はざまの庵

分類し難い存在を愛でる覚え書き by aiwendil お気軽にコメントをどうぞ。

<font size="-3">吉田篤弘「空ばかり見ていた」発売。</font>

2006-01-31 22:49:02 | アートなど
文藝春秋社から出版されている吉田篤弘氏の新刊「空ばかり見ていた」を購入しました。
まだ読みはじめたばかりですが、クラフト・エヴィング商會名義で見せるようなとぼけっぷりも織り交ぜた内容に思わずニヤリ。読み進めるのが楽しみです。
連載まとめの時期が重なったためか、12月からこちら、吉田氏の本が出版ラッシュ。
嬉しい限りです。
今年中には「ちくま」で連載されていた「と、いうはなし」も単行本で刊行される模様。
クラフト・エヴィング商會名義の書物も恋しいですが、しばらくは楽しみが続きそうです。
なお、「空ばかり見ていた」↓amazonの該当リンクはこちら。
<iframe src="http://rcm-jp.amazon.co.jp/e/cm?t=hazamanoiori-22&o=9&p=8&l=as1&asins=4163246207&fc1=000000&IS2=1&lt1=_blank&lc1=0000ff&bc1=000000&bg1=ffffff&f=ifr" style="width:120px;height:240px;" scrolling="no" marginwidth="0" marginheight="0" frameborder="0"></iframe>
ところで、amazon の書籍表紙画像は、なぜ帯を外した写真ばかりなのでしょう?
クラフト・エヴィング商會の装幀は、帯もデザインの一部として考え抜かれているものばかりなので、こんな裸の写真を出されても魅力半減。
それに、読者が書店で出会うのは、帯を含めた本の姿なのに、これではわざわざ探し難くしているようなものです。
デザイナーと消費者両者にとって不親切きわまりない。
書物がぞんざいに扱われているようで、なんだか悔しいです。



<font size="-3">(片桐仁+小林賢太郎)≒ラーメンズ?</font>

2006-01-31 00:34:32 | さもないこと
「ゆめみらい」という雑誌の記事(vol.6, p12-15, ベネッセコーポレーション, 2002)に関する記述を読んで、昨年、小林賢太郎氏のソロコントライブを観たときに考えたことを思い出しました。
以下私見。
小林氏の作る世界は、良くも悪くも要素還元できてしまうように思えます。不明な点がない、とでも言いましょうか。
対して片桐氏の持つ世界は、分析を越えたところにある不確実性を備えているように思えます。
私はというと、『構造がわかっておもしろい』ことや『何が面白いかわかるから面白い』ことがとても好きなので、小林氏の創る作品の構造に反応して、ことごとくクラクラきてしまうわけです。
しかしいっぽうで、片桐氏には要素還元できない魅力があって、そこにもどうしようもなく惹かれてしまいます。
小林氏のソロ公演であった「ポツネン」はラーメンズ本公演にくらべて、ステージごとのゆらぎが少なかったように私には思えました。
これはおそらく、ラーメンズにおいて『不確定性』を担っている片桐氏の不在によるものではないかと思うのです。
といっても、この『不確定性』は片桐氏が自律的に変化することで生まれるのではありません。
本公演のステージでは、(私が観測した限りでは)小林氏が攻性のアドリブを盛り込むことによってゆらぎが生じていました。
つまり、片桐氏の担う不確定性は間接的なもの。
どうやら、片桐氏は基盤のような役割も担っているように思えます。小林氏が自由に動き回るための重要な土台が片桐氏なのではないか、そう思えるのです。
片桐氏が小林氏に安定性を与えることで、小林氏の自由度が増し、自由になった小林氏によって片桐氏の潜在的な『不確定性』が引出される。この矛盾した構造こそがラーメンズの特性なのではないかと、そんなふうに思えてなりません。
個々の総和よりも全体のほうが大きい、という現象を説明するゲシュタルト理論のように、単純な四則演算では説明できないのが片桐氏と小林氏、そしてラーメンズの関係性なのかもしれない、そんなことを考えた次第です。