ムカデとことこ

 ひとが幸福になること・意識の成りたち・物理と心理を繋ぐ道
       ・・そんなこと探りたい

意味

2012-03-22 11:21:06 | ひとの幸福
小さな子供は聞く言葉に意味がない。

周りの大人がその言動にどういう内容を含ませているかを観察している。

人は真似をすることで成長する。

咲いている花を「むし」だとずっと親が言い続けていたら、

それを聞いた子供は世間では花と呼ばれているものを「むし」と認識するのだろう。

名詞の単語はこんなふうに、

割りと間違いなく言葉とその意味が多くの人が共通だろうけど、

大人が名詞だけではないことを話しているのを、

言葉を憶えている真っ最中の子供が聞いた場合、

それらの大人の口から出る言葉全体と、

それを言う時の大人のニュアンス、顔つき、目つき、口ぶり、手や身体の動きなんかを

よく見ているのだろう。

怒りやイライラという感情を含んだ「何しているの」という言葉を何度も何度も聞いて育った子供は、

全く違う人から「何しているの?」と単に尋ねられただけの場合にも、

「怒られているんじゃないか」と震え上がる可能性は大きいんじゃないかと思う。

人づくりなんていう言葉があるけど、

周りの大人が自分のする一つ一つの言動に、もっともっと自覚的になることが

結果的に正常な人をつくることになるんじゃないかな。

小さな子供が不安なく楽しく幸福に生きる大人になる為に。

そしてそう育った子供は大人になって、

なんの努力もなく、生まれた子供に自然に接するだけで、

子供は正常な幸福な人に成るのは当然だろうなぁ。

よい循環だ。

不動心 ②

2012-03-20 16:05:25 | ひとの幸福
昨日こう書いた。

相対性の中に在る自分なのだと知っているもう一人の自分が在ること。

覚醒してる心。

それが「不動心」という言葉の意味する内容なんじゃないかな。

動き続けている自分の心と常に共にいて、

だから、動いているけど、動いてないという感じのもの。


この「不動心」とは 観察する心 なんだろうか。

以前に書いたけど、アダム・スミスの「道徳感情論」にこういう文章があるという。

「観察力とは『人間の内部にいる者』で、

そのおかげで、自分の感情を外部から観察するように見ることができる。

自分の行為を検討しようとするとき、

わたしは自分を二人の人間に分ける。

検討し判断する『わたし』は、

行為を検討され判断される者としての『わたし』とは別人格である。

前者は観察者、後者は実行者で、

こちらは『自分自身』と呼んでいいだろう。・・」以上。


検討し判断する『わたし』これをアダム・スミスは観察者と云っている。

『わたし』という実行者の行為を、

もう一人の『わたし』という観察者が検討し、判断する・・

行為をどう検討し判断するのか・・といえば・・

検討し、判断するには何かの物差しが要る。

それがないと検討出来ない。判断できない。

それが理、真理なのかと思う。

理、真理 とはどういうものなのか・・・

真理って湯川博士の文章にこうあった。

「真理というものは日本も外国も、地球の外でも、

どんな宇宙のすみずみまでも貫徹するところの真理を探究しているのである。」

私は平たく、

いつでもどこでも誰にでもどんな場合にでも当てはまるもの、

例外の無いもの・・って解釈してる。

それは「絶対」

「絶対」は比較・対立を絶していることだし。

それはかなり正確な物差しになる。

この一番上に書いたけど、

相対性の中に在る自分なのだと知っている・・・(下手糞な表現だけど)、

相対性の中に在る自分なのだと知っているのは、

絶対の自分 しかいない。



二つで一つ

2012-03-20 10:49:45 | 言葉
富士山は不二山。

「不二」の意味は二つと無いこと。二つに見えて実は一つのこと。

植物は動物が吐いた二酸化炭素を吸って生きている。

動物は植物が発している酸素を吸って生きている。

植物が地球になかったら動物は生きられない。

動物も同じ。植物あっての動物。植物と動物で一つ。

片方だけで存在する事は出来ない。

男と女も。地球上にいるのが男だけだったら、

世界はすぐに滅びる。女も同じ。

男と女で一つ。

利口と馬鹿もそう。

利口だけだったら、既にそれは利口といえない。利口は存在出来ない。

馬鹿ばっかりだったら、馬鹿とはいえない。馬鹿は存在出来ない。

馬鹿と利口で一つ。

地球上に美女ばかりだったら、そのうちの誰でもが既に美女じゃない。

ブスがいなければ美女は存在出来ない。

美女とブスで一つ。

のっぽとチビ。人格者と非人格者。賢者と愚者。

右翼と左翼。(最近はあまり聞かないね~ いい兆候なのかもしれない・・?)

