鳥海山近郷夜話

最近、ちっとも登らなくなった鳥海山。そこでの出来事、出会った人々について書き残しておこうと思います。

油あげ、厚あげ

2023年07月13日 | 兎糞録

 前に山梨のカツ丼のことを書いたついでに油揚げの呼び方についても触れましたがこの呼び方は庄内地方だけのもののようです。こちらにその記事がありました。日本全国もっとそう呼ぶところがあるかと思いましたがそうではないようです。

 豆腐の形についても子供の頃は豆腐屋さんが売りに来るものでしたがその頃の豆腐の形は正方形。今はほそながいものばかり。古俺も調べてみると面白いです。

 先日見かけた油揚げ。

 形は正方形。その重量なんと、風袋込みで491.7g、値段は税抜き198円。袋には「名称:厚あげ」と書いてあります。商品名は昔ながらの「油あげ」にしたということでしょうか。この辺で袋に「油あげ」と書いてあるのはこれと地元のもう一軒で作ったもの。鶴岡のものは「厚揚げ」と書いてあります。この豆腐、油揚げを一丁、二丁と数えるのも由来があってのことだとか。それはこちらをどうぞ。

 地元の茄子は美味しいので昨日は茄子を使った庄内地方の料理「茄子ごんげ」、これもよその地方では作られていないようです。

 茄子は皮をむいて(むかなくてもよいが)好きな切り方にして炒め、しんなりしたら味噌と砂糖を酒で溶いたものを混ぜて炒めます。最後に大葉を混ぜれば出来上がり。今回は茗荷も一緒に炒めてあります。ご飯にも、酒の肴にも良し。お試しください。


(仮)絵葉書で見る明治大正昭和の蕨岡口登拝道

2023年07月12日 | 鳥海山

 かつては栄えた鳥海山蕨岡口の古い絵葉書が数十枚たまりましたので一度整理してみようと思い、表記のタイトルで小冊子を作ってみようかと思い立ちました。中には蕨岡で直接聞いた話も織り交ぜて書いてみます。出来上がるのはいつのことになるやら、読んでみたいと思う方は、いるでしょうか?

 以前はWordでこういったものは作っていたのですが、今回はAdobeの In Designで挑戦。DTPなんて全く経験が無いのですが何とかやってみましょう。


武者人形と庄内押絵

2023年07月09日 | 兎糞録

 昨日は資料館へ行く前に近い所のあいおい工藤美術館へ。今は武者人形を展示しています。

 左手前、源頼朝。奥右が源義経です。

 武田信玄

 上杉謙信

 直江兼続

 庄内押絵、これは知りませんでした。安宅関ですね。

 これは太田道灌、「七重八重花は咲けども山吹の実の(蓑)ひとつだになきぞ悲しき」とともに山吹の一枝を差し出す場面です。

 これは館長画くところの春の鳥海山。

 丁度同じ時間に来訪した方と館長を交えて話に花が咲き、酒田の今昔様々教えていただきました。

 帰りに求めてきた鵜渡川原人形、泥人形です、の西郷隆盛。庄内の人は訳あって西郷さんが大好きです。鵜渡川原人形の中に一緒にあったのですが家に帰ってからよく見ると、あまり鵜渡川原人形っぽくない。今は作る人もお子さんの所へ引き取られていってしまったとか。この鵜渡川原人形もなくなってしまうかもしれません。


引札

2023年07月08日 | 兎糞録

 引札、江戸時代から大正時代ころの商店広告の石版刷りのビラの事です。資料館が九月で閉館、移転となるために現在所蔵の資料を何回かに分けて展示しています。今日は公開講座があったのでそれを避けて終わった時間を過ぎてから行ってきました。

目にとまったのは引札。(写真撮影はSNSに投稿と届を出した上で行っています。)

 田中伊兵衛さんは今も立派な屋敷があります。醸造はやっていません。うちの親が仲人をした御夫婦だったと思います。

 大きな盃に投げ込まれているのは小判、景気がいいですね。以下続けてどうぞ。

 敷島、大和、朝日、山櫻、STAR、CHERRY  煙草の銘柄が見えます。斎藤伊作商店は近年まで煙草屋さんとしてありました。今は空き地のようです。

 海船問屋、委託売買。なにを取り扱っていたのでしょうか。

 呉服は絹織物の事、それに対し太物は麻や木綿の織糸が絹より太いもの。収入印紙も一緒に売っていたようです。収入印紙も県証紙も使う機会はなくなりました。

 小さな横綱、これも羽後松嶺。旧松山町、現在は酒田市。

 醤油屋さんですね。

 これも松嶺。兎と小間物、清酒、関係なさそうですが。

 この時代の絵柄は好きですね。

 


牧野富太郎と飛島

2023年07月06日 | 鳥海山

 テレビには全く興味が無いので見てはいませんが朝のドラマで話題になっているらしい牧野富太郎。最近も鳥海山での写真が発見され話題になっていましたが飛島にも行っています。

 酒田の沖の飛島は小さい時に漁船に乗って連れていかれ死にそうなほどの船酔い、そばでは漁師のおじさんたちが平気で瓜を食う。島の夜は穴のあいた蚊帳で蚊に血を吸いまくられて痒さでひどい目に、もう行かないぞと思ったまま現在に至る、なのですが。


 昭和六年(一九三一)植物学の大家牧野富太郎博士が来島された。
 博士は、前年八月庄内博物学会に招かれ、鳥海山の植物研究のため、旧制山形高校の安斉徹教授の案内で、酒田を訪れたが、その折飛島の植物分布に大変な興味を示され、渡島の意思をもたれたが、すでに多忙なスヶジュールが組まれていたため、実現できないまま帰られ たようである。
 しかし博士の熱い思いは、翌年飛島の植物分布調査を中心に、一週間の現地講習会も開催 されることになり、しばしば島の植物実査をされた、旧制山高の橋本賢助らと同道して、念願の渡島が実現したのであった。
 黒潮と親潮の接点に位置するこの島は、寒、暖両性の植物に恵まれた特異性があって、学究がひとしく興味をいだくと言われる。調査陣は、島をおおう暖帯的な 物の茂る、エキゾ チックな景観に魅せられ、その日のうちに緑濃い裏山へ登ったょうであった。
 夏の日差しが照りつける七月のこと、一行は谷を渡り、丘を越え、湿地にもぐり、海浜に も足をのばす真剣な踏査であった。(以下略)


 この話は「飛島 うつりかわる人と自然」昭和六十年発行 発行所 本の会 著者 本間又右エ門 より引用しました。

 以前「鳥海山と牧野富太郎」で書きましたが牧野富太郎が鳥海山に登ったのが昭和五年、翌年今度は飛島まで調査にやってきたことがわかります。この時も「鳥海登山案内記」の橋本賢助が同行。別の件でこの本を調べていたのですが思いがけない一章があったので紹介する次第です。尚、この本は既に入手困難と思われますが国立国会図書館デジタルコレクションで閲覧することが出来ます。