中露撃退へ全力で備えよ
“シーチン”修一 2.0
【雀庵の「大戦序章」171/通算602 2023(令和5)/5/2/火】4/30の産経に「芙蓉書房出版」の3段2分の1広告があった。産経グループの「扶桑社」と勘違いしていたのかも知れないが、芙蓉書房出版の存在を初めて知った。
調べたら「芙蓉、ふよう」は「富士」の雅称、「扶桑、ふそう」は「中国伝説で東方の果てにあるとされる巨木、日本の異称」だという。芙蓉も扶桑も「美しく強い日本」という思いがあるわけだ・・・あれ? これって櫻井よしこ先生が産経に連載している「美しき勁き国へ」と同じだ。
小生は今、芙蓉書房出版の「陸軍中野学校の光と影 インテリジェンス・スクール全史」(スティーブン・C・マルカード著、秋塲涼太訳)を読んで大いに戦意高揚しているところだが、調べてみると同社の創業者は秋田県出身の上法快男氏という。WIKIによると――
<上法 快男(じょうほう よしお、1911/明治44年5月29日 - 2001年)は、日本の陸軍軍人、実業家。陸軍主計将校として勤務し、戦後は出版業界に入り芙蓉書房社長・会長を務める。
経歴:秋田県士族、上法眞廣(従五位勲三等陸軍主計中佐)次男。弟は上法眞男(1945年1月、海上挺進第9戦隊長としてフィリピン ルソン島にて戦死、陸軍少佐)、上法達男(陸軍大尉)。
仙台一中・二高を経て東北帝国大学法文学部独法学科を卒業し、陸軍に入る。主計将校として歩兵第59連隊、関東軍司令部、戦車第3師団、陸軍燃料本部総務部等で勤務し、陸軍主計少佐に昇り、1945年8月15日陸軍省人事局附となり、人事局補任課にて復員軍人の職業輔導業務に従事。
戦後、公職追放を経て出版界に入り、1951/昭和26年に東京都千代田区神田須田町に「芙蓉書房」を設立、社長に就任する。軍事記録や歴史書を多く出版し自身も執筆に携わる。1993/平成5年には出版部門を分離し「芙蓉書房出版」を設立する。芙蓉書房会長を経て弥生出版研究所代表取締役に就任する。
編著等には「現代の防衛と戦略」「陸軍大学校」「東條英機」「最後の参謀総長梅津美治郎」「元帥寺内寿一」など多数あり、芙蓉書房から上梓している>
上法快男氏は戦後の公職追放中に出版界、現在の「芳文社」と縁を持った。<1946年、孝壽芳春が軍隊時代の同僚だった上法快男とともに尚文館を設立、1947年、少年雑誌『野球少年』を創刊。1950年、尚文館を継承するかたちで孝壽芳春が新たに芳文社を設立>
この経験が芙蓉書房設立になったのだろう。富士山のように美しく凛としてそびえるというのが社是かも知れない。同社関連団体の「戦略研究学会」設立趣旨から。
<第二次世界大戦後半世紀を過ぎた現在、我々は日常生活のなかで「戦略」という言葉を耳にする機会が多くなっている。
「企業戦略」「経営戦略」「金融戦略」「マーケティング戦略」「人事戦略」「IT戦略」「戦略商品」等々、まさに百花繚乱で、その意味内容はきわめて広範かつ多義的であって、「戦略とは何か」について一定の理解認識を共有しているとはいえない。
そもそも「戦略」という言葉は、語源的には軍事の分野に発祥したものであるが、日本では、この本来の意味との相関関係を十分検証しないまま、政治・経済・経営などの諸分野で「戦略」という言葉が濫用されている。
しかも、われわれ日本人は戦略的発想が貧困で、戦略的対応も拙劣であると批判され、あるいは自己批判して久しい。
戦略的発想・対応の適否が俎上に乗せられるのは、危機・戦争といった異常事態に遭遇した時である。ではわれわれは平時において、現実に存在するこれらの異常事態を直視し、社会科学の研究対象として取り上げ、真摯に考究してきただろうか。戦争や軍事を忌避する社会科学音痴症候群に陥っていなかっただろうか?
