鳥海山近郷夜話

最近、ちっとも登らなくなった鳥海山。そこでの出来事、出会った人々について書き残しておこうと思います。

今はない道、これからも通ることはできない道

2020年12月14日 | 鳥海山

 いよいよ毎日灰色の空を見上げる季節が来ました。昔、伊奈かっぺいのテープにありました。

 「東北にも虹がでるんですか?」

 「虹くらい出ますよ。」

 「へ~、でも白黒でしょ。」

 こんな日は青空の写真を見てみましょう。

(自分のファイルにちょうどよい写真がなかったので写真はすべてプロのYさんよりお借りしました。)

 今は通行禁止となってしまった行者岳から新山へ向かう道です。この内壁のどこかに役行者の像があります。

 ここまで来ると山頂は間近でウキウキとして来るものでした。でも晴れていればですけれど。

 ある人は暗くなってからこの道をガスの中歩き、そのうちに全く視界ゼロで自分のいる場所がわからなくなりビバークしたそうです。翌朝目が覚めてひょいと目の前を観ると山頂小屋のすぐそば、あまりの恥ずかしさに顔見知りのいっぱいいる山頂小屋に顔を出さずに下山したそうです。

 ガスに巻かれたことのない方にはわからないでしょうけれど、本当に視界がゼロというのは自分のすぐ目の前が見えなくなるのです。自分の右手の先さえ見えない、そんな状態です。そういうときはどうするか、はい、絶対一歩たりとも動かないことです。月山森の下でそういうことがありました。方向感覚が全くなくなります。幸いそのときは一瞬晴れたので戻ることができました、それに知らない道じゃないということもありましたのでなんとか戻れたのだと思います。眼下に歩道があったって自分の足下さえ見えないのですから。来季鳥海山へ登ろうとする方は覚えておいた方がいいとお思います。

 と、話がガスへ飛んでしまいましたが、

 そうそう、この岩ゴロゴロの場所を歩いたのですね。崩壊したのはこのあたりでしょうか。目の当たりにした人は凄まじいものだったといっています。もう二度と歩けない道です。人が歩かなくなって廃道となった道は鳥海山にはいっぱいありますが崩壊して歩けなくなった道もまたあります。以前載せた七五三掛の旧道もそうですね。いずれも修復は不能です。何というか、好きな道だったんです、この崩壊した二つの道。

 千蛇谷を歩いていても時々カラカラカラと乾いた音がして落石してくることがありますし、千蛇谷の雪渓の上には結構落石がみられます。あんなのが自分にめがけて落ちてきたら、なんて思ってしまいますね。矢島口康新道も場所によっては崩壊しているようです。

 七五三掛の分岐もどんどん上の方へ移動しているようですし、七高山からの道もいつ崩れてもおかしくない道ですからこのままでは噴火がなくても新山までいけなくなるかもしれませんね。

 


itunesにCDを取り込みしようとしたらアルバムタイトルも曲名 表示されなくなってしまった

2020年12月12日 | Jazz

 いきなりです。自主制作盤などはたまにあるんですけど、CDをトレイに入れて取込開始したらアルバムタイトルも曲名 表示されない事態に。ネットはつながっています。??? 普通に流通しているアルバムなのに、と思ってもう一枚、これもだめ。

 検索してやってみましたが?そこで念のため、環境設定を開いてみると、インターネットからCDのトラック名を自動的に取得する、の チェックがなぜか外れておりました。☑で元通り。

 なんとなく聴きたくなったのが、Wyntin Kelly の KELLY BLUE。高円寺のサン・ジェルマン、マスターがよくターンテーブルにのせてくれました。「あなたのお気に入りをかけたよ。」なんて声をかけてくれました。

 

(画像はネコ仙人さんより許可を得て掲載しています。)

 高円寺南口・エトワール通りにあったお店で1982年まで営業していたとのことです。阿佐谷に住んでいたときは毎日のように通っていました。坊主頭のマスターと背の高いお姉さんがいて、ここを訪れたことのある人はみんなその記憶を書いています。

  KELLY BLUE は高円寺のサン・ジェルマンと一体になった思い出のアルバムです。記憶に残るアルバムというのは周りの情景とセットになって残るようです。アルバム単体で周囲の記憶がないものは頭の中にも残らないようです。

 


少しずつ処分、処分

2020年12月11日 | 鳥海山

 泊まりがけで山へ行くこともほぼないだろうと思い、ガスランタンを一個処分することにしました。

 左のものは火屋を外すのもちょっと面倒、点火も自動ではありません。右の大きい方は火屋を外すのも火屋の下の二個のボッチを押すと簡単に外れます。それに自動点火。大きい方が売れるかなと思いオークションに出してみました。火屋も手に入れるのが大変、それに火屋だけで一万円前後で市場に出回っている。ならば手放した方がいいかということで。

