久しぶりのブログ更新です。
更新の無い間もたくさんの方にご訪問いただきありがとうございました。
どうしてこんなに続くの!?というぐらい予定がずっと続いて、17日から20日まで4日間、出放しでした。
パチンコなら大当たり!?というところなんでしょうが(笑)、さすがに今日はぐったりして
2時間もお昼寝してしまいました。
下記、出かけた順の記録ですが、私事ばかりで大した話では無いので、
関心の無い方はスルーしてくださいね。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
阪神淡路大震災から25年になる1・17 の日は、早朝5時過ぎに起きてお水とお塩、そして炊きたての玄米炊き込みご飯を祭壇(仏壇は無いので)にお供えして、「龍神のお香」と灯明をつけ、5時半頃から6時ぐらいまでお祈りしました。
午後から「大歳山遺跡公園」に出かけ、淡路島や明石大橋や海に向かってお祈りし、
犠牲になられた方々のご冥福と被災された方々の癒しと安寧を願って「禊の大祓」や「般若心経」を唱えたりしながら小1時間過ごしました。
ここは「明石原人」の発掘で有名なところですが、今は小さな公園になっていて、我が家からは徒歩20分ぐらい。
私は初めて行きましたが、とても景色がよく、五色塚古墳よりもこちらの方が静かで素朴な印象でした。
エネルギー的にはどっちがどうなのかわかりませんが、この時はちょうど誰もいなくてよかったです。
★ 大歳山遺跡公園
場所がとてもわかりにくいところで、途中で出会った人に道を尋ねながら行きましたが、
ネットの写真で見るよりは狭いところです。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
その後、隣の駅までJRに乗り、震災前に住んでいたマンションを訪ねて行きました。
何せ25年も前のことですから、すっかり辺りは変貌し、新しい一戸建ての家が立ち並んでいました。
マンションの大体の住所は覚えていたものの、その辺の地名番地も変わっていて、辿り着くまで
どのぐらい歩いたことでしょうか。。
駅から近い筈なのに、崖や行き止まりや曲がりくねった道や、急な階段、坂道があり、
かなりウロウロしてやっと「ここかな?」と思えるところに行き着きました。
前は管理人さんがおらず、自主管理だったのですが、今は立派な管理人室があり、
新しい駐車場が出来ていて、周辺の緑や以前あった小さなお稲荷さんの祠など全く消えて
面影もありませんでした。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
そして何よりも一番の違いは、毎年海から昇る初日の出を拝んでいた場所も、もうすっかり変貌していて、
辺り一帯の建物に隠れて海が全然見えなかったことです。
これはさすがにちょっとショックでした。
「売りに出ている部屋も多い」と、(昔のことは全く知らない)管理人さんが言っておられましたが、
駅前の不動産屋さんの看板を見ると以前の半額ぐらいの価格で売っているところもありました。
(もしも震災が無く)「ずっとここに住んでいたら。。」(その後の生活は楽だったかも!?)と思っていましたが、
(家賃は多少高くても)今の団地(賃貸)の方が、海も少し見えるし、駅まで歩き易いし、
前のマンションは買って3年。改装したりして愛着があったのですが、一部損壊で震災後すぐに手放してしまったことも、それはそれで間違っていなかったのかもしれない。。と感じました。
帰り道も駅までかなりの距離があり、歩き疲れて、この後「海神社」(垂水)に寄る予定はパスして帰宅。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
18日(土)は「萬葉サロン」で、また早起き。
JR&近鉄を乗り継ぎ、片道2時間ぐらいの距離をはるばる出かけました。
講座が終わって友人とお茶を飲み、夜8時頃帰宅。
夕食を作って食べ始めたら西宮に住む姉から電話。
私よりももっとひどい被害(自宅全壊、商売閉店、仮設住宅を経て20年間「復興住宅」で暮らし、その後規定によりそこを出なければならず、また転居)に遭った姉は、今年初めてテレビの震災関連の報道番組に耳を傾けることが出来たと。。
それまではニュースを見聞するだけでもしんどくて、、今ようやく他の人のことにも目を向けることが出来、
自分以外の人たちももっともっと酷い災難に遭い、特に家族を失った大変な人たちのことを思うと。。
どんなにその人たちは辛かったことかと。。
姉も私も自分自身や家族はみんな無事だったので、それだけも有難いことだったね。。と30分ぐらい話が尽きませんでした。
この震災のあった時期になると、姉も私も何となく体調を崩しがちになるのですが、もう来年からは大丈夫かなという氣がします。
すっかり忘れてしまうことは一生無いとしても、氣持ちの上で「これまでよく頑張って生きて来たなぁ」と、
25年という節目を迎えてほんの少しでも氣が楽になったように感じました。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
さて、19日(日)は田中美津さんの映画『 この星は、私の星じゃない 』を観に大阪へ。。
友人と待ち合わせてランチの後、映画館を探しながらうろうろ歩いていると、
大きな声で私を呼び止める人が!