このような反省をふまえ、軍事を根幹として、経営など周辺分野をも包括した総合的研究集団として、われわれは戦略研究学会を設立した。
戦略研究学会は、過去・現在・未来にわたる全地球的な戦略課題を社会科学的に研究し、「戦略学」の確立、質的向上を図るとともに、危機・戦争といった不確実、不透明な異常事態への日本の抗堪力、対応力の向上に貢献することで、既存の学会とは異なる使命を果たせるものと確信している>
理事(企画委員長)には小生が地政学のイロハを学んだ奥山真司氏(国際地政学研究所上席研究員)も名を連ねている。
義を見てせざるは勇無きなり、芙蓉書房出版の現在の社長・平澤公裕氏は2011/平成23年3月11日の東日本大震災の記録散逸を防ぐため地元の依頼に応えて『もどれない故郷ながどろ 飯舘村帰還困難区域の記憶』(2016/3/5)刊行に尽力した。初版2000部、“売らんかな”主義の出版社が多い中で希少な存在だ。
その芙蓉書房出版の「陸軍中野学校の光と影 インテリジェンス・スクール全史」12章「受け継がれるもの」から。
<【切り裂かれたヨーロッパの植民地支配】1945年9月2日の朝、戦艦ミズーリの甲板には連合国代表が集まり、日本の降伏を受け入れた。米国代表のチェスター・W・ニミッツ提督に続き、英国のブルース・フレーザー提督、フランスのジャック・ルクレール大将、オランダのコンラート・ヘルフリッヒ中将が降伏文書に署名した。この場面は、英国、フランス、オランダが中断していたアジア地域の支配を再開しようとしていることを示していた。
日本は東南アジアからヨーロッパの植民地列強を追い出し、彼らに屈辱を与えたが、米国は連合国の反撃を主導して日本を打ち負かしたのだった。調印式に参加した立会人の中には、アジアがヨーロッパの覇権により再び安全になったと結論づけた者もいただろう。
第2次世界大戦の二面性がこれほど顕著に表れるところは他になかった。例えば、フランスの解放とドイツを打ち負かすために戦ってきたルクレールは8月18日、フランスからアジアに向けて飛び立った。今度はインドシナを再び手中に収めるべく遠征部隊を率いることになった。
ヨーロッパの米国同盟国は、彼らの帝国の富を取り戻すことを企図していた。まさしく1942年、英国は「戦後のある時期にインドの自治を約束」していた。しかしその約束はどのような形で守られるのか、詳細は不明確であった。英国はインドの反乱を回避するための方策として戦時中の低迷期に交わされた約束を守るのだろうか。ビルマ、マレー、シンガポールに関しては、英国は支配を継続するつもりだった。
マウントバッテン伯爵の「東南アジア司令部/SEAC」では、戦時中のインドで勤務していた米情報将校たちは、SEACは Save England's Asiatic Colonies(英国のアジア植民地を救え)を真に意味していると辛辣に形容していた。
半年前に日本の収容所に投獄されたインドシナのフランス軍部隊は降伏調印式の月に解放されたが、すぐに外国支配からの解放を目指すベトナム人と衝突した。8月15日の玉音放送の3日後には、日本の恩恵を受けた指導者たちが独立を宣言したインドネシアに、再び島を支配すべくオランダ兵たちが戻ってきた。
しかし、ヨーロッパの植民地軍と警察部隊は民族主義運動を鎮圧できなかった。日本は戦中に西欧列強を屈服させることで、アジアの民族主義者たちが反乱を起こす力を生んだのだ。
インド国民軍将校たちのレッドフォート裁判(*)の間、インド人水兵が英国に対して暴動を起こした時、英国はインド帝国を維持するためのコストが、英国国民全体が疲弊した戦争のそれ以上であることが分かった。独立は1947年、ヒンズー教徒とイスラム教徒の間で論争が起こり、大英帝国の至宝がインドとパキスタンに分割し成立した。
《*:インド国民軍(Indian National Army、略号:INA)は、太平洋戦争中に日本軍の支援によって設けられた、英印軍の捕虜のインド人転向者を中心とした軍隊。
当初は日本軍がマレー作戦を優勢に進めるための補助戦力としてゲリラ部隊的な色彩も強かったが、インド独立運動の英雄の一人であるスバス・チャンドラ・ボースが来日し、イギリス領インド進攻作戦が具体的に検討され始めてから次第に重装備化され、本格的な軍隊となった。
