美徳との教えを受けて負相撲
びとくとのおしえをうけてまけずもう
少年の幼さ残る白虎隊城見る山は悲劇の山に
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明治元年8月23日、戊辰戦争時の会津藩で白虎隊が自刃したことを受けて、追悼の意とその事実を後世に語り継ぐために制定された記念日(新暦1868年10月8日)。
戊辰戦争時、会津藩では軍を年齢により、白虎 朱雀 青龍 玄武の4つの班に編成しておりました。
その中でも白虎隊は最年少となる16歳〜17歳の少年たちで構成されておりました。
後に越後戦争 会津戦争と呼ばれる死闘を繰り広げていた中での明治元年8月23日、飯盛山にいた白虎隊は、自陣となる若松城近辺に火の手が上がったのを目撃。
この火の手を、若松城が落城してしまった…と誤って捉えてしまい、20人の隊員全員がその場で自刃する最期となりました…。
旧暦8月22日、白虎士中二番隊は戸ノ口原に出撃、翌23日の早朝四時頃、副隊長格の教導、篠田儀三郎の指揮の下で戦ったが敗走、飯盛山に至り、城に戻り戦うか、敵の側面を付いて反撃するか等の議論の末、敵に生け捕られることを避けるべく一同は自刃を決意した。
貞吉も、皆に遅れじと咽喉に脇差を突き立てたが死にきれずにいた。
彼を救出し、介抱したのは微禄の会津藩士・印出新蔵の妻ハツと言われている。
ハツには貞吉と同じ年頃の息子がおり、その子が鉄砲を持って家を出たまま帰らないので、心配して飯盛山に捜しに来たところ、まだ息のある貞吉を見つけたという。
その後、新政府軍に捕らわれ、見込みがあるとして長州藩士の楢崎頼三に引き取られる。
頼三は彼を連れて帰り、庄屋高見家に預けて庇護したが、会津方にも長州方にも養育していることが知られると不都合が生じるため、飯沼の母に生存のみを知らせ、自らの家族や知人以外には存在を秘匿した。
当初飯沼は何度か自殺を思い立ったが、ある日頼三に生き直すよう説き伏せられ、勉学に励むようになったという。
その後、貞吉は貞雄と改名し電信技師となり、同年10月5日には現山口県下関市へ赴任。
その後、国内各地での勤務を経て、工部省が逓信省に変わった時には新潟に勤務。
日清戦争では、大本営付となり技術部総督(階級は陸軍歩兵大尉)として出征した。
札幌郵便局工務課長となり、明治43年に仙台逓信管理局工務部長に就任、日本の電信電話の発展に貢献した。
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飯沼貞吉の生存によって、白虎隊の少年たちの悲劇として語り継がれることになりました。
生き残った一人の人生を顧みるとまた別の感慨も生まれてきます。
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母の施設のコロナも終息しましたと連絡がありました。
ですが、北海道は相変わらず増加傾向にあります。