ムカデとことこ

 ひとが幸福になること・意識の成りたち・物理と心理を繋ぐ道
       ・・そんなこと探りたい

ファインマン

2012-03-07 19:54:29 | 量子力学と心
ファインマンという人は日本の朝永振一郎と一緒にノーベル物理学賞を取った人らしい。

ネットで読んだら凄く面白そうな人だ。

ノーベル賞をとった内容は私にはわからないけど、

A地点からB地点に量子が行くのは一つのルートだけじゃない、

というようなことを明らかにしたそう。

陽電子は“過去に移動する事が出来る”ということを証明したらしい。

平行宇宙という考え方がそこからうまれたようだ。

私たちが認識している空間の他に、

別の空間が存在すると考えないと辻褄が合わないという。

多くの物理学者がそう考えているらしい。


“過去は変えられる”ということを以前に書いたことがあるけど、

何かの行動をしたという物理的出来事は変えられないけど、

それについての認識は変えられるということ。

母のある行為を(自分勝手なわがままな行為)だとして、

感情を害していた自分から、

その行為は(私への愛情の表現)と気がついた時に、

その過去の出来事は私にとって別の出来事に変わった・・という経験がある。

記憶は捏造する、ということを書いた本にもあったけど、

過去はそれを思い出すときの視点によって、

違ったものになる、という・・・・と考えると、

ファインマンが証明した、「陽電子は過去に移動できる」という、

その陽電子は “意識”である、といえる。

こうして考えれば当たり前のことのように思う。

そういうことを云っている人は、

広い世の中には他にもいるんじゃないかな。


仏教関係の本を読んでいたら、こういうのがあった。

釈迦は「宇宙の空間的広がりは無限なのですか、有限なのですか」

・・というような質問を受けた時には答えなかったという。

答えるひとの知的レベル(釈迦の)で答えても、

聞いたその人の中で何が変化するわけでもない。

釈迦の願いはその人の中で、

意識が変容して別の時空を体験するということだったのではないか、と

その本の作者は書いていた。

そうなんだろうなぁと私も思った。


過去は変えられるということ、

意識は量子であること、

平行宇宙という存在があるということ、

アインシュタインが言ったように時間と空間は絶対なものではないこと、

・・そういうことから、こんなふうに考える。


一人一人まるきり異なる時空間に私たちは存在している、

そんなふうに考えられないかな。
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日本人③

2012-03-07 14:41:36 | ひとの幸福
最近は耳にすることがないけど、

「お天道様(おてんとうさま)に顔向けできない」

という言葉が昔から日本にある。

勝手な解釈なんだけど、(いつもそうだけど)