当初、大本営の南方作戦にインドを攻略する計画は含まれていなかったが、現地で工作支援にあたったF機関によってインド独立を考えていた。
2016年にはモディ首相は「イギリスが戦勝国であるにもかかわらずインドから撤退したのはガンジーのためではなく、インド国民軍のためである」との英国の機密文書を公開し、インド国民軍を再評価している(WIKI)》
ビルマでは鈴木大佐の南機関の元弟子であったアウン・サンとの武力闘争の恐れに直面した英国は、1947年にビルマの独立要求を受け入れ、翌年1月に共和国が誕生した。また、英国はマレーでも譲歩し、1948年までには英国の監督を受けて連邦化を実現した。
民族主義の台頭に直面した英国ほど鋭敏ではなかったフランスやオランダは、アジアでの支配を維持するために無謀な戦いを繰り広げていた。戦後の9年間のフランスの戦いは、ディエンビエンフーでの敗走とインドシナからの撤退によって幕を下ろした。
1940年にインドシナに進出した帝国陸軍は、1945年3月にフランスを権力の座から一掃し、大戦末期には民族主義者を扇動し列強からの独立運動を起こさせることで、フランスのアジア帝国を破壊した。何もなければその先の何十年と支配を強めていたであろう植民地を、戦争は台風のごとく破壊していったのだ>
ちっぽけな日本は最強の米英仏蘭+中露と戦い、矢尽き刀折れて連合国に降伏したが、植民地解放のうねりは燎原の火のごとく世界に広まり、1500年代から500年近く続いた列強による「植民地時代」は終焉した。大日本帝国、グッドジョブ!
束の間の安定を経て21世紀の今、共産主義独裁国家の中露により世界に再び大戦の危機が迫っている。前回は火付け、今度は降りかかる火の粉を払わねばならない。核武装、戦力強化、徴兵制、シェルター、燃料・食糧備蓄・・・なすべきことは山ほどある。諸悪の根源、中露撃退へ全力で備えるべし。
*読者諸兄の皆さま、御意見を! ishiifam@minos.ocn.ne.jp
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
目安箱:ishiifam@minos.ocn.ne.jp
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【雀庵の「大戦序章」171/通算602 2023(令和5)/5/2/火】4/30の産経に「芙蓉書房出版」の3段2分の1広告があった。産経グループの「扶桑社」と勘違いしていたのかも知れないが、芙蓉書房出版の存在を初めて知った。
調べたら「芙蓉、ふよう」は「富士」の雅称、「扶桑、ふそう」は「中国伝説で東方の果てにあるとされる巨木、日本の異称」だという。芙蓉も扶桑も「美しく強い日本」という思いがあるわけだ・・・あれ? これって櫻井よしこ先生が産経に連載している「美しき勁き国へ」と同じだ。
小生は今、芙蓉書房出版の「陸軍中野学校の光と影 インテリジェンス・スクール全史」(スティーブン・C・マルカード著、秋塲涼太訳)を読んで大いに戦意高揚しているところだが、調べてみると同社の創業者は秋田県出身の上法快男氏という。WIKIによると――
<上法 快男(じょうほう よしお、1911/明治44年5月29日 - 2001年)は、日本の陸軍軍人、実業家。陸軍主計将校として勤務し、戦後は出版業界に入り芙蓉書房社長・会長を務める。
経歴:秋田県士族、上法眞廣(従五位勲三等陸軍主計中佐)次男。弟は上法眞男(1945年1月、海上挺進第9戦隊長としてフィリピン ルソン島にて戦死、陸軍少佐)、上法達男(陸軍大尉)。
仙台一中・二高を経て東北帝国大学法文学部独法学科を卒業し、陸軍に入る。主計将校として歩兵第59連隊、関東軍司令部、戦車第3師団、陸軍燃料本部総務部等で勤務し、陸軍主計少佐に昇り、1945年8月15日陸軍省人事局附となり、人事局補任課にて復員軍人の職業輔導業務に従事。
戦後、公職追放を経て出版界に入り、1951/昭和26年に東京都千代田区神田須田町に「芙蓉書房」を設立、社長に就任する。軍事記録や歴史書を多く出版し自身も執筆に携わる。1993/平成5年には出版部門を分離し「芙蓉書房出版」を設立する。芙蓉書房会長を経て弥生出版研究所代表取締役に就任する。
