
この後、大阿闍梨は八千枚大護摩供を行う。炎の中に護摩をくべていく。普通の僧侶であれば、たちまちにして火ぶくれができて、火傷を負うのだが、大阿闍梨はそうではない。塩断ちをすると、熱さに強くなるといわれていて、火傷をしにくい体になるようだ。
こうした肉体を極限まで追い込んでいく荒行の実践を垣間見て、肉体以上に苦痛を催すであろう精神における極限はどうだろうかと思い至った。世の中には義理と人情の板ばさみや、利害関係での板ばさみはよくあることだ。肉体の極限よりも、はるかに窮地に追いやられると思う。どんなにつらい修行でも、この窮地のつらさには至らないと思うが、みなさんはどうだろうか。ただそう思うのは私だけで、大阿闍梨にとって、そんなことはとうにお見通しで、すでにそのうえのステージにおられるのかもしれないが。
仏教で、自利行、利他行、菩薩行といわれるが、私などは自利行ばかりやっているのではないかと恥じ入るばかりである。(それすらもやってないか?)
参考:SWITCHインタビュー角幡唯介×塩沼亮潤
http://blog.goo.ne.jp/aim1122/e/75d85515b55524f63d8da4926aa728ea
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