雀庵の「大戦序章/7 ウクライナは明日の日本だ」
“シーチン”修一 2.0
【Anne G. of Red Gables/440 2022/3/8/火】日本は敗戦後、国際連合(国連)に加盟したが、United Nations を正確に訳せば「連合国(機構)」だ。それでは「なーんだ、勝てば官軍、気取ってやがら」と反発されかねないからGHQは「国際連合」という偉そうな言葉を発明したのだろう。この怪しげな洗脳工作は大成功して日本人は「国連の決定したことは守る」という意識がとても強い。ガチの“国連真理教”みたいだ。
GHQ憲法では「日本国が締結した条約及び確立された国際法規は、これを誠実に遵守することを必要とする」とあり、それなら憲法と条約に齟齬がある場合はどうする?ということになる。論争の末に「憲法は本来は国内向けのもの、一方で国際条約は他国との約束である。国内法で条約の是非を云々するのはそもそも無理筋」というのが大方の解釈らしい。
随分あいまいだが、「GHQ憲法を破棄して本物の憲法を創ろう」とならないのが今の日本の「経済重視、国防軽視」政策の限界になり、このままでは早晩、二流国に陥ることは間違いない。
世界では日本のような遵法精神?にあふれかえった国は多分少数派だろう。青年のように単純だが、近年では、清らかで美しい「大和心」や遵法オンリーではなく「時には腹黒さを隠した狡猾な外交・軍事」も弱肉強食の国際社会で生き残るためには必要らしい、と、日本人も文武の「武士道」を取り戻しつつあるのではないか。
それは、国際社会、特に共産主義独裁“戦狼狂”の中露北によるえげつないリアルによって覚醒されてきたのだが、少年までの幸福なお花畑を出て、油断も隙もない海千山千の荒野に向かう道でもあり、苦難の選択である。そうしなければ間違いなく亡国になるのだから、腹をくくって前進するしかない。青年は荒野を目指すのだ。
荒野は基本的に弱肉強食の世界、ルールも審判もなく、勝った方が正義で、負ければ悲惨だ。遠藤誉氏・白井一成氏の共著『ポストコロナの米中覇権とデジタル人民元』(実業之日本社)によると、国家をまたぐ紛争の仲裁・調停などの運営を行う裁判所はあっても、判決に法的拘束力はない、と、こう説いている。
<国家が国家を訴える場合は(海洋問題を別とすれば)以下のようなケースがあり得る。
1つはオランダ・ハーグにある「常設仲裁裁判所」で、これは相手国が「訴訟を受けて立つ」と承認しなくとも、一方的に訴えることができる。但し執行の強制力を持っていない。したがって南シナ海の領有権を巡ってフィリピンが訴訟を起こし勝訴したのに、中国は判決文を「1枚の紙っ切れでしかない」と無視してしまったことがある。
2つの目の選択肢は国連の「国際司法裁判所」に訴える方法で、これは国連憲章第94条などに規定されている。「各国際連合加盟国は、自国が当事者であるいかなる事件においても、国際司法裁判所の裁判に従うことを約束する」となっているので、もちろん「国家が国家を訴えることは可能」である。もっとも、ハーグの仲裁裁判所と違って被告側に相当する国が「受けて立つ」と表明しなければ、そもそも裁判が成り立たない。
相手が「受けて立つ」と意思表明し、裁判が進む場合、94条の2には「事件の一方の当事者が裁判所の与える判決に基いて自国が負う義務を履行しないときは、他方の当事者は、安全保障理事会に訴えることができる。理事会は、必要と認めるときは、判決を執行するために勧告をし、又はとるべき措置を決定することができる」とある。すなわち「従わない場合は国連の安全保障理事会に訴えることができる」のである。
ところが、国連憲章第27条の3には「その他のすべての事項に関する安全保障理事会の決定は、常任理事国の同意投票を含む9理事国の賛成投票によって行われる。但し、第6章及び第52条3に基く決定については、紛争当事国は、投票を棄権しなければならない」とある。
安保常任理事国の中には中国がおり、ロシアがいる。紛争当事国である中国が棄権したとしても、習近平と蜜月を演じているプーチン・ロシアが頑張ってくれれば、中国は難を逃れることができる。
