一昨日のブログは我ながら拗ねてる?被害妄想?みたいな文章だった。
「役のせいでしんどい」みたいな内容で、
関係各位に失礼な表現になっており誠に申し訳ないです。
あくまで自身のアプローチのせいで心身ともに疲弊してるってことです。
自分が悪い。
文中にもある「自身による勝手な呪縛」からの開放宣言です。
それにしても、
いつまでこの呪縛に苦しむつもりなんだろうか?
もういいじゃないかと思う。
無理に自分をどうこうしようとせず、自分のままでいい。
ただそうなると役とのギャップが問題だけど。
役とのギャップを埋めるのが役者の仕事のひとつだとすれば、
今後はその仕事に対する責任を放棄することになりかねない。
それで大丈夫なのだろうか。
別の方法論の模索は必須だ。
内面と外面の解離。
自己認識と他者認識の乖離。
他者にどのような印象を抱かれるか?
他者からどのような評価を下されるか?
それは全て自分の責任だと思っている。
事実はどうあれ、そう見られるのだから仕方ない。
いや自分で気付いていないだけで、
事実そうなのかも知れない。
若年に見られるのは、
自分が未成熟で稚拙な証拠なのである。
自己表現したい人間にとって、
この解離と乖離は苦痛意外の何ものでもないのだけれど、
それも含めて自分なのだろと言うしかないし、
創作の源になっているのも確かなことだ。
そろそろ視点を変えて生きようか。
家の近くのサクラが咲き始めた。
昨年の台風でたくさんの木々が折れ、安全の為に撤去を余儀なくされていた。
でも寂しさを感じたのは束の間。
撤去した場所には新しく苗木が植えられ、
残った木々からは薄色の可愛い花が咲いている。
花や草木にまったく興味のない人生だった。
家の近くに桜並木があると認識さえしていなかった。
公園があり、川があり、図書館前の広場には噴水まであるじゃないか。
今まではコンビニとガソリンスタンドしか目に入ってなかったのに。
日曜日の昼過ぎともなれば、
噴水やベンチに人々が腰掛け、
老夫婦が三味線を奏でている。
夜は夜でスケボー少年達が煩くて危なっかしいのだが、
彼らも彼らなりに青い春の開花を目指しているのだろう。
人は皆それぞれ、
誰もが毎年自分の花を咲かせるのかも知れない。
少しずつ少しずつ姿と心を変化させながら。
6月にはワンマンライブもあります。
客席が薄いと寂しいので、
サクラの皆さんどうかよろしくお願いします。
「役のせいでしんどい」みたいな内容で、
関係各位に失礼な表現になっており誠に申し訳ないです。
あくまで自身のアプローチのせいで心身ともに疲弊してるってことです。
自分が悪い。
文中にもある「自身による勝手な呪縛」からの開放宣言です。
それにしても、
いつまでこの呪縛に苦しむつもりなんだろうか?
もういいじゃないかと思う。
無理に自分をどうこうしようとせず、自分のままでいい。
ただそうなると役とのギャップが問題だけど。
役とのギャップを埋めるのが役者の仕事のひとつだとすれば、
今後はその仕事に対する責任を放棄することになりかねない。
それで大丈夫なのだろうか。
別の方法論の模索は必須だ。
内面と外面の解離。
自己認識と他者認識の乖離。
他者にどのような印象を抱かれるか?
他者からどのような評価を下されるか?
それは全て自分の責任だと思っている。
事実はどうあれ、そう見られるのだから仕方ない。
いや自分で気付いていないだけで、
事実そうなのかも知れない。
若年に見られるのは、
自分が未成熟で稚拙な証拠なのである。
自己表現したい人間にとって、
この解離と乖離は苦痛意外の何ものでもないのだけれど、
それも含めて自分なのだろと言うしかないし、
創作の源になっているのも確かなことだ。
そろそろ視点を変えて生きようか。
家の近くのサクラが咲き始めた。
昨年の台風でたくさんの木々が折れ、安全の為に撤去を余儀なくされていた。
でも寂しさを感じたのは束の間。
撤去した場所には新しく苗木が植えられ、
残った木々からは薄色の可愛い花が咲いている。
花や草木にまったく興味のない人生だった。
家の近くに桜並木があると認識さえしていなかった。
公園があり、川があり、図書館前の広場には噴水まであるじゃないか。
今まではコンビニとガソリンスタンドしか目に入ってなかったのに。
日曜日の昼過ぎともなれば、
噴水やベンチに人々が腰掛け、
老夫婦が三味線を奏でている。
夜は夜でスケボー少年達が煩くて危なっかしいのだが、
彼らも彼らなりに青い春の開花を目指しているのだろう。
人は皆それぞれ、
誰もが毎年自分の花を咲かせるのかも知れない。
少しずつ少しずつ姿と心を変化させながら。
6月にはワンマンライブもあります。
客席が薄いと寂しいので、
サクラの皆さんどうかよろしくお願いします。