攻撃→抵抗→攻撃→抵抗→・・・の循環にあるとき、
攻撃→無抵抗 となったら、この次→何が生まれるか?
無抵抗 のわかりやすいいい例だと思うのは、
ここで何度も書いた井の頭公園の露出狂のエピソードだ。(ブログ11/2 )
白昼の性器出し男は私から抗議も蔑視も無視もされずに、
ただ見られていた。
そうしたら、すぐにズボンを上げて、去っていった。
自分から積極的に次の行為へと移った。
命令も意見も忠告も注意も警報も訓告も非難も批判も裁判も要らなかった。
・・すると悪循環から抜け出せる。
そういう対応ばっかりになると良い循環になる。
この世に白昼性器出し男は存在しなくなる。
相手から謂われも無いのに攻撃を受けた時、
どんな場合でも、どんな行為もそうだけど、瞬時の対応というのは、
境地からの行為だ。
殴られて、瞬時に殴り返すのも考えてやってるわけじゃない。
謂わば衝動だ。抑制のきかない行為だ。
その時の心の在りよう・心の状態がそのまま出る。
悪いことしていないのに殴られるのは絶対おかしい、
相手が悪い、
悪いやつはぶん殴って当然・・そんなのがあるのかな。
なんで??と思って、
瞬時に(このひとに以前何か悪いことしたかな?)なんてのが浮かぶかも。
やられたらやりかえすのは当然・・それがある人もいるかも。
そんなのが無いと、ただ呆然とするかな・・
びっくり仰天という感じかな。
この井の頭公園での私の例では、
白昼に性器を出すのは良くないことだ という見方もないし、
そもそも白昼に大人が人前で性器を出す という事を、
見たことも聞いたこともなかったんだと思う。
若い私はその事がどういうことなのか、全く意味がわからなかった。
だから、そんなふうに対応するしか出来なかった。
けれど、今、その意味がわかる。
それをわかっている自分が瞬時に無抵抗という対応が出来るようになるのは、
どうしてなんだろう・・・
どういう心理のプロセスでなるんだろうか・・・
やはりそれは、人の行為はどんな行為でも愛を表わしているということを、
心底わかっているということなんじゃないかと思う。
非難などされるものは一つも無いということが心底わかっているという、
存在に“なる”ということなのかと思う。
攻撃→無抵抗 となったら、この次→何が生まれるか?
無抵抗 のわかりやすいいい例だと思うのは、
ここで何度も書いた井の頭公園の露出狂のエピソードだ。(ブログ11/2 )
白昼の性器出し男は私から抗議も蔑視も無視もされずに、
ただ見られていた。
そうしたら、すぐにズボンを上げて、去っていった。
自分から積極的に次の行為へと移った。
命令も意見も忠告も注意も警報も訓告も非難も批判も裁判も要らなかった。
・・すると悪循環から抜け出せる。
そういう対応ばっかりになると良い循環になる。
この世に白昼性器出し男は存在しなくなる。
相手から謂われも無いのに攻撃を受けた時、
どんな場合でも、どんな行為もそうだけど、瞬時の対応というのは、
境地からの行為だ。
殴られて、瞬時に殴り返すのも考えてやってるわけじゃない。
謂わば衝動だ。抑制のきかない行為だ。
その時の心の在りよう・心の状態がそのまま出る。
悪いことしていないのに殴られるのは絶対おかしい、
相手が悪い、
悪いやつはぶん殴って当然・・そんなのがあるのかな。
なんで??と思って、
瞬時に(このひとに以前何か悪いことしたかな?)なんてのが浮かぶかも。
やられたらやりかえすのは当然・・それがある人もいるかも。
そんなのが無いと、ただ呆然とするかな・・
びっくり仰天という感じかな。
この井の頭公園での私の例では、
白昼に性器を出すのは良くないことだ という見方もないし、
そもそも白昼に大人が人前で性器を出す という事を、
見たことも聞いたこともなかったんだと思う。
若い私はその事がどういうことなのか、全く意味がわからなかった。
だから、そんなふうに対応するしか出来なかった。
けれど、今、その意味がわかる。
それをわかっている自分が瞬時に無抵抗という対応が出来るようになるのは、
どうしてなんだろう・・・
どういう心理のプロセスでなるんだろうか・・・
やはりそれは、人の行為はどんな行為でも愛を表わしているということを、
心底わかっているということなんじゃないかと思う。
非難などされるものは一つも無いということが心底わかっているという、
存在に“なる”ということなのかと思う。