プーチンの側近とも接触のある「モスクワの友人」は、「習近平を追い込むような選択をプーチンは絶対にしない」と断言している。この言葉からもわかるように、習近平にとってプーチンを引き寄せておくことがどれだけ重要であるかが推察される>
つまり、ソ連崩壊後のプーチン・ロシアと、中華民国を追放した後の習近平・中共という、自ら第2次大戦にまったく寄与しなかった戦後生まれの“ならず者”新興国が、どういうわけか「安保常任理事国」に納まり、このダーティペアによる悪事を強制的に止めるという国連の一番大事な「戦争抑止機能」は全くなくなった、と言えるだろう。
「国連総会、ロシア非難決議採択 賛成141、反対5―国際社会での孤立浮き彫りに」(時事2022/3/3)となっても、確信犯の露中北のような国は深刻な痛痒を感じないから蛙の面に○○だ。国連の抜本的な改革をしなければ無用の長物になるだろう。
結局はG7やG20の有志国が強力な経済制裁、封じ込めをし、露中の国民をしてプーチンと習の独裁政権を排除するよう促すしか手はないように思える。露中の民はまずは自らの手で赤色独裁者を駆逐し、民主主義国家を創るときである。雨降って地固まる、血と涙を流す内戦、混乱、死生をさまよう難産を経ないと民主主義国家は生まれないようだ。残酷だが、そういうものらしい。
プーチン・ロシアは2014年のクリミア半島強奪以来、有志国から経済制裁を受けているが、その危機を民主化ではなく、あろうことか「強権独裁の軍国ソ連復活」で突破を目指し、遂に戦争による世界秩序の変換、侵略戦争を始めた。プーチンはウクライナを制覇できれば、さらに旧ソ連圏の国々にも触手を伸ばすに違いない。西側諸国は武器などをウクライナに供給しているが、ロシアとの直接的な軍事衝突には腰が引けている。
1994年の「ブダペスト覚書」は、ソ連崩壊時に独立したウクライナに対し、「ウクライナが核兵器を放棄すれば、米英露が安全保障を約束する」ものだった。ウクライナはそれを信じて核兵器を放棄したが、今や露に襲われ、米英も防衛の約束を反故にしている。ウクライナが核兵器を持っていれば露に襲われることはなかったし、米英に捨てられる悲劇もなかったろう。米英露の安全保障の甘言を信じて非核化したのが運の尽き、米国の国是みたいな「永遠の友も、永遠の敵もいない」というご都合主義を知らなかったのが現在の苦境を招いたと言っても良い。
まことに「世界は腹黒い」。伊豆の踊り子曰く「いい人はいいね」、現実は「でも、いい人は往々にして騙されたりするね、中にはいい人を装う悪もいるから注意しないとね」、外交はそんなものだろう。自分の身は自分で守る、脳内お花畑の無防備なノーズロのパープリンはレイプされる、殺されるということ。「いつまでもあると思うな『米』と『安全』」、ウクライナは明日の日本である。
奥山真司 地政学・戦略学者/国際地政学研究所上席研究員の論稿「『自国は自分で守る』ウクライナの士気で高まるロシア批難と『戦争の3つの要諦』日本で報じられない海外の専門家たちの初期分析の中身」(SAKISIRU 2022/3/6)から。
<とうとうロシアが欧州で戦争を開始した。相手はウクライナであり、しかも当初予定されていたよりもはるかに大規模な侵攻を開始したこともあって、国際政治の専門家たちの間でも衝撃が走っている。
【戦争の行方を見通す3つの要素】 2月24日の早朝に始まった今回の戦争によって、ロシアという凶暴な「グリズリー」が、裏庭でバーベキューパーティーを開いていた欧州の人々の間に乱入するという事態が実現してしまった。本稿を執筆している時点ではまだ本格的な「戦争」(ロシアは特殊な軍事作戦と言っている)が始まってから1週間しか経っていないため、今後の見通しは不明のままだ。
だが、すでに海外の優秀な専門家たちが詳細な「初期の分析」を公表しており、それらをいくつか読んで気づかされたことがある。日本ではあまり注目されることのない分析だが、あらゆる戦争に共通する3つの要素に注目している。以下、それぞれについて説明していきたい。