 確か二十年くらい前に一万円ほどで購入したと思います。それがなんと、一万六千円以上で売れてしまいました。プリムスのガスランタンは今でも人気があるんですね。

 

 フリマサイトも利用して部屋の中のもう観ないであろうBlu-ray、DVDも処分しています。○○offでは値がつかないようなものがいっぱいありましたが、この一週間でなんと四万円ばかりの売上げ。でも待てよ、ということはこれらの商品だけで元値はン十万。一体今まで道楽にいくらかけてきたのやら。Dio Brando に見つかったら、無駄無駄無駄無駄、無駄ーッと言われますよね。でもそのときは燃えるほどヒートだったんです。

 もうこんな時代は来ないでしょうね。でもまだまだ楽しむぞーっ。

 ランタンを処分したけどスベアの123Rをもう一度手に入れたくなってきた、処分の意味がないじゃないですか。コンロなんかいっぱいあるでしょ、と言われるのは目に見えている、買って隠しておくか、それじゃ意味ないですねえ。物欲、所有欲はやはりまだしばらく続きそうです。


鳥海山破方口

2020年12月07日 | 鳥海山

 破方口について末尾に新たに記しましたので改めて紹介します。

 古絵図にはほとんどの図に破方口が記されていますが文献では現在のところ見受けられるのは下の通りです。ほかにあったとしてもこのいずれかからの孫引きとなります。

和暦

西暦

書名

著者

破方口の記載された文面

文政4年

1821

鳥海山煙気之控

飽海郡誌に記載

破方口と新山之中谷合焼七高山之後矢島道邊焼破

大正十二年

1923

鳥海山登山案内

橋本賢助

先ず七高山の頂から火口原を見下ろせば、新山との間に出来た雪田が分水嶺となって、東北に下るのが破方口、西方即ち左方に降下したのが仙者谷である。

昭和二十八年

1953

鳥海山日記

佐藤康

昨日登った二人が遭難しているとのことだ。遭難場所は、七高山破方口の風石と蛇石の間。

昭和五十九年

1984

鳥海山信仰史

松本良一

三代実録に記されている、貞観十年、貞観十三年の噴火状況、即ち破方口が秋田子吉川流域に溶岩が流れ、これを大蛇と称しているが、

平成九年

1997

鳥海山 自然・歴史・文化

大物忌神社

八方口大神(三十六末社の三十六番目)

 実際に目の前にある破方口を表したのは鳥海山日記が最後です。「七高山破方口の風石と蛇石の間」とあり、七高山の破方口と読めます。なお、蛇石は過去の文献から虫穴のことと思われます。

 文政四年の状況は絵図を見るとわかりやすいと思います。文政四年はすでに新山が出現したのちですが、外輪はそのままです。

 七高山の矢島側、七高山と新山の間で噴火している様子です。文政四年の記事と併せて読むとよくわかります。

 下の写真は新山ができる前の鳥海山の模型ですがそこに破方口を書き込んでみました。

 現在七高山の北峰、ピークと言われているものが破方口(山)であることがわかります。八方口(破方口)大神はその前の前三十四番めに七高山大神がありますので最後の三十六番目の拝所であることがわかります。七高山の北峰にも何神かが祀られているのは現在でもわかります。そうしてみると、やはりそこがは破方口であり、そこに祀られているのは破方口大神に間違いないでしょう。

 では、橋本賢助の鳥海山登山案内にある破方口はどういうことかといえば、google map で見てみましょう。

 最初、「七高山の頂から火口原を見下ろせば、新山との間に出来た雪田が分水嶺となって」というのが何とも理解できなかったのです。分水嶺というと山の尾根を連想します。。しかしここでは七高山と新山の間の雪田、すなわちスノーブリッジを分水嶺とみているのです。航空写真を見るとスノーブリッジを境として谷が二方向に分かれてるのがわかります。破方口というのはこの東北に下る谷であることがわかります。そしてその先端のピークが破方口山、七高山北峰なのは間違いないでしょう。破方口といったから登山道があるわけではなく、そういった地形を称していったのでしょう。また破方口を望むピークも破方口と呼んでいたのだと思います。

 しかしながら現在では破方口という呼称は用いられることもなく、大物忌神社でもは破方口のわかる人はいないようです。矢島側の人々はおそらく今も破方口大神に登拝しているかもしれませんが矢島側には知る人もなく今のところわかりません。ただ、それまでの記録はすべて蕨岡から書かれたものでありますので蕨岡に資料があるかと思ったのですがわかりませんでした。なお、上の本の松本さんは蕨岡のご出身、橋本さんも確か蕨岡の方だったと思います。