前も書いたけど、富士山は霊山だといい、

それが不二山だなんて、日本語という国語は強烈に面白い。

不動心

2012-03-19 11:31:43 | ひとの幸福
物が豊かになる喜び という心の豊かさ は、

物が乏しくなると悲しむ・苦しむという心になる場合もある。

相手の態度次第で嬉しかったり腹が立ったりするのも、

それと同じような心理と思う。

そんなふうに物の多寡や人の態度によって左右されない心が、

本当の心の豊かさ、って云えるのかと思ったりもする。

聞いたことがある「不動心」という言葉が言ってるのもそういう奴かな。

不動心って境地を表わしている言葉と思う。存在の状態。

この不動心って、感情が無いこととは全然違うと思う。

震災で家族を亡くし、家も流され、仕事も失って、

すっかり変わってしまった風景に平気で居られるわけがない。

そういう悲しみ、辛さを否定してるんじゃない。

いっぱいいっぱい悲しみ、苦しんでも、

そのことを、周りの現象で右往左往している今の自分なのだ、

と観ているもう一人の自分が在ること。

相対性の中に在る自分なのだと知っているもう一人の自分が在ること。

覚醒してる心。

それが「不動心」という言葉の意味する内容なんじゃないかな。

動き続けている自分の心と常に共にいて、

だから、動いているけど、動いてないという感じのもの。

GOD・YHWE

2012-03-19 11:24:58 | 言葉
聖書の大文字の「GOD」とはヘブライ語で、YHWE というような文字で、

それはヤハウエーとか発音し、

その意味は「すべてのものに私はなる」ということだと、

聖書研究をしてる人に聞いたことがある。

そういう意味のものが英語で何故「GOD」になったのか、

その辺の事は勉強不足でわからないんだけれども。

まぁ、でも、そうだとして・・考えると・・

「すべてのものに私はなる」=「神」であるなら、

その言葉の中の一部である「私」という文字だけが「神」というわけじゃないと思う。

(すべてのものに私はなる)という“状態”が「神」であるということと思う。

その状態とはやはり 目に見えないものの状態 と言っていいと思う。

目に見える姿という物理的状態ではないだろう。

神がどういうものがわからなけど、目に見えるものじゃないのではないかと思う。

人は人であって「神」ではないし、

物理的に花は花だし、蝶は蝶だし、虫は虫で「神」ではない。

AさんはAさんであって「神」ではない。

目に見えない世界で、全てのものは神というような存在・・・

・・というような意味合いなんだろうか。

「神」とは すべてのものは私で在る・・・

・・という目に見えない現象・・なんだろうか。

全てのものに神が宿るという日本的な考えと似てるね~


そして聖書には大文字の「GOD」と明らかに異なる小文字の「god」があるという。

ある宗派はそれはイエス・キリストだという見解をもって、

それが絶対に正しいとしてるようだけど、

キリスト一人じゃないんじゃないかと思う。

それは(あなた・すべて・・のものはわたし)というような、

人間の境地のことなんじゃないのかなぁ。

そういう心の状態そのものをそういうんじゃないかと思う。

ひとの身になって考えるとか、他人事と思えないとか、

対岸の火事はここの火事とか、(そんな言葉ないか)

谷垣さんが野田さんの心を自分の心であるかのように感じるとか、

他人のことが自分のことのように思えるとか、

同感ではなく、“共感”という境地・状態・世界。

そんな言葉もそういうことを表わすのかなと思う。

聖書にかかれて在ることが絶対正しいなんて思ってないけど、

実に興味深い。


風刺小話?