1)プーチンの認識と現実の「ギャップ」:第一が、今回のプーチンの狙いと、その軍事作戦の間に大きなギャップがあると指摘するものが多いことだ。具体的には、プーチンが今回のウクライナ軍の抵抗を完全に過小評価しており、2003年のイラクにおけるアメリカ軍のように、「もしロシア軍の部隊が侵攻すれば、現地住民から『解放者』として歓迎されるはずだ」と勘違いしていたという報道もある。
ところが実際は、ロシア軍側の準備や作戦の稚拙さから、南部の沿岸部や東部の地域を除いて、基本的に第一波となる攻撃はウクライナ側によってかなり持ちこたえられたと見てよい。
プーチンが今回の軍事作戦で何を狙っていたのか、本当のところは専門家でもわかっていない。伝えられるところによれば、ロシアはわずか4日間の作戦で主要都市を陥落させて、ウクライナ政府のトップたちを斬首し、首都キエフに傀儡政権を設立するつもりだったと言われている。
また、プーチン自身も周りの思想性の強いアドバイザーたちに影響されており、いわゆる「反動保守派」の思想に傾き、「西側諸国は人と動物の間の結婚を合法化しており、ウクライナの指導者はヒトラーと同じくらい悪人であり、同国の民族主義者たちは人間以下の存在だ」と考えているという報道もある(参考:NYTimes)。
だがこのような世界観に基づいた軍事作戦は、すくなくとも第一波では頓挫した。そもそもウクライナ占領という政治目標は壮大すぎて、実際のロシア軍の兵力とマッチしていなかったからである。端的にいえば、プーチンはそもそも不可能なことを軍に求めていたのだ。
2)「戦争の霧」を軽視したロシア:第二に、「戦争の不確実性」が挙げられる。たとえば今回のロシアによる軍事作戦は、ウクライナ側による想定外の強い抵抗によって作戦の変更を余儀なくされている。これは戦争においてキャスティングボートを握る可能性は自分たちだけでなく、相手にもあることをロシア側が理解できていなかった、もしくは過小評価していたことに一つの原因がある。
戦いというのは自由意志を持った相手、つまり殺されまいと必死になっている相手とのぶつかり合いだ。いくらロシアが戦力面で圧倒的に有利な状態であったとしても、ウクライナ側もただで殺されるわけにはいかない。また、ロシア側にも予期せぬアクシデントや負傷、さらには通信の連携の失敗なども出てくる。いわゆる「戦争の霧」(fog of war)というものだ。闘う者同士の二者関係が複雑になるため、状況も流動的になり、戦況は誰にも読めなくなる。
戦争は「出たとこ勝負」(の要素がある)。戦争の力学を知っている専門家は、決して「次はこうなる」と断言できないし、逆に断言している識者がいるとすれば、戦争を本気で研究したことのない素人だとも言えるのだ。
3)「自国を守るものの士気と決意」が決定打:第三に、「士気」の問題がある。これは最も強調すべき要素であり、戦争において根本的なものでありながら、日本の専門家はあまり注目しない点である。
たとえばイギリスの「戦争学」の権威であり、長年ロンドン大学のキングス・カレッジの教授を務めた経験のあるローレンス・フリードマンは、今回の戦争開始直後に以下のような分析を書いている。
〈自国を守る者の士気と決意は、侵略を企てる側の士気や決意より高くなる傾向があり、特に企てる側がなぜ侵攻するのか分かっていない場合は、この傾向が強まることを我々は再認識させられた。ウクライナ人が本気で国を守ろうとしていることや、忍耐力があることも分かった。彼らはロシアに蹂躙されてはいないのだ〉
ここで注目していただきたいのは、この「自国を守る者の士気と決意」という箇所だ。今回の一連の報道をご覧になられたみなさんの中には、ウクライナのゼレンスキー大統領がSNSなどを通じて国民に、「我々は全員(キエフに)いる。我々は独立と国を守るためにここにとどまる」と語りかける姿勢に胸を打たれた方々も多いと思う。ウクライナは軍事面で圧倒的に不利な状況にあるが、国民や兵士には「祖国を守る」という大義があるのだ。
ウクライナという国は、国土のサイズでは「小国」とは言えないが、それでも軍事力ではロシアと比べて圧倒的に不利な、吹けば飛ぶような状態だ。その国が、西側諸国(NATO)の助けを得られない状況で、孤軍奮闘している。一方、ロシア軍の兵士の捕虜の中には、今回の作戦の目的をあらかじめほとんど知らされず、演習だといって突然連れてこられたと証言している者もいる。士気には大きな開きがある。
