今日は、教祖ご誕生祭である。
教祖おめでとうございます。
昨夜から雨、なんだか教祖の涙のように感じて、これを書いています。
どうか、残念のお心が晴れますように!!
さて、昨日ははえでづとめに出かけた事を書いた。
今日は、そのはえでづとめに関係して、「先人の遺した教話3」から、思う事を書いてみたい。
はえでづとめというよりも、肥のさづけなどなど、農事に関するおさづけである。
というのも、今新型コロナで、経済が停まって、倒産するとか、破産するとか、また保証金が、援助金がと騒がれている。
お金よりももっと大事なもの、それは食であろう。この食があってこそ、今の経済がある。
経済は約束でもある。借金もこれが治まるまで待ってくれと言い。それが了承されれば、全く問題ない話のはずである。
そして、借金を待ってもらえるかどうかは、その人の信用。その信用がないがために、保証金としてお金を取り立てたりするはずである。
さて、教祖の残念が晴れるように、親神様の思惑を記したい。(画像をまっすぐにする方法が分かって、気分が良い。また、張り付けた画像が、チャンと治まっている。前回は治まらなかったのに。。。(^^)
肥のさづけは、百姓(農業する人)を助けたい。という思いで、親神様は出されたという事である。田んぼで米を作るためには、たくさんの肥料が必要になる。
田植えをする前に、肥をやり、土を肥やし、そして、ある程度してから、追加の肥を撒くのである。
この肥を仕入れるためには、お金がかかるのである。今では化学肥料から有機肥料へと転換されて、「有機」という文字を沢山見るのであるが、教祖の時代、化学肥料はまだなかった。その代わりに肥溜めに、糞尿をためて肥に使っていた。この糞尿も肥米として米を渡して人々から集めて使っていたという事である。
親神様は、まずこの肥のさづけで、そのお金のかかる肥を少なくしてやりたい。親神様の不思議を見せたいと思われたのである。この肥のさづけも、その人の心によって、半肥のさづけ、丸肥のさづけと分けて渡された。
肥のさづけについては、「稿本天理教教祖伝」p47に
元治元年の春から、教祖は、熱心に信心する人々に、扇のさづけを渡された。これを頂いた者は、5,60人あったが、山中忠七と仲田佐右衛門は、それぞれ扇、御幣、肥まるきりのさづけを頂いた。
とある。
また、「稿本 天理教教祖伝 逸話編」には、
12【肥のさづけ】
教祖は、山中忠七に、
「神の道について来るには、百姓すれば十分に肥も置き難くかろう。」
とて、忠七に、肥のさづけをお渡し下され、
「肥のさづけと言うても、何も法が効くのやない。めんめんの心の誠真実がきくのやで。」
と、お諭しになり、
「嘘か真か、試してみなされ。」
と、仰せになった。
忠七は、早速、二枚の田で、一方は十分に肥料を置き、他方は肥のさづけの肥だけをして、その結果を待つ事にした。
やがて八月が過ぎ九月も終りとなった。肥料を置いた田は、青々と稲穂が茂って、十分、秋の稔りの豊かさを思わしめた。が、これに反して、肥のさづけの肥だけの田の方は、稲穂の背が低く、色も何んだか少々赤味を帯びて、元気がないように見えた。
忠七は、「やっぱりさづけよりは、肥料の方が効くようだ。」と、疑わざるを得なかった。
ところが、秋の収穫時になってみると、肥料をした方の田の稲穂には、虫が付いたり空穂があったりしているのに反し、さづけの方の田の稲穂は、背こそ少々低く思われたが、虫穂や空穂は少しもなく、結局実収の上からみれば、確かに、前者よりもすぐれていることが発見された。
とある。
この肥のさづけで、人々はより集い、豊作になって陽気になれると親神様は望まれたのである。
そうした集まった人々の心を澄ませて、その中から、真実の人を見定めて、国の本尊となる人を作り上げたい。と望まれた。
今の私たちは、こうした親神様の親心の上に、今日の豊かな暮らしがある事をしっかりと自覚する事が大切だと思う。
どれだけのお金があっても、買うものがなければ、なんともならないのである。
そして、どれだけ食べる物が山ほど枕元に積んであっても、食べれる体がなければ何ともならないのである。
政治では、法律があるから、法律を改正しなければ出来ないと、言っている。
ルールを決めても、それを守る心がなければ何ともならないのである。
法が大切か。人間の心が大切か。
天理教の人ならば、皆知っているはずの言葉がある。「稿本 天理教教祖伝」p320
さあさあ、月日がありてこの世界あり、世界ありてそれぞれあり、それぞれありて身の内あり、身の内ありて律あり、律ありても心定めが第一やで。
これは、世界の成り立ちの順序を示されている。
この月日とは、親神様の事である。そして、身の内とは、人間の身体、また人間である。律とは、法律である。
つまり、親神様があって、人間がすむ世界がある。世界があって、人間がある。人間があるから法律がある。けれども、法律があっても、人間それぞれの心定めが一番大事な事だと言われている。
これは、警察から親神様が望まれるおつとめを止められて、それに対して法律があるから、おつとめは出来ません。と初代真柱様が教祖に述べられた時のお言葉である。
親神様は、人々の心定め、心の誠を見ておられる。この心の誠を出せるように、心を切り替えていきましょう。
親神様、教祖、どうぞ、大難は小難にとお守りください。