2012-03-18 15:47:52 | ひとの幸福
何処かに飛び込まなくちゃならないような状況の時に、

アメリカ人なら何と声かけるとすぐに飛び込むか、

日本人なら何と声かけたら飛び込むか、

イギリス人なら、イタリア人なら、中国人なら、フランス人なら、ドイツ人なら、

・・というような小話がある。

アメリカ人なら、「飛び込めばあなたはヒーロー!!」

日本人なら、「ほら、みんな飛びましたよ」

他のは今、正確に思い出せないから書けないけど、

みんな思い当たる節があってすごく面白かった。

笑ってしまうけど、そういう傾向があるとわかるから笑っちゃうんだろうな。


これをどう観るかだ。

以前は日本人のそれになんか恥ずかしいような感覚を持った。

みんながやればやるのか・・

よくないことでも、みんながやればやるのか・・・

一人じゃ出来ないのか・・・

付和雷同・・じゃないか・・

そんな感じだった。

けど、今はなんだか変わってきた。


アメリカ人の「あなたはヒーロー」なんてのは、

その人の自尊心をくすぐる言葉なんだろうと思う。

アメリカ人は自己顕示欲が強いのかもしれない。

それに比べると、日本人は、

自分一人目立つより、みんなと一緒がいいのかもしれないし、

みんな というのを無意識のうちに意識してるともいえる。

たった一人だったら寂しい、というのは自然な感情だと思う。

悲しみも苦しみも自分一人じゃないと思えるのは、

本当に力になるし、それによって前を向ける。

さっきの例で、飛び込むことが本当によい結果になることなら、

みんながするなら私も私も・・という感じになって、

どこの国よりその事が一気に進むという現象になるんじゃないかと思う。

燎原の火のように。


お出かけ

2012-03-18 14:55:23 | 日々の暮らし・思い出
昨日近くの友人とバスツアーに参加した。

あいにくの雨・・と言えるかというとそうでもなく、

バスが現地についてからは全部自由時間だったんだけど、

観光地のような場所にはどこへも行かず、

お店に入ってランチ食べて、その後喫茶店に入りずっとお喋り。

こんなことならもっと近場でしてもよかったと思ったけど、

彼女はとにかくお出かけが大好きみたいでそれもよし。

いろんなシガラミや、やるべき観、そういうのはおかしい観、

これはこうに決まってるでしょ観、

・・そんなのが多いように見えるし、いろんな悩みがあるみたいだけど、

彼女はそういうことに頓着しないように見える。

そう思うのがいけないとか、そういうことはいけないんじゃないかとか、

・・そんなものが一切無いように見える。

自分について一切の抑圧がないように見える。

私はそういうやるべき観や、決まってるでしょ観が

なんとも愛すべき可笑しなものだと思えて、げらげら笑ってしまう。

けど、彼女と付き合って、いつの日もこういう私じゃなかった。

私とはまるで違う人生観、人間観、世界観を持っているその人を、

否定して観てしまって、不愉快な気分を味わったこともある。

自分の中からいろんな価値観についての否定がなくなると、

本当に楽になるばかり。

真似

2012-03-18 11:13:13 | 言葉
まね というのを 真似 と書くのも面白い。

真に似る。

日本人は真似が得意だと揶揄されることがあるけど、

真似 というのは

そう成るように、成るように、とすることで、

なかなか凄いことなのかと思う。

自分というか、自我というか、それが強いとなかなか難しい。

西洋は個を尊ぶ風潮が日本より強いせいか、

真似するなんてプライドが許さない、

・・みたいな感覚が日本よりあるのかもしれない。

それで日本人の真似上手という特性を揶揄することになるのかもしれない。


日本人はそういうプライドより、

それが良い物、よい事、なら真似て、

多くの人に益を齎したいという思いの方が強いのかもしれない。

そういう思いが強いので、技術的な能力もグンと引き出されるんだろう。

技術的な能力自体は民族によってそれほどの違いは無いように思う。


皆にとって良いことなら、

なんと思われようとやってしまうという意欲は素晴らしいものだと思う。


プライドは自分ひとりの満足心だけど、

良い真似はみんなの満足を生む。


湯川秀樹の言葉

2012-03-17 16:50:24 | ひとの幸福
常に自己の相対性を反省しつつ、

一歩一歩絶対的な真理に近づこうとする努力の中にこそ、

科学の本質が見出される。

・・・「常識と非常識」より。

この世の中に不合理と思われることが

たくさんあるのは否定できない事実である。