【ウクライナの「戦う姿勢」で高まった対ロ批難】 さらに特筆すべきは、ウクライナ政府が「義勇兵」を呼びかけており、国外で働いている同国人たちに帰国して武器を持って戦うように呼びかけているという実態だ。これは「命が大事」という現在の日本で教育されているものとは正反対の、国家のための究極の「犠牲」や「英雄的な行為」を求めるものであり、だからこそ世界の人々に感動を与えているのだ。
アフガニスタンでは去年の8月に米軍が撤退したときに、ガニ大統領をはじめとする首脳たちは大量の資金を持ってさっさと国外に亡命したが、ウクライナのゼレンスキー大統領は首都に残って陣頭指揮をしているだけでなく、なんと政敵であったポロシェンコ前大統領までが亡命先のポーランドからわざわざ帰国し、国民に対して武器を手にとって戦うよう呼びかけている。
端的にいえば、ウクライナ人は名誉を重んずる「戦士」(warrior)となっている。だからこそ、ロシアの衛星国を除いた国連に所属するほとんどの国が、 国際法への違反という法的な面だけでなく、人道的・感情的な面から、ロシアに対する非難決議に賛成したのだ。
このような見方は「昭和の軍国主義的な考えだ」と感じる方もいるかもしれない。だが今回のウクライナ国民や政府首脳たちが見せた「自国のことは自国で守る」という姿勢は、「士気」や「決意」のように数値化できないものだが、国際政治を動かす要素として見逃すことはできない。
【クラウゼヴィッツが指摘した戦争の「三位一体」】 以上の3つの要素は、実は戦争や戦略を研究する人々の間では古典的な扱いのクラウゼヴィッツの『戦争論』の中で指摘されているものだ。ドイツ帝国が誕生する前の時代を生きていたこのプロイセンの軍人(1780〜1831年)は、戦争に必須となる3つの構成要素に「驚くべき三位一体」と名付けて、以下のように説明している。
第一に、そこには、その本来的性格である暴力性、盲目的な自然的衝動とみなすべき憎悪および敵愾心がある。第二に、蓋然と偶然の働きがある。それは、戦争を一つの自由な精神的活動たらしめる。
第三に、戦争は、政治の道具としての従属的性質をもっている。これによって戦争は、もっぱら理性の活動舞台となる。
これだけでは実に難解なものに聞こえるが、英語圏のクラウゼヴィッツ研究ではこのような3つの要素はそれぞれ、「国民」が担当する「情熱」、「軍隊」が担当する「チャンス」、「政府」が担当する「理性」――の形をとって表現されるとしており、このうちのどれ一つの要素を無視しても戦争は理解できないとしている。
本稿で強調した「士気」は「情熱」にあたる部分であることは言うまでもない。情熱がなければ名誉もなく、犠牲もなく、「戦士」もなく、大義もないのである。
【「戦争は絶対悪」を超えた議論を始めよう】 日本では第二次世界大戦での敗北によって「戦争は絶対悪」という倫理的な前提から抜け出すことができず、とりわけこのような戦争の機能的な面についての学術的な研究はなされてこなかった。つまり戦争そのものを、『戦争論』を使って分析しようとはしてこなかったのだ。ところが我々はいまや隣国であるロシアが、欧州正面で世界大戦を開始しようかという本格的な戦争状態に突入している。
戦争という現象を正面から見つめ、とりわけクラウゼヴィッツが指摘したような「国民」によってあらわされる情熱や士気、それに犠牲のような要素を、日本の今後の安全を考える際に注目せざるえない時代がついにやってきたのではないだろうか>
「核なき平和はあり得ない」「非核は自殺行為」「地球に警察官はいない」を身をもって示したウクライナを支援すべし。「戦の一字を忘れた国は主権国家とは言えない」「軍事を伴わない正義はただの戯言」「自国の安全を他国に頼むと亡国を招く」「平和を享受したければ戦争に備えよ」と教えてくれたプーチンには感謝を込めて鉄槌を下すべし。
・・・・・・・・・・・・・・
目安箱:ishiifam@minos.ocn.ne.jp
https://blog.goo.ne.jp/annegoftotopapa4646
