2008年5月6日(火曜日)
自分では詠めないけれど、読むのは好きな短歌。
きのう、読み終えた「日本論」で
佐高さんは本にサインするとき、寺山修司の歌を引くと
おっしゃっています。
「マッチ擦るつかのま海に霧深し
身捨つるほどの祖国はありや」
姜さんもこの歌が一番好きとのこと。
「日本論」を読みながら、
イムジン河の歌を口ずさみながら、
わたしにとっての祖国って何だろう
国家ってなんだろうと
考えさせられました。
この歌は寺山修司の初期の歌集「チェホフ祭」に
おさめられています。
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吊るされて玉葱芽ぐむ納屋ふかくツルゲエネフをはじめてよみき
すこし血のにじみし壁のアジア地図われらも揺らる汽車通るたび
チェホフ祭のビラのはられて林檎の木かすかに揺るる汽車過ぐるたび
ふるさとの訛りなくせし友といてモカ珈琲はかくまでにがし
海を知らぬ少女の前に麦藁帽のわれは両手をひろげていたり
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ああ、そうそう
道浦母都子さんの歌も好きです。
「無援の抒情」は、同時代を生きたわたしの青春そのもの。
いまでも読むと涙があふれてきます。
なつかしいさにではなく、今の時代でも
生きにくい道を選んだ自分自身を
重ね合わせてしまうからです。
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「今日生きねば明日生きられぬ」という言葉想いてジグザグにいる
何が起こるかわからぬ不安とある期待交互に体を貫きゆけり
異常が日常に溶け込む際の一瞬を青年の眼よ見逃すなかれ
今だれしも俯くひとりひとりなれわれらがわれに変わりゆく秋
人知りてなお深まりし寂しさにわが鋭角の乳房抱きぬ
抱かれれば女と生まれしこと憎む日々重ねきて別れを決めぬ
涙ひとつ流さないのかと言う人を乾く瞳に見すえて去りぬ
独りになれば私だって泣く街歩みつつ涙とまらぬ
どこかさめて生きているようなやましさはわれらの世代の悲しみなりき
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日経ネット関西版「知るカルチャー」で道浦さんのエッセーが読めます。
http://www.nikkei.co.jp/kansai/news/news003128.html
エッセーと言えば、朝日の県版「あしたは晴れ」のさいごの
原稿、どうなったんだろう?
火曜日が掲載日だからほんとうなら、きょう載るはずなのに・・・