名城公園の桜の花が、今日の日差しでほぼ満開になりつつある。
名城公園の内の道路は、11時から朝の8時までは駐車が許されている。
夕方、通ると通常のようにたくさんの車が停まっていた。
しかし、園内は通常よりも少ない人が、散歩を楽しんでいる。
例年の出店も出店しているが、夕方早々に片付け始めていた。
儲けにはならないだろうなぁ。と思いつつ、通過した。
そして、栄を抜けて、大教会へと向かった。
栄の町も人通りは少ないが、それでも結構な人が歩いていた。
マスクをしている人がほとんどだが、していない人もある。
そうした中に、警備員をして人を見かけた、女性だが、マスクをしていなかった。
アルバイトのような感じだった。
現在まだマスクはなかなか買えない。テレビで、布で作るマスクを紹介していたのを思い出し、
マスクを買えず、作れない人もあるだろうなぁ。そうした人は、心配をしながら働いているのだろうなぁ。
と思いつつ走った。
昨日は、このコロナの事から自分自身が新たに気付いた事を書いたが、この騒動から様々な業界の裏側がどんどんさらけ出されているようにも思う。
このコロナの騒動が始まる前、11月末におぢばに団参をした。
そこで、初めておぢばへ帰った方に不思議を見せて頂いた。
このブログに書いたかなぁ。
半月板を損傷されていて、足が痛い中、おぢばがえりをされた方で、私が少しお話をさせて頂いて、おさづけをさせて頂いたところ、それから痛みが無くなった。と喜んで頂いたのである。
後日その話を、誘った人から聞いて、親神様・教祖は常に見て下さっているから、おさづけをさせて頂きましょうと、信者さん方に話をしていた。
そうした中に、このコロナの騒動が始まったのである。
そして、先に書いた、おふでさきのコレラの話を、信者さん方に話をして、ともかく些細な事でもおさづけを、そして、自分の出来る事を、と話をしてきた。
これまでにも、医者にも見放された人々は、神様にすがるしかなく、そして誠の心で願い、助かってきた人が多くある。
これが事実である。
けれども、こうした話を信じない人もいる。
形は同じでも、心によって現れることが違ってくる。これに気が付けばと思う。
けれども、中々、自分の心さえ分からないから、分からない。
どれだけ言い訳しても、うそは、うそとして神様は受け取られる。
出来ないけれども、何とかと思いする中には、真実がある。
出来なければ、出来ないという事は素直である。それはウソにはならない。
心から努力して、出来ずに謝れば、そこにはウソはない。
人は真実を見て、助けてくれる。けれども、これに味をしめて、努力せずに謝るようになれば、それはウソツキとなり、人は見放すようになる。
また、うそをついて、そのうそをかくすために、さらにうそをつくことにもなる。
おふでさきに
いまゝでハとのよなうそもきいていた
もふこれからハうそハきかんで (12-111)
これからハうそをゆうたらそのものが
うそになるのもこれがしよちか (12-112)
月日にハうそとついしよこれきらい
このさきなるわ月日しりぞく (12-113)
とある。
これは、言われた事を、その時はハイと言いつつも、やらずにその言い訳をした時に、親神様は、はじめは見逃して下さっているが、これは親神様にうそを言ったことになり、最後には「うそをいったらその者がウソになる。これを知っているのか。」といわれて、(月日とは親神様の事で)親神様は「うそとついしょう」これは嫌いである。と言われている。(ついしょうとは、追従と書き、おべっかである。)そして、そうした先には、親神が退くといわれる。
私たちの身体は自分の力で生きているように感じているが、この体自体が、親神様の働きがあって動き、生きていくことが出来るのである。自分で意識しなくても自然と、けがが治る。これはまさに親神様、自然の力があってこそなのである。
この働きが退くということは、死を意味する事となる。
だから、そうなる前に、心を切り替えよ。自分で生きていると思い込んで、自分中心の考えから、もっと周囲の事を見れる心に切り替えよ。人の痛みが分かる人になれ。悟れ。と様々なメッセージを投げかけている。
この教えを知っている者の心も、知らぬ者の心もすべて平等に親神様は受け取っておられる。
感じたことを大切に、一日一日頑張ろう。と思う。
親神様、大難を小難にとお導き下さいませ。