まぐまぐID 0001690154「必殺クロスカウンター」
“シーチン”修一 2.0
【Anne G. of Red Gables/440 2022/3/8/火】日本は敗戦後、国際連合(国連)に加盟したが、United Nations を正確に訳せば「連合国(機構)」だ。それでは「なーんだ、勝てば官軍、気取ってやがら」と反発されかねないからGHQは「国際連合」という偉そうな言葉を発明したのだろう。この怪しげな洗脳工作は大成功して日本人は「国連の決定したことは守る」という意識がとても強い。ガチの“国連真理教”みたいだ。
GHQ憲法では「日本国が締結した条約及び確立された国際法規は、これを誠実に遵守することを必要とする」とあり、それなら憲法と条約に齟齬がある場合はどうする?ということになる。論争の末に「憲法は本来は国内向けのもの、一方で国際条約は他国との約束である。国内法で条約の是非を云々するのはそもそも無理筋」というのが大方の解釈らしい。
随分あいまいだが、「GHQ憲法を破棄して本物の憲法を創ろう」とならないのが今の日本の「経済重視、国防軽視」政策の限界になり、このままでは早晩、二流国に陥ることは間違いない。
世界では日本のような遵法精神?にあふれかえった国は多分少数派だろう。青年のように単純だが、近年では、清らかで美しい「大和心」や遵法オンリーではなく「時には腹黒さを隠した狡猾な外交・軍事」も弱肉強食の国際社会で生き残るためには必要らしい、と、日本人も文武の「武士道」を取り戻しつつあるのではないか。
それは、国際社会、特に共産主義独裁“戦狼狂”の中露北によるえげつないリアルによって覚醒されてきたのだが、少年までの幸福なお花畑を出て、油断も隙もない海千山千の荒野に向かう道でもあり、苦難の選択である。そうしなければ間違いなく亡国になるのだから、腹をくくって前進するしかない。青年は荒野を目指すのだ。
荒野は基本的に弱肉強食の世界、ルールも審判もなく、勝った方が正義で、負ければ悲惨だ。遠藤誉氏・白井一成氏の共著『ポストコロナの米中覇権とデジタル人民元』(実業之日本社)によると、国家をまたぐ紛争の仲裁・調停などの運営を行う裁判所はあっても、判決に法的拘束力はない、と、こう説いている。
<国家が国家を訴える場合は(海洋問題を別とすれば)以下のようなケースがあり得る。
1つはオランダ・ハーグにある「常設仲裁裁判所」で、これは相手国が「訴訟を受けて立つ」と承認しなくとも、一方的に訴えることができる。但し執行の強制力を持っていない。したがって南シナ海の領有権を巡ってフィリピンが訴訟を起こし勝訴したのに、中国は判決文を「1枚の紙っ切れでしかない」と無視してしまったことがある。
2つの目の選択肢は国連の「国際司法裁判所」に訴える方法で、これは国連憲章第94条などに規定されている。「各国際連合加盟国は、自国が当事者であるいかなる事件においても、国際司法裁判所の裁判に従うことを約束する」となっているので、もちろん「国家が国家を訴えることは可能」である。もっとも、ハーグの仲裁裁判所と違って被告側に相当する国が「受けて立つ」と表明しなければ、そもそも裁判が成り立たない。
相手が「受けて立つ」と意思表明し、裁判が進む場合、94条の2には「事件の一方の当事者が裁判所の与える判決に基いて自国が負う義務を履行しないときは、他方の当事者は、安全保障理事会に訴えることができる。理事会は、必要と認めるときは、判決を執行するために勧告をし、又はとるべき措置を決定することができる」とある。すなわち「従わない場合は国連の安全保障理事会に訴えることができる」のである。
ところが、国連憲章第27条の3には「その他のすべての事項に関する安全保障理事会の決定は、常任理事国の同意投票を含む9理事国の賛成投票によって行われる。但し、第6章及び第52条3に基く決定については、紛争当事国は、投票を棄権しなければならない」とある。
安保常任理事国の中には中国がおり、ロシアがいる。紛争当事国である中国が棄権したとしても、習近平と蜜月を演じているプーチン・ロシアが頑張ってくれれば、中国は難を逃れることができる。
