酔眼独語 

時事問題を中心に、政治、経済、文化、スポーツ、環境問題など今日的なテーマについて語る。
 

人材が払底する日本プロ野球界

2008-10-10 05:34:10 | Weblog
 王貞治と清原和博が相次いでグラウンドを去った。去りゆく者に賛辞を送り、涙する日本の風習と美徳? が遺憾なく発揮された報道だった。「死んだ奴はみんな良い奴」だ。


 それはともかく、日本のプロ野球に人がいなくなった。とくに、監督がいない。引退した王にしたところで、名監督だったとは思えない。長嶋茂雄、星野仙一なども、監督としての基礎的能力であるマネジメント力は皆無に等しい。


 現役の監督で、一応及第点を付けられるのは野村と落合ぐらいのものだろう。原は論外、高田も日ハムで「失格」の烙印を押されたはずだが…。岡田、梨田、大矢、渡辺と並べても、○○野球などというイメージは浮かんでこない。


 もっとも、「監督が野球をする」などという発想は、日本独特のものかもしれない。メジャーを眺めてみると、監督の仕事は、良い選手を育てる(引っ張ってくる)、彼らが気持ちよくプレーできるように環境を整えることにあるようだ。


 彼らはマイナーでマネジメントや人身掌握術を学び、メジャーに這い上がってくる。ここが日本とは決定的に違うところだ。日本の監督は人気優先である。スター選手以外は、まず監督にはなれない。逆に言えば、チームの看板選手なら能力に関係なく監督就任が待っているということである。


 名選手必ずしも名監督ならず。言い古された言葉だが、「必ずしも」というより、名選手は監督には向いていない。野村や落合、古くは川上、彼らが例外なのだ。


 川上、野村、落合は選手として大成したが、順風満帆だったわけではない。挫折を努力が上回って頂点にたどり着いた連中だ。だから人を使うことができる。長島や中西は、バッティング・コーチとしては手腕があるかもしれない。でも、全く監督には向いていない。



 選ぶほうが悪いのだ。人気にすがって監督にしておきながら、成績が悪いと首を切る。この定見のなさにはあきれるばかりだ。サッカーみたいにライセンス制を採り入れろとは言わないが、監督育成について球界全体で考えなくてはいけない。スター頼みの「スター」そのものが払底している。


 ソフトバンクは王の後継に秋山を選んだ。いまのシステムでは彼ぐらいしか思い浮かばないのだろう。近い将来の監督候補としては野村謙二郎、立浪和義、与田剛らが浮かぶが、いきなり監督では苦しいだろう。前田智徳や工藤公康は監督には不向きだ。多くの球団を渡り歩いている工藤の場合、どこのユニフォームを着るかという問題もある。


 生え抜きやOB重視の風潮を変えていかないと、監督らしい監督は育ってこない。WBCの総監督に王を引っ張り出すような醜態を演じていては、球界は衰退する一方だ。
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