コロナ禍にモヨロの民を思ひをり自然とともに生きて生かされ
(オホーツク文化はどうして滅んだのかしら・・)
1877年6月18日、大森貝塚を発見・発掘したアメリカの動物学者、E.S.モース博士が来日した。
6月20日、モース博士が汽車で横浜から新橋へ向かう途中に貝殻が堆積しているのを発見し、まもなく発掘調査が行われた。
これが日本で初めての科学的な発掘調査で、日本の考古学の出発点となった。
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網走市にあるモヨロ貝塚のご紹介をします。
モヨロ貝塚はオホーツク文化のの代表的遺跡である。
網走川河口左岸(北岸)にあり、標高5メートルの砂丘台地にオホーツク海のそばに立地する。
国の史跡にに指定されている(指定名称は最寄貝塚)。
日本の縄文時代晩期に並行する時期から住居が作られ、続縄文時代が続いた。
さらにオホーツク文化に変わっても集落が営まれた。住居は竪穴式で、死者は貝塚に埋葬された。
オホーツク文化の大型住居には、海獣、ヒグマなどの骨が丁寧に並べられていた。
貝塚からは屈葬された人骨が多数見つかった。
多数出土した物には骨角器、土器、石器があり、また本州で制作されたとみられる鉄の刀や鉾、大陸から持ち込まれたとみられる青銅の鈴などがあった。
土器や骨角器にはクジラ・イルカ、クマの彫刻が見られる。
牙で熊など動物をかたどった像があり、中には優れた造形の牙製女性像もある。
道具類の比重から海獣の狩猟に重点があったと推測されている。
本貝塚名は、当時のアイヌ人がモヨロ・コタンと呼んでいたことから、大正7年に米村喜男衛によって付けられた。
モヨロはアイヌ語で「入江の内、あるいは所」という意味。
大正2年に網走を訪れた青森県のアマチュア考古学研究者米村喜男衛が発見し、学界に報告した。
発見した土器から縄文文化ともアイヌ文化とも異なる文化の存在を知った米村は、網走に住むことを決めて米村理髪店を開業し、傍らで遺跡の調査と研究に携わった。
大正時代には、この遺跡の文化が北方的な独特のものであるということ以上はわからなかった。
昭和8年に、オホーツク海の南沿岸に広がるオホーツク沿岸文化が、同時代の北海道の文化と別個のものとみなされるようになった。今日いうオホーツク文化である。
昭和16年・昭和17年、海軍施設建設のため遺跡の一部が破壊され、緊急発掘を受けた。
100体を超える人骨と多量の土器、石器、骨角器、金属器などが出土した。
史跡指定時28軒確認されていた住居址は、このため現在には約20に減った。
戦後、昭和22年から昭和26年にかけて大規模な調査が実施された。
平成期はじめの発掘で約80基ほどの墓が密集して発見され、また大麦はじめ多くの栽培植物の種子が見つかっている。
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発掘した米村翁は小柄なお爺ちゃんで奥さん共々理髪店をされていました。
小学校の側に今もある郷土博物館などどれも思い出深いです。