プーチンの側近とも接触のある「モスクワの友人」は、「習近平を追い込むような選択をプーチンは絶対にしない」と断言している。この言葉からもわかるように、習近平にとってプーチンを引き寄せておくことがどれだけ重要であるかが推察される>
つまり、ソ連崩壊後のプーチン・ロシアと、中華民国を追放した後の習近平・中共という、自ら第2次大戦にまったく寄与しなかった戦後生まれの“ならず者”新興国が、どういうわけか「安保常任理事国」に納まり、このダーティペアによる悪事を強制的に止めるという国連の一番大事な「戦争抑止機能」は全くなくなった、と言えるだろう。
「国連総会、ロシア非難決議採択 賛成141、反対5―国際社会での孤立浮き彫りに」(時事2022/3/3)となっても、確信犯の露中北のような国は深刻な痛痒を感じないから蛙の面に○○だ。国連の抜本的な改革をしなければ無用の長物になるだろう。
結局はG7やG20の有志国が強力な経済制裁、封じ込めをし、露中の国民をしてプーチンと習の独裁政権を排除するよう促すしか手はないように思える。露中の民はまずは自らの手で赤色独裁者を駆逐し、民主主義国家を創るときである。雨降って地固まる、血と涙を流す内戦、混乱、死生をさまよう難産を経ないと民主主義国家は生まれないようだ。残酷だが、そういうものらしい。
プーチン・ロシアは2014年のクリミア半島強奪以来、有志国から経済制裁を受けているが、その危機を民主化ではなく、あろうことか「強権独裁の軍国ソ連復活」で突破を目指し、遂に戦争による世界秩序の変換、侵略戦争を始めた。プーチンはウクライナを制覇できれば、さらに旧ソ連圏の国々にも触手を伸ばすに違いない。西側諸国は武器などをウクライナに供給しているが、ロシアとの直接的な軍事衝突には腰が引けている。
1994年の「ブダペスト覚書」は、ソ連崩壊時に独立したウクライナに対し、「ウクライナが核兵器を放棄すれば、米英露が安全保障を約束する」ものだった。ウクライナはそれを信じて核兵器を放棄したが、今や露に襲われ、米英も防衛の約束を反故にしている。ウクライナが核兵器を持っていれば露に襲われることはなかったし、米英に捨てられる悲劇もなかったろう。米英露の安全保障の甘言を信じて非核化したのが運の尽き、米国の国是みたいな「永遠の友も、永遠の敵もいない」というご都合主義を知らなかったのが現在の苦境を招いたと言っても良い。
まことに「世界は腹黒い」。伊豆の踊り子曰く「いい人はいいね」、現実は「でも、いい人は往々にして騙されたりするね、中にはいい人を装う悪もいるから注意しないとね」、外交はそんなものだろう。自分の身は自分で守る、脳内お花畑の無防備なノーズロのパープリンはレイプされる、殺されるということ。「いつまでもあると思うな『米』と『安全』」、ウクライナは明日の日本である。
奥山真司 地政学・戦略学者/国際地政学研究所上席研究員の論稿「『自国は自分で守る』ウクライナの士気で高まるロシア批難と『戦争の3つの要諦』日本で報じられない海外の専門家たちの初期分析の中身」(SAKISIRU 2022/3/6)から。
<とうとうロシアが欧州で戦争を開始した。相手はウクライナであり、しかも当初予定されていたよりもはるかに大規模な侵攻を開始したこともあって、国際政治の専門家たちの間でも衝撃が走っている。
【戦争の行方を見通す3つの要素】 2月24日の早朝に始まった今回の戦争によって、ロシアという凶暴な「グリズリー」が、裏庭でバーベキューパーティーを開いていた欧州の人々の間に乱入するという事態が実現してしまった。本稿を執筆している時点ではまだ本格的な「戦争」(ロシアは特殊な軍事作戦と言っている)が始まってから1週間しか経っていないため、今後の見通しは不明のままだ。
だが、すでに海外の優秀な専門家たちが詳細な「初期の分析」を公表しており、それらをいくつか読んで気づかされたことがある。日本ではあまり注目されることのない分析だが、あらゆる戦争に共通する3つの要素に注目している。以下、それぞれについて説明していきたい。
