昔から気になっていた日本人の指揮者の中に、内藤彰氏という方がいる。自分のオーケストラを持ち、今年で25周年とか、楽譜に拘り、演奏初演に拘っているとのこと。ことブルックナーの交響曲についても、数々の版をさらに掘り下げており、楽章ごとに世界初演を繰り返して、過去にCDにも音源として残っているようだ。今回、彼のオケの100回目の定演を聴きに行くことができ、直接音楽に触れる機会を持ったが、率直に言って、アントンKの求めるものとは全く異なっていた。
会場は、延々エスカレーターに囲まれた印象の芸術劇場。ホール自体は、適度な残響と広めの座席で好きなホールなのに、ホールまでのアプローチが全くダメダメだ。もう何年か前に改修工事され、いくらかマシになった長いエスカレーターも、久しぶりに乗るとやはり、これから音楽に浸ろうとは思えない空気感を持っている。ホールエントランスについても、そこから、またエスカレーターに2回乗り換える・・何とも。
さて、今回のプログラムは、メインがブルックナーの第5交響曲だが、その前に、シベリウスの「フィンランディア」と、ショパンのピアノ協奏曲がある。この前座ともいうべき楽曲にしては、大曲であり、そのあとにブル5とは、何とも良く判らないプログラムだ。コンサートが終わってわかったことだが、この構成は、やはり指揮者である内藤氏の意向ということが理解できた。その全てにおいて、完成稿世界初演とか、ナショナル・エディションとか、能書きがついているのである。結局のところ、この演奏会は、その楽譜においての初演とか、珍バージョンということに価値を見い出し、演奏された中身は置き去りにされている印象を持った。確かに、日常聴いている楽曲との違いは散見できたものの、そこからくる想いは、ただの相違でしかなく、こちらが求める楽曲から表れる味や深いの魂の嘆きのような表現が聴き取れなかった。音楽に何を求めるのか?この出発点からして、指揮者である内藤氏は自分とは違ってしまった。
アントンKは、音楽に理屈は求めない。たとえ聴いたことのないフレーズが現れても、今までと音楽の速さが違っても、それに感動するのではなく、もっと音楽の内面に現れる、人間でいう喜怒哀楽のような表情に心を奪われる。当日の演奏は、譜面のみの表現だから、深みは無いし、まるで録音したレコードを大きなホールで聴いているようであった。おそらく、指揮している内藤氏は、学者なのだろうと思う。楽曲の速度のことにも、プレトークで触れていたが、申し訳ないがアントンKとは、全く考え方が違う。例えば、速度記号のアレグロ。このアレグロ一つと考えても、世界の数々のホールで異なる速さになる。ウィーンのムジークフェラインで、学友協会ホールで、ロイヤルアルバートホールで、ベルリンフィルハーモニーで、あるいは、東京のサントリーホールで・・・、かつてチェリビダッケや、朝比奈隆が述べていたように、音楽は空間の芸術であり、元来演奏時間の速さなど比較するものではないのだが、このことを内藤氏は盛んに述べていた事が印象的だった。
世界初ということに価値を見い出し、その譜面で演奏して我々聴衆を喜ばしてくれること自体は、素晴らしいことかもしれない。しかしクラシック音楽の醍醐味は、まさに演奏行為にあると考えるアントンKとしては、表面的な譜面の違いによる演奏内容だけでは、全く面白みに欠け、詰らない演奏会という印象しか残らない。これまで、今までの慣れ親しんだ譜面の演奏で、どれだけ感動したことか・・この想いは、世界初では得られないと確信したのである。
最後に名誉のために申しておくが、この指揮者に無心についていった各パートのオケのメンバー達は、良い演奏をしていたと思っている。不慣れな譜面に対して、よくぞと思われる箇所も難なく演奏していた事は称賛に値する。特に金管楽器のユニゾンで鳴る部分など、まさにブルックナーの響きであったことを付け加えておきたい。
東京ニューシティ管弦楽団 第100回定期演奏会
シベリウス 交響詩「フィンランディア」 OP26 完成稿世界初演の再演
ショパン ピアノ協奏曲第1番 ホ短調 OP11 ナショナル・エディション
ブルックナー 交響曲第5番 変ロ長調 川崎高伸編集原初稿
指揮 内藤 彰
ピアノ フィリップ・コパチェフスキー
2015-07-24 東京芸術劇場コンサートホール