編著等には「現代の防衛と戦略」「陸軍大学校」「東條英機」「最後の参謀総長梅津美治郎」「元帥寺内寿一」など多数あり、芙蓉書房から上梓している>
上法快男氏は戦後の公職追放中に出版界、現在の「芳文社」と縁を持った。<1946年、孝壽芳春が軍隊時代の同僚だった上法快男とともに尚文館を設立、1947年、少年雑誌『野球少年』を創刊。1950年、尚文館を継承するかたちで孝壽芳春が新たに芳文社を設立>
この経験が芙蓉書房設立になったのだろう。富士山のように美しく凛としてそびえるというのが社是かも知れない。同社関連団体の「戦略研究学会」設立趣旨から。
<第二次世界大戦後半世紀を過ぎた現在、我々は日常生活のなかで「戦略」という言葉を耳にする機会が多くなっている。
「企業戦略」「経営戦略」「金融戦略」「マーケティング戦略」「人事戦略」「IT戦略」「戦略商品」等々、まさに百花繚乱で、その意味内容はきわめて広範かつ多義的であって、「戦略とは何か」について一定の理解認識を共有しているとはいえない。
そもそも「戦略」という言葉は、語源的には軍事の分野に発祥したものであるが、日本では、この本来の意味との相関関係を十分検証しないまま、政治・経済・経営などの諸分野で「戦略」という言葉が濫用されている。
しかも、われわれ日本人は戦略的発想が貧困で、戦略的対応も拙劣であると批判され、あるいは自己批判して久しい。
戦略的発想・対応の適否が俎上に乗せられるのは、危機・戦争といった異常事態に遭遇した時である。ではわれわれは平時において、現実に存在するこれらの異常事態を直視し、社会科学の研究対象として取り上げ、真摯に考究してきただろうか。戦争や軍事を忌避する社会科学音痴症候群に陥っていなかっただろうか?
このような反省をふまえ、軍事を根幹として、経営など周辺分野をも包括した総合的研究集団として、われわれは戦略研究学会を設立した。
戦略研究学会は、過去・現在・未来にわたる全地球的な戦略課題を社会科学的に研究し、「戦略学」の確立、質的向上を図るとともに、危機・戦争といった不確実、不透明な異常事態への日本の抗堪力、対応力の向上に貢献することで、既存の学会とは異なる使命を果たせるものと確信している>
理事(企画委員長)には小生が地政学のイロハを学んだ奥山真司氏(国際地政学研究所上席研究員)も名を連ねている。
義を見てせざるは勇無きなり、芙蓉書房出版の現在の社長・平澤公裕氏は2011/平成23年3月11日の東日本大震災の記録散逸を防ぐため地元の依頼に応えて『もどれない故郷ながどろ 飯舘村帰還困難区域の記憶』(2016/3/5)刊行に尽力した。初版2000部、“売らんかな”主義の出版社が多い中で希少な存在だ。
その芙蓉書房出版の「陸軍中野学校の光と影 インテリジェンス・スクール全史」12章「受け継がれるもの」から。
<【切り裂かれたヨーロッパの植民地支配】1945年9月2日の朝、戦艦ミズーリの甲板には連合国代表が集まり、日本の降伏を受け入れた。米国代表のチェスター・W・ニミッツ提督に続き、英国のブルース・フレーザー提督、フランスのジャック・ルクレール大将、オランダのコンラート・ヘルフリッヒ中将が降伏文書に署名した。この場面は、英国、フランス、オランダが中断していたアジア地域の支配を再開しようとしていることを示していた。
日本は東南アジアからヨーロッパの植民地列強を追い出し、彼らに屈辱を与えたが、米国は連合国の反撃を主導して日本を打ち負かしたのだった。調印式に参加した立会人の中には、アジアがヨーロッパの覇権により再び安全になったと結論づけた者もいただろう。
第2次世界大戦の二面性がこれほど顕著に表れるところは他になかった。例えば、フランスの解放とドイツを打ち負かすために戦ってきたルクレールは8月18日、フランスからアジアに向けて飛び立った。今度はインドシナを再び手中に収めるべく遠征部隊を率いることになった。
ヨーロッパの米国同盟国は、彼らの帝国の富を取り戻すことを企図していた。まさしく1942年、英国は「戦後のある時期にインドの自治を約束」していた。しかしその約束はどのような形で守られるのか、詳細は不明確であった。英国はインドの反乱を回避するための方策として戦時中の低迷期に交わされた約束を守るのだろうか。ビルマ、マレー、シンガポールに関しては、英国は支配を継続するつもりだった。