1)プーチンの認識と現実の「ギャップ」:第一が、今回のプーチンの狙いと、その軍事作戦の間に大きなギャップがあると指摘するものが多いことだ。具体的には、プーチンが今回のウクライナ軍の抵抗を完全に過小評価しており、2003年のイラクにおけるアメリカ軍のように、「もしロシア軍の部隊が侵攻すれば、現地住民から『解放者』として歓迎されるはずだ」と勘違いしていたという報道もある。
ところが実際は、ロシア軍側の準備や作戦の稚拙さから、南部の沿岸部や東部の地域を除いて、基本的に第一波となる攻撃はウクライナ側によってかなり持ちこたえられたと見てよい。
プーチンが今回の軍事作戦で何を狙っていたのか、本当のところは専門家でもわかっていない。伝えられるところによれば、ロシアはわずか4日間の作戦で主要都市を陥落させて、ウクライナ政府のトップたちを斬首し、首都キエフに傀儡政権を設立するつもりだったと言われている。
また、プーチン自身も周りの思想性の強いアドバイザーたちに影響されており、いわゆる「反動保守派」の思想に傾き、「西側諸国は人と動物の間の結婚を合法化しており、ウクライナの指導者はヒトラーと同じくらい悪人であり、同国の民族主義者たちは人間以下の存在だ」と考えているという報道もある(参考:NYTimes)。
だがこのような世界観に基づいた軍事作戦は、すくなくとも第一波では頓挫した。そもそもウクライナ占領という政治目標は壮大すぎて、実際のロシア軍の兵力とマッチしていなかったからである。端的にいえば、プーチンはそもそも不可能なことを軍に求めていたのだ。
2)「戦争の霧」を軽視したロシア:第二に、「戦争の不確実性」が挙げられる。たとえば今回のロシアによる軍事作戦は、ウクライナ側による想定外の強い抵抗によって作戦の変更を余儀なくされている。これは戦争においてキャスティングボートを握る可能性は自分たちだけでなく、相手にもあることをロシア側が理解できていなかった、もしくは過小評価していたことに一つの原因がある。
戦いというのは自由意志を持った相手、つまり殺されまいと必死になっている相手とのぶつかり合いだ。いくらロシアが戦力面で圧倒的に有利な状態であったとしても、ウクライナ側もただで殺されるわけにはいかない。また、ロシア側にも予期せぬアクシデントや負傷、さらには通信の連携の失敗なども出てくる。いわゆる「戦争の霧」(fog of war)というものだ。闘う者同士の二者関係が複雑になるため、状況も流動的になり、戦況は誰にも読めなくなる。
戦争は「出たとこ勝負」(の要素がある)。戦争の力学を知っている専門家は、決して「次はこうなる」と断言できないし、逆に断言している識者がいるとすれば、戦争を本気で研究したことのない素人だとも言えるのだ。
3)「自国を守るものの士気と決意」が決定打:第三に、「士気」の問題がある。これは最も強調すべき要素であり、戦争において根本的なものでありながら、日本の専門家はあまり注目しない点である。
たとえばイギリスの「戦争学」の権威であり、長年ロンドン大学のキングス・カレッジの教授を務めた経験のあるローレンス・フリードマンは、今回の戦争開始直後に以下のような分析を書いている。
〈自国を守る者の士気と決意は、侵略を企てる側の士気や決意より高くなる傾向があり、特に企てる側がなぜ侵攻するのか分かっていない場合は、この傾向が強まることを我々は再認識させられた。ウクライナ人が本気で国を守ろうとしていることや、忍耐力があることも分かった。彼らはロシアに蹂躙されてはいないのだ〉
ここで注目していただきたいのは、この「自国を守る者の士気と決意」という箇所だ。今回の一連の報道をご覧になられたみなさんの中には、ウクライナのゼレンスキー大統領がSNSなどを通じて国民に、「我々は全員(キエフに)いる。我々は独立と国を守るためにここにとどまる」と語りかける姿勢に胸を打たれた方々も多いと思う。ウクライナは軍事面で圧倒的に不利な状況にあるが、国民や兵士には「祖国を守る」という大義があるのだ。
ウクライナという国は、国土のサイズでは「小国」とは言えないが、それでも軍事力ではロシアと比べて圧倒的に不利な、吹けば飛ぶような状態だ。その国が、西側諸国(NATO)の助けを得られない状況で、孤軍奮闘している。一方、ロシア軍の兵士の捕虜の中には、今回の作戦の目的をあらかじめほとんど知らされず、演習だといって突然連れてこられたと証言している者もいる。士気には大きな開きがある。
