たそかれの散策

都会から田舎に移って4年経ち、周りの農地、寺、古代の雰囲気に興味を持つようになり、ランダムに書いてみようかと思う。

困窮者支援施設の安全 <札幌・支援住宅火災 資金難、防火対策進まず>などを読みながら

2018-02-03 | リスクと対応の多様性

180203 困窮者支援施設の安全 <札幌・支援住宅火災 資金難、防火対策進まず>などを読みながら

 

毎日は、事故直後のウェブ情報<火災自立支援施設から出火 9人死亡、2人不明 札幌>の後、21日夕刊記事で<火災支援施設、死者11人 生活困窮16人入居 多数が後期高齢者 札幌>死者11名の惨事を報じ、その後も続報を報道しています。いまなお出火原因が判明していないようですが、これまでの記事から断片的な情報がわかってきましたので、少し考えてみたいと思います。

 

後者の記事で事件の概要が報じられています。

<1月31日午後11時40分ごろ、札幌市東区北17東1にある生活困窮者らの自立支援関連施設「そしあるハイム」から出火し、木造モルタル一部3階建て約400平方メートルが全焼した。北海道警などによると、入居していた16人のうち男性8人、女性3人の計11人が死亡し、男女3人が負傷した。残る2人は逃げて無事だった。入居者は40~80代で、70代後半以上の後期高齢者が多く、足の不自由な人もいたという。>

 

さらに死者・負傷者の様子やスタッフの不在など詳細が続いて報じられています。

<1階の中央付近が激しく燃えており、死亡した11人のうち7人は1階、4人は2階で発見された。

 道警などによると、負傷した3人は男性2人と女性1人で、のどなどにやけどを負って病院に搬送され、いずれも命に別条はない。無事だった入居者らからの聞き取りでは、スタッフは日中に常駐しているが、夜間は不在で、この日も午後5時ごろに帰っていたという。このため出火当時、避難を誘導したり介助したりするスタッフはいなかった。>

 

施設責任者や施設の法的位置付けについては

<「そしあるハイム」は、路上生活者ら身寄りのない生活困窮者や障害者らの生活・就労を支援する施設として、2005年に設立された合同会社「なんもさサポート」(札幌市北区)が運営していた。ただ、福祉関連の法律に基づく施設ではなく、建物の用途は「下宿」として届け出られていた共同住宅だった。>とのこと。

 

入居者の状況については

<入居者16人のうち13人は生活保護受給者で家賃は月額3万6000円。一時入居施設だが、70代後半以上の後期高齢者が中心で介助の必要な人や長年住んでいる人も多かった。

 また、体の一部が不自由な人もおり、スタッフが生活支援も行っていた。>と報じられています。

 

ここに施設の性格が如実に表れているように思います。入居者16人中13人が生活保護受給者で、しかも70代後半以上が中心のうえ、介助の必要な人も多かったというのですから、単なる下宿とはいえませんね。

 

なお、私が経験した事例では、大阪市にあるこの種の住宅に居住している前科のある高齢者が当地や高野山までやってきて窃盗や詐欺、痴漢などさまざまな犯罪を犯す例が少なくなく、犯罪の温床とまでは言いませんが、どうも犯罪者の更生がうまくいっていない様子を感じることがあります。

 

しかし、それに比べると、この施設は次の報道を見ると、近所の人との温かな関係が成立していたようで、いわば自立支援施設として、それなりの活動をしていたのではと感じました。

 

札幌・自立支援住宅火災防犯格子、避難阻む 業過致死傷も視野>の記事

<火災現場には2日、周辺住民や福祉関係者らが花束を手に訪れ、犠牲者の冥福を祈った。

 「とても熱かったろう。さぞ無念だろう」。正午過ぎ、2年ほど前に同住宅を運営する合同会社「なんもさサポート」の別の共同住宅に住んでいた女性(47)が、花束を手向け「『助けにいけなくてごめんね』という気持ちでいっぱいです」と涙をぬぐった。女性は入居者と親交があったといい、安否不明の白府(しらふ)幸光さん(61)について「配膳などを積極的に手伝っていた。雨が降っていると『傘持って行きな』と言ってくれた」と声を詰まらせた。>

 

で、この事件については、出火の原因がまだ解明されていない中、多数の死者がでた要因について、いくつか取りあげられていますので、その点を検討してみたいと思うのです。

 