こんなところで、いったいこの人は誰!?
と思ったら、古い付き合いの、もう長らく会っていない仲間でした。
1998年春?だったか、京都の「ギャラリー ヒルゲート」で一緒に展覧会(三人展)をやった懐かしい絵描き仲間だったのです!
まさか、こんなところで出遇うとは!!
しかももう一人親しい仲間も後から来るというのです。。
立ち話をしていたら、程なくその人がやって来て、またまたびっくりの再会でした。。
その彼女とは45年ぶり以上!?
昔々、「もりもり」という「女の店」(めし屋)があって、大阪の天満橋商店街の外れにあったその
店に、志を同じくする当時最先端を翔けていた!?女たちが集まっていたのです。。
その人はその頃そこで働いていた創立メンバーの一人なのでした。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
つまり私も含めみんな田中美津さんと同じような世代の仲間たちなので、彼女たちも映画を観に来ていたのです。
それにしても、映画館まで別の道を通っていたら(道を間違えなかったら)出遇えてなかったので、
これは偶然というよりも、宇宙の采配による「必然の出会い」!? に思えました。
さあ、それからが大変!
映画が終わってから4人で喫茶店に行き、映画の感想そっちのけで、喋る、しゃべる、シャベル、、
ワクワクし放しでした。。
しかもその二人(待ち合わせていた二人)は、若かりし頃(もう50年以上も昔!)に
何と旅先の「パリ」で!!たまたま出会って友人になったそうで、
その話を聞くだけでも圧倒されてしまいました。
それ以外にもオフレコの田中美津さんの話やら、もう面白いの何のって、、
映画よりも彼女たちの話の方がその時代を感じさせ、臨場感があったぐらいです。。
いや〜、すっかり若返って、歳を忘れて話し込んでしまいましたが、
彼女たち曰く(私もですが)「70過ぎて楽になったわぁ〜」と。
そしてこれからがいよいよ楽しみと言うのです。。
まさに実感です!!!
こんな話が遠慮無く出来る仲間たちと共に「元氣に長生きしてよかった〜」と思いました。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
というわけで、出放しの最後の昨日(20日)です。
昨日は読書会の日で、11時から始まるのですが、朝からお弁当の用意をしていると、
突然の変更の連絡が!
いつもお世話になっている家の(会場を提供してくれている)仲間が急病だそうで、
そこでせっかくなので、中止にせずに別の仲間の家で開催ということになったのです。
仲間の車で自宅まで迎えに来てもらい、もう一人の仲間を迎えに一緒に駅へ。。
ところがその朝JRの架線事故があり、遅れや不通もあって、しばらく待ちぼうけ。
けれども別のルートで何とか来れて、今回の会場を提供してくれた人の家に無事到着。
賢治の物語を読み感想など話しあった後、お昼ご飯タイムを挟んで夕方まで。。
美味しいお味噌汁や手作りのおからのコロッケ、お漬物、、
おぜんざい、みかんやお菓子までいっぱいご馳走になり、
仲間内でも料理上手で知られた彼女なので、本当に手際良く、おまけに蟹!まで出て来て、
(私はカニは食べませんが)みんな大喜びでいただいていました。
私はいつものごとく「萬葉サラダ」(ネーミングはいいのですが!?)を持参しましたが、
誰もあまり手をつけてくれず(汗)。。
黙って持って帰りましたが、もう慣れたのでそんなことに傷つくことも無く、とっても愉しかったです。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
長い話を最後まで読んでくださってありがとうございます。
5日の新年会の折の写真をもう一度載せますね。
この右端の「生春巻き」を作ったのが今回の会場を提供してくださった人です。
この時はその他にも「年金寿司」(年金生活なので、豪華な材料では無く、家にあった有り合わせのもので作ったそうで。。)も持参されていました。。
=============================
白菜の巻いたもの、、? あれは、生春巻き(なまはるまき)です。
中身は豚肉、えび、にんじん、貝割れ菜にしました。チリソースつけていただきます。
ベトナム料理。春巻きの皮は、乾燥したもので、一枚ずつ、水につけて、もどしてから使います。
まとめて、水につけると、巻けなくなるので、一枚ずつ、水につけて巻いていきます。
解説でしたぁ
============================
と後で彼女から(メールで)教えてもらいました。
料理とは結局「愛情」&ユーモアなんだなとつくづく感じました。。
テーブルを囲む笑顔の仲間たちの一番奥(左方)に
(虹色の帽子を冠って)小さくなって座っているのが私です。。
決して拡大して見ないでくださいね。。(笑)
更新の無い間もたくさんの方にご訪問いただきありがとうございました。
どうしてこんなに続くの!?というぐらい予定がずっと続いて、17日から20日まで4日間、出放しでした。