【ウクライナの「戦う姿勢」で高まった対ロ批難】 さらに特筆すべきは、ウクライナ政府が「義勇兵」を呼びかけており、国外で働いている同国人たちに帰国して武器を持って戦うように呼びかけているという実態だ。これは「命が大事」という現在の日本で教育されているものとは正反対の、国家のための究極の「犠牲」や「英雄的な行為」を求めるものであり、だからこそ世界の人々に感動を与えているのだ。
アフガニスタンでは去年の8月に米軍が撤退したときに、ガニ大統領をはじめとする首脳たちは大量の資金を持ってさっさと国外に亡命したが、ウクライナのゼレンスキー大統領は首都に残って陣頭指揮をしているだけでなく、なんと政敵であったポロシェンコ前大統領までが亡命先のポーランドからわざわざ帰国し、国民に対して武器を手にとって戦うよう呼びかけている。
端的にいえば、ウクライナ人は名誉を重んずる「戦士」(warrior)となっている。だからこそ、ロシアの衛星国を除いた国連に所属するほとんどの国が、 国際法への違反という法的な面だけでなく、人道的・感情的な面から、ロシアに対する非難決議に賛成したのだ。
このような見方は「昭和の軍国主義的な考えだ」と感じる方もいるかもしれない。だが今回のウクライナ国民や政府首脳たちが見せた「自国のことは自国で守る」という姿勢は、「士気」や「決意」のように数値化できないものだが、国際政治を動かす要素として見逃すことはできない。
【クラウゼヴィッツが指摘した戦争の「三位一体」】 以上の3つの要素は、実は戦争や戦略を研究する人々の間では古典的な扱いのクラウゼヴィッツの『戦争論』の中で指摘されているものだ。ドイツ帝国が誕生する前の時代を生きていたこのプロイセンの軍人(1780〜1831年)は、戦争に必須となる3つの構成要素に「驚くべき三位一体」と名付けて、以下のように説明している。
第一に、そこには、その本来的性格である暴力性、盲目的な自然的衝動とみなすべき憎悪および敵愾心がある。第二に、蓋然と偶然の働きがある。それは、戦争を一つの自由な精神的活動たらしめる。
第三に、戦争は、政治の道具としての従属的性質をもっている。これによって戦争は、もっぱら理性の活動舞台となる。
これだけでは実に難解なものに聞こえるが、英語圏のクラウゼヴィッツ研究ではこのような3つの要素はそれぞれ、「国民」が担当する「情熱」、「軍隊」が担当する「チャンス」、「政府」が担当する「理性」――の形をとって表現されるとしており、このうちのどれ一つの要素を無視しても戦争は理解できないとしている。
本稿で強調した「士気」は「情熱」にあたる部分であることは言うまでもない。情熱がなければ名誉もなく、犠牲もなく、「戦士」もなく、大義もないのである。
【「戦争は絶対悪」を超えた議論を始めよう】 日本では第二次世界大戦での敗北によって「戦争は絶対悪」という倫理的な前提から抜け出すことができず、とりわけこのような戦争の機能的な面についての学術的な研究はなされてこなかった。つまり戦争そのものを、『戦争論』を使って分析しようとはしてこなかったのだ。ところが我々はいまや隣国であるロシアが、欧州正面で世界大戦を開始しようかという本格的な戦争状態に突入している。
戦争という現象を正面から見つめ、とりわけクラウゼヴィッツが指摘したような「国民」によってあらわされる情熱や士気、それに犠牲のような要素を、日本の今後の安全を考える際に注目せざるえない時代がついにやってきたのではないだろうか>
「核なき平和はあり得ない」「非核は自殺行為」「地球に警察官はいない」を身をもって示したウクライナを支援すべし。「戦の一字を忘れた国は主権国家とは言えない」「軍事を伴わない正義はただの戯言」「自国の安全を他国に頼むと亡国を招く」「平和を享受したければ戦争に備えよ」と教えてくれたプーチンには感謝を込めて鉄槌を下すべし。
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