なんとなく囲碁夜話

私は囲碁が好きだ。初めはなんとなく、ニアミスを繰り返し、深みに嵌ってしまった。

安全性の話

2011-03-29 23:44:54 | Weblog
 対局中、競り合っている場面では良い手か悪い手なのかは、、、比較的読みやすい。
  マア、読み間違いをする事も珍しくは無いけれど、それでも自分なりには先の見通しを持って何かを決断しているわけです。
 従って最強の手が交わされるような盤面では、お互い危なそうな形であっても行きつく先のイメージはあると言える。
 と言う事はこういう場面では安全とか危険とかの問題は少ないように思えます。
  ところが序盤などのように、目先の利益とか善悪だけでなく全体の方針と言うかバランスで考える時は相当難しい。
 良く上手に教わる時に部分的な折衝に追われているうちに、結局ポイントは全て白に押さえられてしまうような事が良くある。
  さりとて、白さんの意向を無視すると一気にしかけられたりして形勢を損じたりする。
 これは一種の矛盾でですネ。
  白に対して従順では話にならないし、逆に反抗的過ぎると潰される。
 では、どうすれば良いか?、どうすれば上手の壁を乗り越えられるのか?、、、正解は分かりませんが、私の場合はK畑師匠に、潰されても潰されてもぶつかって行く事でした。
 マア未だ乗り越えたとは言えないでしょうが、横に並んだとは言えないまでも半歩後ろくらいにはついて来ているつもり。
 手を伸ばせば背中に触れられるくらいのイメージです。

 さて、もう一つ。
 序盤で善悪がはっきりしない時、「確率の高い」手を選ぶという方法も有るかも・・・。
  マア、いろんな手筋を理解しているわけではないのではっきりしたことは分からないが、ザルなりにたくさん打って来ているので、イメージとして確率の高い低いの感じはある。
 どういう確率かと言うと、即戦いで決着がつく(私がやられる)か、優劣を先延ばしにして息長くチャンスを狙うかです。
 自分としては同じ棋力の仲間の中ではヨセを得意としていると自負?している(勘違いでしょうが)ので、ある程度優劣不明で勝負が長引く方が有利だと思っている。

 と、ここまでは戦いに敗れてもいつものヘボ碁の話なので命はおろかかすり傷も負いません。
  今、日本はおろか世界の大問題の原発について、、、専門的な事なので報道に注目しているしか無いのですが、原発の事故に絡んで「安全性」と言う言葉に引っかかっています。
 私の学生時代は社会のいろんな問題に学生が関心を持ち行動・発言した時代だっと思う。
  そのやり方については様々な批判も有ろうかと思うけれど、マアともかく問題意識は高かったでしょう。
 私は公害とか自然保護、新空港問題関連などに関心を持っていました。
  やはり新空港の地元の県ですから、、、空港だけでなくその関連設備の燃料パイプラインなどについて関心がありました。
 当時そういうプロジェクトを進める側の論理は「安全性」と言うキィワードでしたが、これはおそらく原発建設などでも地元を説得する手法でしょう。
 「考えられる自然災害を遥かに超える安全性がある」
 「二重三重に危険から守る装置があるので事故は考えられない」とし、一方で協力する地元にはいろんな援助を供与すると言う、いわば飴と鞭。
 、そうしなければいけなかったのかもしれませんが、、、問題は「安全性」というキィワード。
 安全と言うのは思うにオールオアナッシングのようなもので含有率見たいに%で表わせるものではないでしょう。
 つまり90%の安全性と言う事は10%の危険と背中合わせと言うことですネ。
   それと「考えられる範囲の」と言う表現は初めから逃げ道を用意しているとも思える。
 マア、そういう事で「安全性」と言う表現を耳にするたびに『眉つば』を唱えて来ました。

 そうは言っても目の前の危機を回避出来なければどうしようもないですネ。
  
 今回の危機を乗り越えられても、今のレベルの文明生活を維持して行くのなら、これからも安全も危険も一緒の旅と言う事でしょう、、、。