パチンコなら大当たり!?というところなんでしょうが(笑)、さすがに今日はぐったりして
2時間もお昼寝してしまいました。
下記、出かけた順の記録ですが、私事ばかりで大した話では無いので、
関心の無い方はスルーしてくださいね。
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阪神淡路大震災から25年になる1・17 の日は、早朝5時過ぎに起きてお水とお塩、そして炊きたての玄米炊き込みご飯を祭壇(仏壇は無いので)にお供えして、「龍神のお香」と灯明をつけ、5時半頃から6時ぐらいまでお祈りしました。
午後から「大歳山遺跡公園」に出かけ、淡路島や明石大橋や海に向かってお祈りし、
犠牲になられた方々のご冥福と被災された方々の癒しと安寧を願って「禊の大祓」や「般若心経」を唱えたりしながら小1時間過ごしました。
ここは「明石原人」の発掘で有名なところですが、今は小さな公園になっていて、我が家からは徒歩20分ぐらい。
私は初めて行きましたが、とても景色がよく、五色塚古墳よりもこちらの方が静かで素朴な印象でした。
エネルギー的にはどっちがどうなのかわかりませんが、この時はちょうど誰もいなくてよかったです。
★ 大歳山遺跡公園
場所がとてもわかりにくいところで、途中で出会った人に道を尋ねながら行きましたが、
ネットの写真で見るよりは狭いところです。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
その後、隣の駅までJRに乗り、震災前に住んでいたマンションを訪ねて行きました。
何せ25年も前のことですから、すっかり辺りは変貌し、新しい一戸建ての家が立ち並んでいました。
マンションの大体の住所は覚えていたものの、その辺の地名番地も変わっていて、辿り着くまで
どのぐらい歩いたことでしょうか。。
駅から近い筈なのに、崖や行き止まりや曲がりくねった道や、急な階段、坂道があり、
かなりウロウロしてやっと「ここかな?」と思えるところに行き着きました。
前は管理人さんがおらず、自主管理だったのですが、今は立派な管理人室があり、
新しい駐車場が出来ていて、周辺の緑や以前あった小さなお稲荷さんの祠など全く消えて
面影もありませんでした。
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そして何よりも一番の違いは、毎年海から昇る初日の出を拝んでいた場所も、もうすっかり変貌していて、
辺り一帯の建物に隠れて海が全然見えなかったことです。
これはさすがにちょっとショックでした。
「売りに出ている部屋も多い」と、(昔のことは全く知らない)管理人さんが言っておられましたが、
駅前の不動産屋さんの看板を見ると以前の半額ぐらいの価格で売っているところもありました。
(もしも震災が無く)「ずっとここに住んでいたら。。」(その後の生活は楽だったかも!?)と思っていましたが、
(家賃は多少高くても)今の団地(賃貸)の方が、海も少し見えるし、駅まで歩き易いし、
前のマンションは買って3年。改装したりして愛着があったのですが、一部損壊で震災後すぐに手放してしまったことも、それはそれで間違っていなかったのかもしれない。。と感じました。
帰り道も駅までかなりの距離があり、歩き疲れて、この後「海神社」(垂水)に寄る予定はパスして帰宅。
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18日(土)は「萬葉サロン」で、また早起き。
JR&近鉄を乗り継ぎ、片道2時間ぐらいの距離をはるばる出かけました。
講座が終わって友人とお茶を飲み、夜8時頃帰宅。
夕食を作って食べ始めたら西宮に住む姉から電話。
私よりももっとひどい被害(自宅全壊、商売閉店、仮設住宅を経て20年間「復興住宅」で暮らし、その後規定によりそこを出なければならず、また転居)に遭った姉は、今年初めてテレビの震災関連の報道番組に耳を傾けることが出来たと。。
それまではニュースを見聞するだけでもしんどくて、、今ようやく他の人のことにも目を向けることが出来、
自分以外の人たちももっともっと酷い災難に遭い、特に家族を失った大変な人たちのことを思うと。。
どんなにその人たちは辛かったことかと。。
姉も私も自分自身や家族はみんな無事だったので、それだけも有難いことだったね。。と30分ぐらい話が尽きませんでした。
この震災のあった時期になると、姉も私も何となく体調を崩しがちになるのですが、もう来年からは大丈夫かなという氣がします。
すっかり忘れてしまうことは一生無いとしても、氣持ちの上で「これまでよく頑張って生きて来たなぁ」と、
25年という節目を迎えてほんの少しでも氣が楽になったように感じました。
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さて、19日(日)は田中美津さんの映画『 この星は、私の星じゃない 』を観に大阪へ。。
友人と待ち合わせてランチの後、映画館を探しながらうろうろ歩いていると、
大きな声で私を呼び止める人が!