私は構造上の問題もありますが、やはり上記の入居者の状況で、夕方5時以降スタッフがいないということ自体が問題ではないかと思うのです。入居者全員が元気であっても、16人もいるわけですから、何があるかわかりませんね。下宿の管理についてとくに決まりはないかもしれませんが、到底適切な管理を行っていたとはいえないと思うのです

 

構造上の問題も指摘されています。

上記記事は、見取り図を用いて次のように指摘しています。

 <廊下を挟んで居室が両側に並ぶ「中廊下式」と呼ばれる構造だった。

避難用の非常口は、1階の物置や2階の廊下端にもあったが、1階物置には灯油入りポリタンクが積まれていたうえ、外部へ通じる出入り口のシャッターが下ろされていた。2階の非常口には避難用の階段がないなど事実上、1階の中廊下から玄関を通る経路だけが外への避難経路となっていたという 

  関係者によると、出火場所は最も燃え方が激しい1階の中央廊下付近で、その周辺には入居者が部屋に置いていたストーブの灯油を補給できるよう4~5個のポリタンクが並べられていた。>

 

中廊下式だけであれば、さほど問題はなかったと思うのです。問題は避難用の非常口が1階にはシャッターが下ろされていて、2階には避難用階段がない、しかも唯一の1一階玄関の出口への経路を阻む中央廊下付近にポリタンクを並べていたというのですから、逃げる場所がないですね。各部屋の窓には格子があり、そこからも出られない(高齢者だと元々無理だったかもしれませんが)、八方ふさがりですね。

 

こういう構造であるにもかかわらず、ポリタンクを入居者の便利を考えたのか、中央廊下付近や一階出口付近の物置に置いておくという感覚について、安全性への配慮をまったく欠落していることに驚きを禁じ得ません。

 

なぜここまで火災発生を含め、さまざまな自然災害があった場合の避難方法を考慮できなかったのか不思議です。施設経営者は、困窮者支援の心でやってきたようですが、後期高齢者を中心としている居住者で、介護支援を必要としている人もいるわけですから、あまりに安全性への配慮を欠いていたと言わざるを得ないのではないでしょうか。

 

たしかに高齢者は普通の住宅を借りる場合でも大変です。そういう人のために住居を提供する考えは評価されて良いと思います。しかし、高齢者に貸すのを躊躇する大家は、たいてい火の後始末とかを心配するわけですね。なぜ、ここまで注意を払わないまま管理を係属したのかわかりません。

 

火災警報装置、とりわけスプリンクラーの設置義務をめぐって、当該施設が法的にどのような施設と言えるか毎日記事<クローズアップ2018札幌・支援住宅火災 困窮者救済、法に穴 ホームか宿泊所、市も「?」><クローズアップ2018札幌・支援住宅火災 資金難、防火対策進まず 「下宿」定義あいまい>で詳しく議論されていますが、たしかにスプリンクラーが設置されていれば、ここまで被害が拡大しなかったと考えることはできるでしょう。

 

私自身はスプリンクラーの作動した様子は、映画でしか知りませんので、どの程度すばやく対応するのかしりませんが、ポリタンクを4~5個も並べてそのそばで発火したら、はたして間に合うのかと多少心配します。

 

私自身は、介護施設などとして認定できるようであれば、スプリンクラー設置をさせることに異議はありませんが、まずは施設管理を適切に行うことではないかと思うのです。

 

だいたい、多額の設置費用をかけることで、家賃など利用料を低額に抑えることができるか疑問ですし、そうなれば、こういった施設を利用してきた人は行き所を失うかもしれません。

 

<厚労省は今国会で生活保護法などを改正し、無料低額宿泊所に対する規制を強化する方針。そしあるハイムのような無届け施設に対して届け出を促した上で、24時間スタッフが常駐するなど良質な施設を優遇する考えだ。>といった方向の方がより実効性があがるように思うのです。

 

また<国土交通省は昨年10月、高齢者や低所得者らを受け入れる民間の賃貸住宅の登録制度をスタートさせ、防火対策や家賃軽減のための補助を設けた。3年半で17万5000戸の登録を目指す。【熊谷豪】>もより望ましい方向性かなと思うのです。

 

いつの間にか外は暗くなってきました。新聞記事の内容を整理するつもりが、ただ並べただけ、それも摘まみ食いですので、よくわからないかもしれませんが、その点は記事をみていただき、ご勘弁を。

 

