子供の頃の思い出(その11)ふるさとの秋祭り
東伊豆海岸の半農半漁の小さな村に育った
私のお祭りの原点は、
誰がなんといおうが子供の頃の秋祭りである。
昭和38年頃までの村の殆んどの家計は、
「定置網漁」でささえられていた。
その定置網に「寒ブリ」が大漁の昭和33年頃までは、
小さな漁港も村中も活気付いていた。
勿論、そのお祭りを仕切るのは、
村のサラリーマン漁師達である。
その当時、小学校頃までの私の父は、
地元青年団の団長を務めていた。
秋祭りの1週間前頃になると、
若い衆達や漁師の奥さん達が我が家に集まりはじめ、
大人達は子供の頃に戻ったようにワクワクしながら
秋祭りの準備にとりかかりはじめるのでした
「田舎歌舞伎」をするための舞台を組み立てるのは、
若い衆の仕事だ
小さな神社境内にある社務所
(毎日、青年団が寝起きしていた施設を兼ねる)
の神社境内(広場)側の窓を取り外すと、
立派な舞台に生まれ変わるという仕掛けだ。
そしてお祭りの、
10月24日~26日の3日間の昼間帯における
酒盛りをするための料理をつくるのは、
青年団員の妻達の仕事である
そのため我が家は、お祭りの準備から終わるまでの
約10日間が、村中の人に占拠されてしまうと
いっても過言でない
子供心に
「お祭りって、ものスゲェ団結力があるナァ・・・」
って驚いていました
またお祭りが始まる2日前頃、隣村から「床屋」さんを
呼び、我が家の玄関先に
臨時の「床屋」をつくり、村中の子供から大人達まで
順番を待つ列ができ、綺麗にしてもらう慣わしがあった
当然、青年団長である父の息子の私は、
一番最初に理髪をしてもらったことを
今でも鮮明に覚えている
お祭り当日、
我が家における、祝いの酒盛りが
ピークを迎える頃になると、
青年団による、恒例の「神楽」や「祭りばやし」
が演じられた
<神楽・祭囃子のイメージ・イラスト>
そして、その頃になると
我が家の庭先には子供や大人の村人が
大勢集まり、お祭り気分も最高潮に
達するのでした・・・
なんといっても夜のイベントは、
小さな三島大社の境内につくられた
仮設舞台での「田舎歌舞伎」の公演である。
<歌舞伎のイメージ・イラスト>
裸電球で照らされる舞台、そして地面に
直接敷いたゴザの上で、
お母さんの手作りの「郷土・お祭り料理」を
家族そろって食べながらの
歌舞伎観劇・・・・・ウメぇ、美味しいネェ
ここでの田舎歌舞伎の人気演目は、
日本三大仇討ちの一つ「曽我兄弟仇討ち」の
原点である、「曽我の対面」である
子供の頃に親父の膝の上で座って観た、
この「曽我対面」にでてくるセリフ
「赤沢山の南尾崎・・・」とは、
私が育った田舎のことである
そのセリフが神社に響く頃、村人達は
「おらァ・地元の歌舞伎だァ・・・」と
大興奮したものでした
<ヒトコト>
新しい歌舞伎座での「曽我の対面」公演
を是非・観に行きたいですネェ
以上。