お天道様とは天の道、自然の理ということだと思う。

いや、今、広辞苑を見たら、

天道(てんどう)とは天帝の道。超自然の宇宙の道理。とあった。

やはりそうか・・

自然の理をいろいろな日本語の表現にみることが出来るのも、

不思議ではあるけれど、何故かそうなっているようだ。

私たち日本人が日本語という言語を生まれた時から浴びて育つのは

かなり大きなことなんじゃないかなぁとこの頃よく思う。

青い目でも黒い肌でも生まれた時から、

日本語を浴びて育つと日本的な人になるんじゃないかと思う。


主語が無いことや、”なる”という言葉・自然に・ひとりでに・

一体どうしたの・

しかたない=起こったことは既に起こっただけ・

喧嘩両成敗・・・・いろいろいろいろある。

とても興味深い。考えると尽きない。

言葉ほど意識形成に大きな意味を占めるものはないんじゃないかな。

日本独自の神道というものが、

この日本にあるということもなるほどと思う。

神道の解説・・・日本人は人道に対する神道という人道よりももっと高度な、

善悪を超えた宇宙や地球の法則のようなもの、

人類を含めた「物・事の在り方」「道(みち)」

をその精神の中心におき

「・・あらゆる存在がその個性を生かし、調和し、

永久に発展していくことが神道の原点です。」

これは熊野大社にあった看板。

・・・生かし、調和し、・・こういうのは生かし合っているということだろう。

神道の原点といっても、自然の姿をいってる。

神道は宗教でもなんでもない。

ただ、自然はそうなってます、と言っているに過ぎない。


だから神道は仏教ともキリスト教とも喧嘩するわけが無いんだろうな。

仏教もキリスト教もあらゆる存在に含まれるわけだから。

日本人が無宗教というのもわかる気がする。
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日本人②

2012-03-07 13:39:23 | ひとの幸福
震災の時、食べ物を受け取るのに行列をしている映像を何度も見た。

そういう姿も外国人から賞賛された。

行列する一人一人は自分や家族の為に並んでいる。

中には行列出来ない人の為に並んでいる人もいるかもしれないけど、

その場合でもその人や自分が食べる為の食べ物を得るために並んでいる。

謂わば自分たちの欲求を満たす為に並んでいる。

奪い合いが起こらないようにと思って、並んでいるのでもない。

ただ、自分の為に自分のやることをしているだけである。

それが結果として奪い合いなど起こらないことになっている。

それはあくまでも結果。こういうのって、

結果として自分と他者が生かし合っている状態っていえないかな。

植物が酸素を出しているのは、

人間や動物の為にそうしているんじゃないのと一緒で。

人間も植物のために呼吸をして二酸化炭素を出しているんじゃないけど、

結果として植物の役に立っている。

生かし合っている状態になっている、このことと同じじゃないかな。

いわば、生かし合いという自然の理の通りに、

行為してしまっている姿なんじゃないかな。

さっき書いた自販機を壊さないという例も。

生かし合っているという状態が起こるのは、

“あなたは私”とでも言うような・・・

あなたとわたしは一つのものである・・

・・という深い智慧が潜んでいるせいで起こるんじゃないか。

その智慧は元々全てのひとに備わっているものなんだけど、

それが際立って目立つのが日本人、という感じなんだろか。

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引き寄せ④

2012-03-07 13:15:53 | 量子力学と心
初めて会う人のことは知らない。

どんな人か知らない。

そういう時、どうその人と接するのか・・・

その人のことはまるで知らないのに、私たちは付き合う。

どういう自分でその人と向き合うのか。

その時私たちは何らかの選択をしている。

・・というようなことを引き寄せ③で書いた。

何度も会っている人に対しては、

どうしても「コレコレこんな人」に、自分の中でなってる。

コレコレこんな人・・というのはそれまでの経験で生まれた思いだ。

コレコレこんな人と見てることで、それなりの行動をするのは当然だ。

その人が(心配な人)になっていると、

その人は心配な人になって行く。引き寄せの法則。

量子メカニズムの通りに。


その人をそういう人だと見ている自分だということを知っていれば、

(そう見てるけど、本当はどうだろうか)という視点が生まれるけど、

そういう人だと見ている自分を知らないと、それが続くことになる。


(こんな人)だとわかっている状態に自分がなっていることを自分で知らない。

わからないということがわかってない。

事実実際は、その人は(こんな人)という言葉でくくられない。

悲しい気持ちになったときは悲しい人だし。

嬉しい気持ちになってるときは嬉しい人だし。

苦しい気持ちになってるときは苦しい人だし。

その時その時違う。

目の前のその人はどんな人なのか知らないのが本当なんじゃないか。


相手をどう見ている自分なのか(心の状態)で、相手の姿が引き出される。

この人は大丈夫な人、心配ない、と自分がなっていると、

そういう風にその人に接する。

意識は粒子であり波動なので相手のそういう波動と共鳴する。

余計な手出しなんかせずに安心して、その人がするのを見ることが出来る。

すると相手は自分がそういう人だと見られていることで、

安心して自分の意志で思いっきり行動する。


こういうのは前に書いた“ピグマリオン効果”と同じだ。

~として扱うことで、相手は~になる。


自分も他者もその時その時どんな人なら、

幸福な人になっていくレールに乗れるんだろうか。

それがはっきりと描けたら・・・そうなるように行為したらいいことになる。

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日本人

2012-03-07 10:37:10 | ひとの幸福
外国人の多くが日本に自動販売機がたくさんあることに驚異の念を持つらしい。

どういう驚異かといえば、それが壊されずにあるということだという。

そんなことが驚きだということに日本人は驚くんじゃないかな。

日本人にとってそれは当たり前のことだから。

本音は略奪したいんだけど、その気持ちは理性で抑えて、

略奪しないわけじゃない。

自販機を壊さないことを我慢してやっているんじゃない。

そんな発想が根っから無い。そういう感じ。


何故そういう発想が起こらないんだろうと考えてみると、

他者を自分と同じように感じているんじゃないか?・・・

自分が飲みたい時に、この自販機があることで、飲めるように、

他者もこの自販機を使って、飲みたい時に飲めるように、という・・

他者を自分と同じように観ている、そういう意識が自然と働いている感じ。

意志でそうしているんじゃない。

いわば、そういう境地に居る。自覚はないけどそうなっている。

・・なので、私たちにとって、全くの当たり前。 

それに驚く外国人はそういうのが当たり前じゃない、・・ということだ。

日本人の秀でた特質とは、

自他一体である境地 それなのかもしれない。

努力してそうなったというより、

日本語という言葉の力はかなり多いと感じる私だ。

「日本人の脳には主語はいらない」という月本洋さんの本を読んだことがあるけど、

それも凄く面白かった。




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