
実はマドンナ・デッレ・ラクリメ記念堂の
入り口で私と娘にとって
衝撃的なことが

娘と同じ年頃の女の子が物乞いをしていたのだ。
西洋を旅していると、物乞いが
教会の前に結構多い。私はこれはとても
優れた社会の構造だと思う。物乞いに至る経緯は
さておき・・・。というのは東京の新橋の地下道に
ホームレスが2,3人いるのだが、
彼女彼らがまったく物乞いをしてくれないので、
助けられず、困っている。
近づいていって、お金をあげるのは
失礼なのかもしれないし、変な態度をされたら嫌だし!
と勇気がなくて声をかけられずにいて、そのせいで
いつも心が痛む。
いっそのこと西洋のように缶でもおいてくれていれば、
そこに小銭を投げ込めるのに、といつも思う。
日本の教会は西洋のように救済の機能を果たして
いないのか、国民的にプライドが高いのか・・・・?

その物乞いをしている女の子の前にある、
貯まった小銭を覗いて娘は言った。(勿論、小銭をあげた)
「あの子、いいなあ、あんなにお小遣いが貯まっていて」
はああ?と私は我が娘の顔をしげしげと見る。
「あの子があなたみたいに、お金をガムとかアメとか
お菓子を買うのに使えると思ってんの?」
「え、違うの」
「あのね、あの子は家族のために遊びたいのに
それを我慢して、あそこにじっと座って
物乞いをしてるのよ、貯まったお金は家族が生活
する最低限必要なことに使われる!の!」
「え、そうなの、カワイソ・・・。で、物乞いってなに?」
そう真顔で聞いてきた娘に、あ、そういうことね。
と合点がいった。日本にはホームレスはいても
物乞いはいないもんね。
私は聖書にあるイエス・キリストの言葉を
偉そうに娘に伝えた。

しかも最も小さい者たち(聖書では空腹の人、
渇いた人、着る物のない人、旅人、病人、
牢獄の人などをさしている)の
ひとりにしたのは、わたしにしたのです」
(マタイ25:40)
このみことばゆえに慈善活動をする人は多い。
*人道主義からの慈善とは深いところで違うのですね、神
が喜ぶことをひたすらしていこうという
(=神の国とその義を弟一に求めるというか・・・)
信仰が原点なのですもん。

さて、写真はすべて
「サン・ジョヴァンニ・エヴァンジェリスタ教会」
の写真。名前からしてまったく予想していなかったが、
この教会の奥の入り口からギリシャ時代からの
カタコンベに行くことができた。
うっかり迷いこんでよかった。
そのカタコンベこそ、(ガイドによれば)
聖パウロがそこでイエス・キリストの福音を伝えた
場所だったのだ。世界で3番目?に古い
初代教会の跡、だったのである。
私は期せずして、いにしえの昔に聖パウロが
神に賛美を捧げたその同じ場所に降り立てたのだ。
キリスト教には無関心な我が国のガイドには
そんな説明はないので、パウロゆかりの地が
シラクサのどこにあるかなどは
ガイドブックには出ていない。
この偶然に私は神からそっと、でも
確かに後押しされた気がした。
「私は今も生きているよ、きみたち親子の
旅を見守りっているんだよ」と。

先ほどの箇所の英訳を最後に
(The king will reply,)
'I tell you the truth, whatever you did for one
of the least of these brothers of mine,
you did for me' Matthew25:40(マタイ25:40)