本日はこれにておしまい。また明日。


空海に学ぶ(1) <吉村均著『空海に学ぶ仏教入門』>を教本として少し考えてみる

2018-02-03 | 空海と高野山

180203 空海に学ぶ(1) <吉村均著『空海に学ぶ仏教入門』>を教本として少し考えてみる

 

私は当地にやってきて、高野山の麓であることもあり、高野山開山の空海に関心を抱くようになり、しばらくさまざまな空海に関する一般書や歴史小説など、いろいろと読んできましたが、ほとんど理解の領域を超えていると思いつつも、空海は気になる存在でした。

 

日々、さまざまな情報媒体や経験した中から、適宜選んでこのブログの中で書き連ねてきたのも、はたして自分という自我が存在するのかを問うと作業のようで、空海の言葉に触発された部分も大きいでしょう。

 

まだ皆目見えない暗黒状態ですが、気にしなければそれもよしと思いつつ、なにか案内に役立つ杖でもあれば、使ってみようかと思うこともありました。そんなとき吉村均著『空海に学ぶ仏教入門』は、なにか訴えるものを感じ、まだ読んでいませんが、ぱらぱらとほんの一部を見たとき、これを手がかりで、少し空海が導いた何かに近づいてみようかと思ったのです。

 

さてどのように始めるか考えてみましたが、できれば毎日一回を予定して、読みながら、考えてみようかと思うのです。ま、吉村氏の解説を自分で受け止めつつ、なにか感じることがあれば誤解をおそれず、書くことにしようかと思います。大ざっぱにしか読めそうもありませんが、入門書ということなので、浅い夢でも見る感じで、読んでいこうかと思います。

 

1ページ目から丁寧に読むのが入門者としては心得かもしれませんが、肝心の内容に早速入っていきたいと思います。空海が晩年に完成した十住心を優しく解説していると言うことなので、その一番目からスタートしたいと思います。

 

吉村氏は、苦しみの真の原因を明らかにし、それを解決する方法について、空海がこの『十住心論』、『秘蔵宝鑰』(ひぞうほうやく)(後者は前者の内容を一般向けにわかりやすく解説したもの)により説明していて、それが伝統的な仏教理解だということと説きます。

 

十住心は次の10の分類(段階?)とされていますが、第1から第3は「苦しみを減らしていく段階」、第4から第7は「苦しみを根源から断ち切ろうとする段階、第8,第9は「空を体験した者に現れる世界」、第9,第10は「言葉を超えたさとりの境地が直接示される段階」と4つのステージにまとめています。

 

で、今日は第1を扱います。

 

第1は「異生羝羊心(いしょうていようしん)」とされていますが、まったく意味不明ですね。吉村氏は、「欲望のままに振舞う心」と書いています。これだとわかった気になります。

 

ま、西欧、とりわけアメリカファーストを唱えるような人をイメージしますね。いやいや、日本人もあちらこちらにいそうです。はたまた客観的に見たら、そういう自分も負けていないかもしれません。

 

できるだけ、空海の言葉そのものはちょっと置いておいて、また、仏教論といったことも脇に置いて、できるだけ吉村氏の解説を読みながら進めていきたいと思います。

 

吉村氏は、普通の人について、「私たちの目には、欲しいもの/嫌なものがありありと映り、反射的に、それを手に入れたい/排除したいという気持ちが起こります。」まず認識を通じて欲望の発生を取りあげています。

 

その欲望が生み出すものについて、「私たちは、欲しいものを手に入れること/嫌なものを排除することで、幸せを手に入れ、苦しみをなくすことができると考えていますが、実際にはそうなりません。」この「実際に」までの考えは普通の思考の有り様ではないでしょうか。それを実際は違うというのは具体的な根拠はここでは示されていませんが、次の違う表現で、強く否定しています。

 

吉村氏は私の指摘する疑問について、「それは、自分が捉えたものをリアルに感じる心のメカニズムに問題があるためですが、私たちの多くは、それに気づいていません。」と述べ、心のメカニズムの問題に原因があるとしています。これがおそらく本書を通じて明らかにされるものではないかと、期待しています。

 

吉村氏は、上記の問題の心のメカニズムの結果、欲しい/嫌だという気持ちに引きずられて「悪をなす人」はさまざまな悪行を犯すとするだけでなく、「彼らは一生、欲望の対象を追いかけ続けて、その結果として得られるのは、苦しみだけです。」と断定するのです。

 

ついに、苦しみという結果にたどり着きました。

 

欲望を求めて一所懸命に働いた結果、苦しみに至るというのはブラックユーモアでもなんでもないでしょう。その求めている欲望なりが人が生きるうえで大切なものかが問われているのでしょうか。