マウントバッテン伯爵の「東南アジア司令部/SEAC」では、戦時中のインドで勤務していた米情報将校たちは、SEACは Save England's Asiatic Colonies(英国のアジア植民地を救え)を真に意味していると辛辣に形容していた。
半年前に日本の収容所に投獄されたインドシナのフランス軍部隊は降伏調印式の月に解放されたが、すぐに外国支配からの解放を目指すベトナム人と衝突した。8月15日の玉音放送の3日後には、日本の恩恵を受けた指導者たちが独立を宣言したインドネシアに、再び島を支配すべくオランダ兵たちが戻ってきた。
しかし、ヨーロッパの植民地軍と警察部隊は民族主義運動を鎮圧できなかった。日本は戦中に西欧列強を屈服させることで、アジアの民族主義者たちが反乱を起こす力を生んだのだ。
インド国民軍将校たちのレッドフォート裁判(*)の間、インド人水兵が英国に対して暴動を起こした時、英国はインド帝国を維持するためのコストが、英国国民全体が疲弊した戦争のそれ以上であることが分かった。独立は1947年、ヒンズー教徒とイスラム教徒の間で論争が起こり、大英帝国の至宝がインドとパキスタンに分割し成立した。
《*:インド国民軍(Indian National Army、略号:INA)は、太平洋戦争中に日本軍の支援によって設けられた、英印軍の捕虜のインド人転向者を中心とした軍隊。
当初は日本軍がマレー作戦を優勢に進めるための補助戦力としてゲリラ部隊的な色彩も強かったが、インド独立運動の英雄の一人であるスバス・チャンドラ・ボースが来日し、イギリス領インド進攻作戦が具体的に検討され始めてから次第に重装備化され、本格的な軍隊となった。
当初、大本営の南方作戦にインドを攻略する計画は含まれていなかったが、現地で工作支援にあたったF機関によってインド独立を考えていた。
2016年にはモディ首相は「イギリスが戦勝国であるにもかかわらずインドから撤退したのはガンジーのためではなく、インド国民軍のためである」との英国の機密文書を公開し、インド国民軍を再評価している(WIKI)》
ビルマでは鈴木大佐の南機関の元弟子であったアウン・サンとの武力闘争の恐れに直面した英国は、1947年にビルマの独立要求を受け入れ、翌年1月に共和国が誕生した。また、英国はマレーでも譲歩し、1948年までには英国の監督を受けて連邦化を実現した。
民族主義の台頭に直面した英国ほど鋭敏ではなかったフランスやオランダは、アジアでの支配を維持するために無謀な戦いを繰り広げていた。戦後の9年間のフランスの戦いは、ディエンビエンフーでの敗走とインドシナからの撤退によって幕を下ろした。
1940年にインドシナに進出した帝国陸軍は、1945年3月にフランスを権力の座から一掃し、大戦末期には民族主義者を扇動し列強からの独立運動を起こさせることで、フランスのアジア帝国を破壊した。何もなければその先の何十年と支配を強めていたであろう植民地を、戦争は台風のごとく破壊していったのだ>
ちっぽけな日本は最強の米英仏蘭+中露と戦い、矢尽き刀折れて連合国に降伏したが、植民地解放のうねりは燎原の火のごとく世界に広まり、1500年代から500年近く続いた列強による「植民地時代」は終焉した。大日本帝国、グッドジョブ!
束の間の安定を経て21世紀の今、共産主義独裁国家の中露により世界に再び大戦の危機が迫っている。前回は火付け、今度は降りかかる火の粉を払わねばならない。核武装、戦力強化、徴兵制、シェルター、燃料・食糧備蓄・・・なすべきことは山ほどある。諸悪の根源、中露撃退へ全力で備えるべし。
*読者諸兄の皆さま、御意見を! ishiifam@minos.ocn.ne.jp
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
目安箱:ishiifam@minos.ocn.ne.jp
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