福井新聞「瀬戸際もんじゅ」第2弾
動燃と言われていた時代から、
現場で働く人たちと、上層部の間には大きく厚い壁があった。
東京からやってくるお偉いさんは、黒塗りのハイヤーがお出迎え・・・
お偉いさんの敦賀での飲食はすべて、ツケ。
管理職の人もツケ・・・
つまり税金で賄われていたということだ。
一方、現場で働いている若い人たちは、みんな自腹があたりまえ。
そんなところにもこの組織の危うさがうかがえる。
【連載】瀬戸際もんじゅ(2) 場当たり的改組の20年間
(2015年11月18日午後5時30分)
原子力規制委員会が高速増殖炉もんじゅ(福井県敦賀市)の運営主体を変更するよう、文部科学相への勧告方針を決めた今月4日、田中俊一委員長は運営主体の日本原子力研究開発機構を「ここ20年間、同じようなことを繰り返してきた」と切り捨てた。
1995年12月のもんじゅナトリウム漏れ事故の後、対策を重ね、規制官庁も再三指導してきた。だが、勧告は「結果的に具体的な成果を上げることなく推移した」と断じた。
事故当時、運営主体だった動力炉・核燃料開発事業団(動燃)は、大学、電力会社、原子炉メーカーなどから専門家を集めたエリート集団だった。エネルギー資源に乏しい日本で、国策の核燃料サイクルを担う主役に位置付けられた。その自負が、温度計1本の破損で打ち砕かれた。組織は混乱し、事故現場のビデオ隠しは社会問題に発展した。
「動燃職員は当時、技術的レベルも法令を順守するモラルも低かった」。20年前に計測機器のメーカー担当者としてもんじゅに関わった男性は、当時の現場の気質を苦々しく振り返る。「原子炉はメーカーの複合体につくってもらい、動燃は実験データを取って、論文を書くのが仕事だ―と。法律上の規制も、重要な実験を担う研究者とは無関係と、公言する人もいた」
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研究至上主義で閉鎖的とされた動燃は98年、「解体的出直し」と称して核燃料サイクル開発機構に生まれ変わった。旧動燃を主体にスリム化したが、看板を架け替えただけに過ぎなかった。
2005年には国の「特殊法人合理化」の名の下に、核燃機構は日本原子力研究所(原研)と統合。「事業肥大化」という問題が再燃した。旧動燃出身で、事故直後から約10年、もんじゅ所長を務めた原子力バックエンド推進センター(東京)の菊池三郎理事長は「個人的には、合併は間違っていたと思う」と正直に語る。
この間、もんじゅの所管が科学技術庁から文部科学省に移ったため「さらに学術に走った」と菊池氏は振り返る。
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場当たり的な改組を繰り返す中で、実用化を担うため社員を送り出してきた電力会社も及び腰になった。「出向者のレベルが下がり、入れ替わりの期間も短くなった」と複数の関係者は証言する。結果的に組織の意思疎通が滞り、職員間の認識違いと単純ミスを繰り返す悪循環に陥った。
もんじゅに勤める技術職の職員は「研究で成果を残してなんぼ。もんじゅを動かしても評価されない」と打ち明ける。改組は、対外的に変化をアピールしようと現場を細かく組み替えるため、だれも腰を据えて仕事ができないという。この職員は「本当の意味で看板だけを掛け替えるならよかったのに」と皮肉った。
今月2日の原子力規制委員会との意見交換で、着任半年の児玉敏雄原子力機構理事長は、組織の甘さを認めた上で「期限を決め、潜在する問題をつぶす」と決意を語った。
これに対し更田豊志委員長代理は「結果を出せないという結果を積み重ねてきた」と主張し、こう突き放した。「要するに、手詰まりです、というふうにしか聞こえない」