夕焼に亡夫恋ふ母や恩給日
ゆうやけにつまこふははやおんきゅうび
父の忌にポンポンダリア供えけり
ちちのきにぽんぽんだりあそなえけり
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父の戦争体験談はそう頻繁に話してくれることはありませんでしたが、亡くなる4年前には話をしてくれました。
体験談:父は昭和16年3月1日、21歳で旭川の第四部隊に入隊した。
旭川には9ケ月滞在し、その年の12月4日小樽に移動、昭和17年6月27日北千島に出発、7月2日北千島幌筵島(ほろむしろとう)柏原に到着。
幌筵島は北海道千島群占守群(しむしゅぐん)にあり、駐在所・郵便局もあったようです。
幌筵島は元来アイヌ民族の居住地であった。
18世紀以降南下したロシアの支配下に入ったが、1877年樺太・千島の交換条約で日本が領有権を獲得、北洋漁業の基地となった。
父が上陸した時はまだ女工さんもたくさんいたそうですが、その後日本に帰されたようです。
幌筵島は周囲98里の細長い島で、柏原には師団司令部ができ、そこの警備と飛行場作りが主な任務だったようです。
そこでの4年2ケ月は過酷だったそうです。
任地に赴いた年の冬には兵舎間の移動は吹雪で死ぬ人が続出し、翌年は兵舎間に壕を掘り、壕の上に丸太を被せ壕での移動になったそうです。
また食料も僅かで本土から持って行った玄米と乾燥野菜でなんとか飢えをしのいでいたそうです。
春になると山菜が採れましたが毒草で死ぬ人もいたので、ネズミが食べないものは決して食べないようにしていたそうです。
因みに魚は脚気になるからということで食べなかったようです。
カムチャッカ半島とと幌筵島の間には占守島というなだらかな島があり、ソ連との戦いで双方の犠牲者は1万人ほどになったとか。
昭和21年9月1日樺太に移動、10日から長くてひと月あちこちを転々と逃げ回り、12月14日帰国。
それにしても今年94歳の父、七十年前の記憶がすらすら出てくるのには脱帽!
2014.7.10記
父はその後98歳まであと少しというところで力尽き、平成30年(2018年)8月4日が忌日となりました。
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父はタバコは嫌いで入隊中もタバコは飲まなかったようです、酒はそこそこでした。
晩年もビール350cc缶を母と半分にして飲むことが多かったようです。
母が懐かし気に話をしております。
コーヒー好きな父でしたから、入院してからもコーヒーゼリーを好んで食べていたようです。
私達が子供の頃の父は優しかったように思います。
母と喧嘩をすることがあってもそれを子供たちに当たったりはしませんでした。
私の下には3人の弟がおりましたので、何かと子供らの心配をしていたように思います。
私の高校受験の時にはそーっと子供部屋を覗きに来ていました。
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父の人生にはやはり戦争が大きくのしかかって居たのではと思います。
今もウクライナで戦争が起きていますが、プーチンは北方の警備も重要視しているようで、何かと恐怖を覚える昨今です、地球の守護神である龍神様に世界平和をお祈りいたしましょう!