こんなところで、いったいこの人は誰!?
と思ったら、古い付き合いの、もう長らく会っていない仲間でした。
1998年春?だったか、京都の「ギャラリー ヒルゲート」で一緒に展覧会(三人展)をやった懐かしい絵描き仲間だったのです!
まさか、こんなところで出遇うとは!!
しかももう一人親しい仲間も後から来るというのです。。
立ち話をしていたら、程なくその人がやって来て、またまたびっくりの再会でした。。
その彼女とは45年ぶり以上!?
昔々、「もりもり」という「女の店」(めし屋)があって、大阪の天満橋商店街の外れにあったその
店に、志を同じくする当時最先端を翔けていた!?女たちが集まっていたのです。。
その人はその頃そこで働いていた創立メンバーの一人なのでした。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
つまり私も含めみんな田中美津さんと同じような世代の仲間たちなので、彼女たちも映画を観に来ていたのです。
それにしても、映画館まで別の道を通っていたら(道を間違えなかったら)出遇えてなかったので、
これは偶然というよりも、宇宙の采配による「必然の出会い」!? に思えました。
さあ、それからが大変!
映画が終わってから4人で喫茶店に行き、映画の感想そっちのけで、喋る、しゃべる、シャベル、、
ワクワクし放しでした。。
しかもその二人(待ち合わせていた二人)は、若かりし頃(もう50年以上も昔!)に
何と旅先の「パリ」で!!たまたま出会って友人になったそうで、
その話を聞くだけでも圧倒されてしまいました。
それ以外にもオフレコの田中美津さんの話やら、もう面白いの何のって、、
映画よりも彼女たちの話の方がその時代を感じさせ、臨場感があったぐらいです。。
いや〜、すっかり若返って、歳を忘れて話し込んでしまいましたが、
彼女たち曰く(私もですが)「70過ぎて楽になったわぁ〜」と。
そしてこれからがいよいよ楽しみと言うのです。。
まさに実感です!!!
こんな話が遠慮無く出来る仲間たちと共に「元氣に長生きしてよかった〜」と思いました。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
というわけで、出放しの最後の昨日(20日)です。
昨日は読書会の日で、11時から始まるのですが、朝からお弁当の用意をしていると、
突然の変更の連絡が!
いつもお世話になっている家の(会場を提供してくれている)仲間が急病だそうで、
そこでせっかくなので、中止にせずに別の仲間の家で開催ということになったのです。
仲間の車で自宅まで迎えに来てもらい、もう一人の仲間を迎えに一緒に駅へ。。
ところがその朝JRの架線事故があり、遅れや不通もあって、しばらく待ちぼうけ。
けれども別のルートで何とか来れて、今回の会場を提供してくれた人の家に無事到着。
賢治の物語を読み感想など話しあった後、お昼ご飯タイムを挟んで夕方まで。。
美味しいお味噌汁や手作りのおからのコロッケ、お漬物、、
おぜんざい、みかんやお菓子までいっぱいご馳走になり、
仲間内でも料理上手で知られた彼女なので、本当に手際良く、おまけに蟹!まで出て来て、
(私はカニは食べませんが)みんな大喜びでいただいていました。
私はいつものごとく「萬葉サラダ」(ネーミングはいいのですが!?)を持参しましたが、
誰もあまり手をつけてくれず(汗)。。
黙って持って帰りましたが、もう慣れたのでそんなことに傷つくことも無く、とっても愉しかったです。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
長い話を最後まで読んでくださってありがとうございます。
5日の新年会の折の写真をもう一度載せますね。
この右端の「生春巻き」を作ったのが今回の会場を提供してくださった人です。
この時はその他にも「年金寿司」(年金生活なので、豪華な材料では無く、家にあった有り合わせのもので作ったそうで。。)も持参されていました。。
=============================
白菜の巻いたもの、、? あれは、生春巻き(なまはるまき)です。
中身は豚肉、えび、にんじん、貝割れ菜にしました。チリソースつけていただきます。
ベトナム料理。春巻きの皮は、乾燥したもので、一枚ずつ、水につけて、もどしてから使います。
まとめて、水につけると、巻けなくなるので、一枚ずつ、水につけて巻いていきます。
解説でしたぁ
============================
と後で彼女から(メールで)教えてもらいました。
料理とは結局「愛情」&ユーモアなんだなとつくづく感じました。。
テーブルを囲む笑顔の仲間たちの一番奥(左方)に
(虹色の帽子を冠って)小さくなって座っているのが私です。。
決して拡大して見ないでくださいね。。(笑)