先の記事で、「今がこの世の始まりと」と書いて、出展が気になって記憶をたどった。
今がこの世のはじまりと いうていながらなんのことやら
と頭に浮かぶ。
この口調は、「おふでさき」かなぁとおふでさきを検索してみたら、あった!
いまゝでも今がこのよのはじまりと
ゆうてあれどもなんの事やら (7-35)
「今が」の前に「いままでも」があって、なかなか探すのに苦労した。
さて、
このお歌について、おふでさき注釈を書いてみる。
35、36 今までからも、今がこの世の初まりと、度々説いてはいるが、人間は、それが何の事やら分からずにいたけれども、このたび現れた親神の自由自在の働きを見て、その意味をよく悟れ。銘々の心の入れ替えによって、どんな自由も得られるというこの珍しい守護を今までだれも知らなかったであろう。
註 今がこのよのはじまりとは、親神様がこのだめの教えによって、一列人間の心身の更生に着手下さる事を仰せられたのである。
とある。
この天理教という教えが、この世にあらわされたのは、これまでの様々な宗教、医学、哲学などなどの教えを踏まえて、人々の心の入れ替えを示唆する教えだということなのであるが、それは時がたって、歴代の真柱様方が教えをまとめて、ようやくわかってきたことである。
この教祖の時代に、すでにこの世は始まっていて、現在われわれ人間は生活をしているのに、「今がこの世のはじまり」と言われること事態、人間には理解しずらい事と思う。だから、「ゆうてあれどもなんのことやら」と言われることも理解できると思う。
教祖は、このおふでさきを書かれるまでにも、「今がこの世の始り」と言っておられたことが、「今までも」の言葉から分かる。
そうした中に、
このたびのぢうよぢざいでとくしんせ
いまゝでこんな事ハしろまい (7-36)
月日よりたいないよりも入こんで
ぢうよぢざいをみなしてみせる (7-37)
こらほどのぢうよぢざいのしんぢつを
はなしするのハいまはじめやで (7-38)
と、
親神様の不思議な働きを目の当たりにさせて、理解はできなくても、得心をせよ。何とか得心をさせたい。とわれわれ人間に求められている。
「心の入れ替え」。これが、これから人間がしなければならないことである。
何度も書くが、こうした思いを親神様は思われて、段取りをされても、人々は聞き入れず、甘露台も完成することができず、模様替えとなった。
よく、この教えは「拝み信心ではない」と言われる人がある。
それは、「おがみきとうでいくでなし 伺い立てていくでなけれど」というおふでさきを引用して、言われる。まさしく、親神様が願う誠真実を受け取ってくだされば、どんな不思議もあらわして下さる。けれども、そこまでの誠真実が出せる人々はそうそうない。
そうした中に、誠真実を出せる人におさづけを渡し、教祖の代わりに不思議を見せて、「拝み信心を求める」人々を集められた。これがこれまでのお道の歩みだと思う。
この歩みがあって、今の姿がある。
時間がないので、またの機会に書こうと思う。
親神様、大難は小難にお守りくださいませ。