チェリビダッケの重要なレパートリーとして、ブルックナーが上げられることは誰も異論のないところだと思うが、彼が生涯にわたり指揮してきたブルックナーは、その解釈は大変独特であり、個性の強いものだった。今にして思えば、チェリビダッケは生前演奏の録音は許可しなかったので、CD録音は、ほとんど無く、(プライベート版と呼ばれていたCD-Rはいつも溢れていたが)その大変独特な音楽の世界に触れるためには、実演を聴くこと以外にはなかった。とは言っても、アントンKがそのCD-Rに手を出さないはずもなく、一時は狂ったように聴いていたことをここで白状しておこう。しかし実演にも運よく触れることができ、85年のサントリーホールのこけら落としでの来日時のブルックナーの第5、そして90年10月に開催されたブルックナーチクルス(第4・第7・第8)、最後になったが、93年のブルックナーの第3・第4と、計6回足を運ぶことができた。
チェリビダッケ自身が生前、「レコードは音の缶詰。音楽ではない!」と言っていたが、彼の演奏会に行くとその意味が少しわかった気がした。確かに、彼の演奏会には、ある種の独特な雰囲気、オーラが音色に加わっているように聴こえた。これは、当然録音したものからは、よくわからない。チェリビダッケが「音楽は体験」と言ったが、まさにこのことだとわかったもの。少し大袈裟にいうなら、もう何十何百回も聴いているフレーズから、まだ聴いたことのない音色が伝わってくる。これが新たな発見であり、真の芸術なのかと当時は興奮したものだ。こんな演奏会場に身を置いていると、世間でよく言われている、チェリの演奏はテンポが遅い、などという間違った解釈は、本人とは別次元のことだろうから、きっと嘆くに違いない。そもそも演奏時間を他と比較すること自体ナンセンスなことなのだろう。あくまで保存のできない音楽として、今生まれてきたものを他と比べるのはどうかしら?チェリビダッケの持論からしたらこうなるだろう。
過去に何度か聴いた彼の演奏会を思い出して、今そんなことが甦ってくる。未体験で新しい発見の連続だった演奏は、演奏中は日常が非日常になり、未知の世界に連れて行かれる感覚になる。いつまでも聴いていたい衝動に何度陥ったか。悲しいかな演奏が終わった時、圧倒的な感動と充実した心を持って日常に引き戻される。そういった経験を持てたことを今誇りに思っている。
いくら文字で書いても、こんな拙い文章では伝わらないが、自身の想いを忘れないためここに記載しておく。