 

吉村氏は、空海の有名な言葉を彷彿させるように次のような一生を語ります。

「一生、生活に追われ続け、名声や利益を追いかけ続けても、では何が残るかというと、その労力に比べて、手元に残るものはわずかですし、それすらも、死ぬ時にはすべて手放さなければなりません。私たちの生活は、暗閣の中でさまよっているようなものです。」

 

たしかに、徒然草第38段冒頭の

「名利に使はれて、閑なる暇いとまなく、一生を苦しむるこそ、愚かなれ。」

も多くの日本人が心した気構えではなかったでしょうか。

 

吉村氏は、日常的な言動の問題についても、心のメカニズムの問題として指摘しています。

「私たちはあまりに近視眼的で、自分の眼の前のものがリアルに映っているため、それに反応して、どなったり、腹を立てたり、時によっては殴ったり、殺したりしてしまいます。それによって得られるのは、自分がおこなったことに見合った結果です。」と。

 

ここで吉村氏は、目に映った、心に根ざした欲望や怒りに任せた言動について、他の選択はあり得ないかを問うのです。人間は動物とは異なるのはもちろんですね。

 

「人間には、他の選択もあります。眼の前に欲しいものがあったり、性的に魅力のある異性を見て欲望にかられたとしても、「いや待てよ」と思いとどまることができます。他人の物を盗んだり、望んでいない異性と無理やり性的な関係を結んだら、どうなるだろう、そもそも相手はどう思うか、それを考えることが人間にはできます。その結果がどうなるか、相手はどう思うかなど、より広い視野で自分の行動について考えることができるのです。」

 

人間が相手なら、相手の気持ちに、あるいは社会規範や法律規範からの視点もはいるかもしれませんね。さらには生態系や環境への影響がある場合だと、そういった多様な価値観からのアプローチもできるでしょうね。また時代に応じて、その広い視野は柔軟でないとかえって融通の利かないものになるでしょうね。

 

吉村氏は、仏教からのアプローチで次のように述べています。

「仏教の実践というのは、簡単にいえば、自分の行為をより広い視点から考え、その視点をどんどん広げていくことにあります。状況そのものを変えることは簡単ではありません。しかし、より広い視野で考えることができれば、意外な解決法があるかもしれませんし、少なくとも、今の状況がさほどたいしたものではない、耐え難いほどのものではない、と感じることができるようになります。」

 

苦しまない人はいないと思います。でもその苦しみを回避する、和らげる、あるいは軽減するなど、代替的な手法を考えるだけでも、自分の中で苦しみは絶対的な存在に成長したり、固定したりはしないのではないかと思うのです。私は、脳髄液減少症(現在の医学知見では脳髄液漏出症との公式見解となっていますが)で若い時代から長年にわたって苦痛のどん底にあった柳澤桂子氏の著作から、苦しみは絶対的なものではないことや、それとの接し方の一部を学ばしていただいきましたが、吉村氏を通じて学ぶ空海仏教からも、少しずつ得るものを感じるような予感がします。

 

吉村氏は、違った視点で、やってはいけないこととして「究極の不変な実体というものの想定」を指摘しています。

「仏教では、十悪のひとつに間違った思想(邪見)を数えます。それは、究極の不変な実体というものを想定しては、その前では自分の善悪のおこないが意味を持たないものになってしまうということと、そのような思想自体が、対象をリアルに感じる私たちの捉え方と本質的に変わらないものである、という理由からです。」

ちょっと難しい説明で、まだぴんときていませんが、なんとなくといった感じでしょうか。

 

吉村氏は、さらに空海の言葉を援用しています。

「空海は邪見の代表例として、いいことをやろうとわるいことをやろうと、死ねばすべては終わると考える「断見」(虚無論)と、何をやろうと、人聞は常に人間で、動物は常に動物だと考える「常見」(実在論)を挙げています。」

こちらの方はまだ少しわかったような気になります。どこが違うのでしょう。輪廻をどう見るかと関係するのでしょうか。もう少し読み続けることで、少しは理解が進むかもしれません。

 

今後も吉村氏の言葉と私の理解とを組み合わしながら、私の勝手な空海論に少しは中身のあるものになれればと思っています。

 

なお、このブログを書き出したとき、友人から電話があり、またまた変わった話で長時間盛り上がり、この問題に再びたどり着くのに昼食を経て一休みを要しました。