しかし、そういうものが存在していることにはそれぞれ理由があるであろう。

理由があるということはそれが正当化されることと同じではない。

しかし、正当化されると否とにかかわらず、

ある事柄がこの世に起こる理由を知ろうとするのが知性の働きである。

そういう働きを通じて知性が成長してゆくことも改めて言うまでもないだろう。

理論物理学の目標とするところは

自然現象の奥にある合理性の発見である。

人間世界の出来事に対しても一見きわめて不合理と思われる事柄の奥に、

人間存在の仕方のある必然性を洞察するところに

知性を含めた人間精神の創造的活動があるのであろう。

人間の感情、情緒が直接に幸福に繋がっている。

知性がまだ気づかずにいる潜在意識の働きが

そこではしばしば決定的な意味を用いるのである。

・・・以上「知性と創造と幸福」より抜粋。

うーん。深く納得。

湯川秀樹「目に見えないもの」から

2012-03-17 13:33:52 | ひとの幸福
・・・我々は始終自分の心の働きを自分で観察しているのである、

そして他人に対する外面的観察を、

自分の心の働きに対する反省で裏付けることに寄って

他人の心の中を忖度しているのである。

そればかりではない。

人間以外の動物の行動の観察からして人と似た心の働きを想像しさえもするのである。

我々が生物を「生きている」と認める事自身、

一つの生命のほかの生命に対する共感を意味しているのかもしれない。

いずれにしても物質の問題が錯雑した迷路に入り込んで

途方にくれようとする行き詰まりから、

自ら精神の世界が開けて来るのである。

それはもはや狭い意味における物理学の世界ではない。

主として心理学によって研究されるべき領域である。

そこには精神現象自身の正確な表現、

それを支配する法則の発見が問題となるであろう。

しかし、心理学的世界は決してそれ自身完結したものでなく、

物理的な現象が始終、外的なもの、偶然的なものとして影響を及ぼしている事は明らかである。

・・・これは湯川秀樹の「自然科学」『物質から精神へ』の抜粋で・・・・ 

その後の「科学の根源」の中では、

このようにして、物理学的な世界はそれだけで完結したものではなく、

その彼方に心理学的な世界を認めざるを得ないのである。

否それどころではない。

反対に我々に身近なのは却って心理学的な世界であると考えられる。

外界の物質という如きものは別に考える必要はない。

ただ我々に意識された表象があるだけである。

・・・・・科学的な知識といえども忠実に表現すれば、

「私がある知覚をした」というべきで、

「ある物理的な量がある一定の値をとった」といってはならないのかもしれない。

物質も結局精神の中にあるといえるかもしれない。

・・・抜粋以上。

理論物理学のわからない文章・数式は全然わからないけど、

こんなふうな文章なら私にも幾らかはわかるような感じがある。

この他にも湯川秀樹の文章には光るものがたくさんある。

彼流に言うと、「光るものがある」とは言ってはならないのかもしれない。

「私が光るものがあると知覚した」というべきであった。

「神はサイコロを振らない」

2012-03-17 11:54:12 | 量子力学と心
「神はサイコロを振らない」

・・量子力学の不確定性原理に、アインシュタインが反論したときに言った言葉らしい。

不確定性原理とは、「粒子の運動量と位置は、

同時に正確には測ることができない」ということで、

それは元々決まっておらず、

確率によってしか、わからないと考える人が多かったんだけど、

アインシュタインは決まってはいるけど、

人間にはわからないだけだ、と考えたらしい。

たとえ今は発見されていなくても、

自然界の物理には明確な法則があるはずだ という考えを、

アインシュタインは「神はサイコロを振らない」という言葉で表現したらしい。


神と言ってるけど、自然とか生命を彼はそう言ってるのかと思う。

それとも自然を創ったのは神だとしているのかもしれない。

どっちでもいいんだけど。

太陽や月や地球の動きや物や動物や植物やいろんな物理的物事が、

そのように起こるのは確率ナンタラ%で起こる、ということである・・なんて、

素人ながら、私も違うんじゃないかな~と思う。

確率で太陽や地球や物が動いているとは思えない。

同じように人間の意識も自然のものであり、

人工的に作られているものではないので、

その時そのように意識が働くのは確率で決まるなんて考えられない。

意識を観察する、というのをして来て、

やはり、そこには法則のようなものがある、と私は思っている。