 なぜ破方口という名前が使われなくなってしまったのか。おそらく登拝者の激減。周辺の自動車道の開通による観光登山者の増加、彼らは歴史や伝統には一切目を向けませんので何か祠があるなくらいしか興味を持ちません。最近でこそ七高山まで行く人は増えましたが以前は吹浦・象潟口からの登山者は外輪コースで山頂を目指す場合、行者岳から降って新山へ向かいました。その道が崩落により通行禁止となったためやむなく七高山までまわって新山に行くようになったので、それまではわざわざ遠回りする人は少なかったです。航空写真を見てもかなり遠回りなのはわかりますよね。訪れる人がいなくなれば地名も消えてしまうのでしょう。「破方口」という名前復活させてほしいですね。七高山北ピークなんていうよりずっといいです。

 

追記

 秋田の山と三角点 デコヤマさんからのご意見で非常に参考になることがあったので書き足しておきます。デコヤマさんのご意見は次のようなものでした。その中の写真も添えておきます。

「破方口 」は登山道ではなく、新山と七高山の北ピークとの「鞍部付近」の事だと思います。
ちょうど、文珠岳から峰続きの肩が破れる場所で、口の様な状態となっていますね。
その出口(入口)に当たる?を守る?七高山北ピークを神と見立てたのでしょう。
仮に登山道説であれば、現在の康新道あたりの崖地を指すはずですが、
矢島方面のルートには変わりありませんので「 破方道」とはならないはずです。
いずれにしろ、「崩壊地形」を表す言葉です。

 七高山北峰から見れば大きく崩壊した地形です。まさにれたです。七高山北峰を破方口(山)と仮定すればすべての文献の意味がはっきりしてきます。

 鳥海山日記の遭難者のところで「七高山破方口の風石と蛇石の間」を「七高山北峰の風石と虫穴の間」と置き換えれば今の場所のどこに当たるかは自ずと判明すると思います。風石は今のところ不明ですが北峰のどれかを指すのでしょう。

 

※コメントに有りました「斎藤重一著 鳥海山 なんば書房 1997.4」は秋田県立図書館の書架にはありました。なんば書房については情報不明です。


古い絵葉書は見ていて楽しい

2020年12月06日 | 鳥海山

 今日の一枚はおそらく昭和四十年代。鳥海山の種まき爺さんも形が消えかかっているので春も遅い季節です。

 最近、変換がなんか変、「なんかへん」と入力したら「何換へん」、「はる」と入力すると「腫る」などと最初に出てくる。ATOKにしてみようかな。

 鳥海山はその周辺に暮らす人々にとっては自分たちの山、庄内、矢島、象潟みな同じだと思います。観光の山という意識は金に目のくらんだ人だけがも持つものです。本当に、地域活性化のためのものではありません。

 左に見える小さな三角屋根をいただいた塔は焼酎の龍。周囲に独特のにおいが漂っていたのを覚えています。右端が電報電話局、まだNTTにはなっていません。近年まで多くの人がこの建物の中で働いていたのですが、現在ではいったい何人が働いているのやら。中央寄りの黑い瓦屋根も時代を感じさせます。

 それにしても、昭和四十年代はすでに半世紀昔なのですね。ペリー来航から幕府崩壊までの時間をとっくに超えています。

 などとPCに向かっていたら玄関で何かゴソゴソ。駅前の新しいマンションのチラシでした。折込もほぼ毎日、よほど売れないんだあのマンション。駅前にマンション、ホテル、図書館。大体駅利用するのは通学の高校生がほとんど、ホテルもマンションもいらないし、図書館だって交通の便、駐車場利便性悪すぎ。

 駅前の再開発なんて、最初に名乗りを上げた三つの会社、内情を知る人だったら絶対うまくいかないことはわかっていたはずです、なのにお役人とそれに群がる利権あさりの連中でずるずるべったり、で頓挫。その後も推して知るべし。今のも儲かったのはコンサル会社、設計事務所、建設のゼネコンはたいして儲からないでしょう。設計事務所の取り分てすごいですからね。現場で威張るのも半端じゃない。で、その建物は十数年後にはおそらく廃墟。責任は誰もとらない。いつもの通りです。

 

 話が脱線しましたが、探しているけど見つからないもの、昭和三十年代まで最上川を航行していた帆掛け船の写真。夕方のセピア色の風景に帆掛け船が二三艘、厥の景色を今でもはっきり覚えています。

 

 文字入力を途中からATOKに変えてみました。フリーではありません、月間契約でしばらく使ってみようと思います。