新型コロナが日本に上陸してから2カ月近くなる。
当初は、日本の外の話、また一部の人までで、手洗いなどをしていれば大丈夫だろうと思っていた。
しかし、潜伏期間が長くてすでに海外の旅行者と共に入り込んでいた。
全く未知のウィルス。対処が全く分からない。
これが豚や鳥などの家畜ならば、殺処分という事で感染を食い止めてきた。
しかし、人間ではそんなことは出来ない。
そうした中に、いち早く情報を察知して、人の出入りを制限して対処した台湾がクローズアップされた。
日本には入り込まなかったウィルスでの経験からであった。
しかし、世界では、人の出入りを止めることは、経済活動を止める事で、それでは大変な事になると、人の流れを止めなかった。
そして、世界中で感染爆発が起こっている。
そうした中に、日本は感染爆発が遅れている。
世界で感染者が出るよりも早くに感染者が出たのに、爆発に至っていない事にこれまた世界が驚いている。
とても不思議であると。
そうした中に、世界の様子またウィルスに対する情報を軽く見た人々によって、首都圏で感染爆発が起ころうとしている。
以前に、こうした未知のウィルスなどが蔓延することは、親神様の残念の現れと書いた。
人間の知恵力ではどうしようもない事。これが親神様・自然の力である。
これの治め方は何か。
誠真実である。
我が身どうなってもという、誠の心に親神様はお働き下さり、世界の上には新しい知恵を授けて下さる。
そして、収束を迎える。
この我が身どうなってもという心は、人のためにという事がこの言葉の前にある。
医薬に従事する人が、懸命に我が身どうなってもと、研究し、亡くなろうとする人に尽くしている。
素晴らしい事である。
反対に、自分は大丈夫だとおごり高ぶっていると、自分のみならず、人までも危険にさらす。
これがこうしたウィルスの働きである。
今、外出を制限されて、我慢の限界という人もあるかもしれない。しかし、
戦争中には、もっと我慢を強いられるはずである。
また、
戦争は相手があり、そこには恨みや憎しみが残る。その恨みや憎しみはいずれまた仕返しとして争いを起こすことになる。これでは、いつまでたっても争いは収まらない。、
けれども、これがウィルスでは文句のつけようはない。人を恨むことは出来ないはずである。
これまでも、隣人を愛せとか、恨みや憎しみを捨てようなどと、色々な宗教で説かれてきている。
けれども、人々はそんな話に耳を傾けることはない。
食べ物が豊かに与えられる人に、物を大切にしましょうと言っても、こんなにたくさんあるのに、そんなことを言う事はおかしいと言うのと同じである。
そうした人は、物が与えられなくなって、初めて物の大切さを知る。
人間は助け合って生きていくものである。助け合わなければ生きられないのである。
それなのに、争っている。
お金は、本来は人と人とを物の代わりにつなぐものである。それが、お金によって人と人は争い、妬み恨みを募らせている。
どれだけお金があっても、食べ物を売ってくれなければ得られないのである。
ましてや、どれだけ食べ物があっても、食べれる体がなければ、食べられないのである。
この4月にははえでのおつとめがつとめられる。今年は4月16日につとめられる。
はえでのおつとめは、農家の人々が十分に物を取れるようにと、穀物の芽が十分に出るようにとのお願いづとめである。
そのあとに、肥のさづけ、虫払いのおつとめ、雨ごい、雨預けのおつとめなどを教えて、農家の人々が高い肥料や農薬などを使わなくても、誠真実の心があれば、豊作にしてやろうとされたのである。
先日、このコロナが中国でひと段落下というニュースと共に、虫が大発生して農作物が大打撃を受けているニュースを見て、上記の事を思い出したのである。
もう一つ思う事がる。
それは、親神様はこうした惨事が起こる前に、先に書いた「おふでさき」や「おさしづ」によって知らされている。
あまりにも、こうした惨事は親神様の残念の現れという事に焦点を当てすぎて、この事について思案されていないように思う。
どういうことかと言えば、この「おふでさき」「おさしづ」を当時見ることが出来た人というのは、本部に近い人だけであるという事である。
今でいうならば、このお道の話を知っている人という事になる。
色々な不思議な御守護を見ても、親神様が望まれることは、人間離れした、これまでの人間には考えたこともない事をばかりであった。常識として考えることが出来る人ほど、不思議は知っていても、親神様の言葉は理解できなかった。
だから、その通りにやろうという人はほんのわずかであり、ましてやそんなことは出まかせだと、反対攻撃をした人が多かったのである。
そうした中に、予言をして、それがその通りになることで、親神様の存在を示した。そして言葉に沿う事を求められたのである。
ここが、うちの者に何よりも大切な事だと思う。
「どんなことも天の帳面につけてある。余れば返す。足らねばもらう。」この言葉はお道の者は皆聞いている話である。
全てはそれぞれの徳いっぱいである。どんな立場の者であっても、徳を使い果たして、借金をするようになれば、自然ととられることとなる。反対に徳が付いてくれば、自然と与えられてくる。という話である。
「竜頭狂えば皆狂う」これもそうである。
上に立つものの判断はとても重要であり、それがちょっと狂うだけで、そのあとに続く者たち大勢を狂わすことになるのである。だから、上に立つものほど、狂わぬ判断が出来ねば、大罪を犯すことにもなる。と教えられる。
親神様が求められているのは、誠真実である。
その反対は、うそとついしょう、おべっかである。
先に、この新型コロナでの事を戦争に例えて、恨む人はないと書いたが、もし、収束してもこの原因について、うそなどを言い、人に責任を擦り付けるようなことがあれば、それこそ大変な事になるのではないかと心配をする。
どうぞ、親神様、大難を小難にお納めくださいませ。