60年前、DNAのらせん構造を解明してノーベル賞を取ったクリック博士が

焦点を合わせていたのは『人間の意識の解明』だったという。





自然現象 と 人工

2012-03-17 10:59:54 | 量子力学と心
以下は同じく湯川博士の「目に見えないもの 2」 1947・9より

「凡ゆる自然現象を原子電子などの相互作用の結果と解釈します。」

とあった。

この前書いたけど宇宙物理学者の須藤靖さんの本にもあった。

自然の法則とは相互作用って。

凡ゆる自然現象・・・・凡ての自然現象の中には人間現象も含まれると思うけど、

それは完全に自然な自然現象じゃなくて、

不自然な自然現象と言ってもいいのかもしれない。

人間自体、自然のものだと思う。

人体の基である精子や卵子は人工的に作れるものではないし、

一人一人異なる豊かな微妙な一瞬一瞬移り行く意識など人工的に創れるわけがない。

「自然」の反対のように受け取られる「人工」という言葉があるけど、

これは人間そのもののことを云っているんじゃない。

「人工」とは人手を加えることであり、人力で作り出すこと。

人間のその手で作り出される対象の物、事を人工という言葉を使うのであって、

人体、意識のことを人工というわけじゃない。

人間という存在は自然が生んだもの。


あらゆる自然現象が原子電子などの相互作用の結果というなら、

人間界現象も相互作用の結果と言える。

人間の相互作用は意識によって起こるのは明らかだ。

・・と考えて来ると、

湯川博士の云っていることから、推測すると、

「意識は原子電子」と言ってることになるね~

やっぱりね~



義父の診察

2012-03-16 21:08:08 | 日々の暮らし・思い出
義父の退院後の2回目の診察があった。

最近は又読書にも関心が向くようになっていて、

言動も動作もおかしな事がなかったので、多分大丈夫と思っていたけど、

少し不安があったし、それが杞憂だったらいいね、なんて夫と話していた。

また、脳のCTを撮ってもらった。

血の量が前回より減っているそうで、多分このままいけるでしょう。

・・という診断だった。

よかった。

義父もこの結果を聞いて、安心したようだった。

退院しても、ずっと晩酌はしていなかった。

飲みますかと聞いたら、Yes(^^)という返事。

ちょうど一ヶ月ぶりの飲酒。

快気祝いと言って、私はビールで乾杯した。

久しぶりのビール。

なんだろう、あまり美味しいって感じなかった。

飲んだのに美味しいって感じられないのは勿体無い気がするよ。

次に飲む時はどんな感じがするのかな。


母の一言

2012-03-16 20:07:54 | 日々の暮らし・思い出
独身の頃、母と一緒に歩いている時に、

「今、私が妊娠したらどうする?」と聞いたことがある。

母はそれを聞いて、前を向いたまま、私を見ることもなく、

「そんなふうに育てた憶えはない」という一言を放った。

それ以上何も言わなかった。

私はそれを聞いて、多分「ふーん」と言ったんだろうと思う。

私もそれ以上何も言わなかったと思う。

実際そんなふうに育てられたか、ということはわからないけれど、

その言葉を聞いて、そんなふうにならないようにしよう と強く思った。

それが悪いこととは思ってなかったけど。

その頃は世の中がそういうことに対して今みたいな風潮ではなかったし、

アンタ、なんでそんなこと聞くのか?とか、妊娠してるのか?

・・とか言ってオロオロすることもなく、

不届き千万!なんたること!!でもなく、

そんなことするんじゃないと意見するとかも一切なかった。

でも、私はそう思ったのだった。

真理

2012-03-16 11:10:32 | 言葉
真理というものは日本も外国も、地球の外でも、

どんな宇宙のすみずみまでも貫徹するところの真理を探究しているのである。

なにびとであろうと見つけ出した真理が正しいものであれば

必ずそれは世界全体から正しく評価されるに違いないのである。

以上、湯川博士の

「回顧と展開」

「非局所場理論へ」1950・8 より抜粋です。

以下は同じ湯川博士の「科学と希望について」1946・6より

「どこまでも真理を探究したいと思うばかりである。・・

科学の目的 ① 永遠にして普遍な真理を見出すことである。

      ② 得られた成果を有効に活用して、
      
        社会、国家乃至人類全体の福祉の前進に貢献することである。」


・・・物理学でノーベル賞をとった湯川博士にこういう文章があったなんて、

以前は知らなかった。