たそかれの散策

都会から田舎に移って4年経ち、周りの農地、寺、古代の雰囲気に興味を持つようになり、ランダムに書いてみようかと思う。

家庭内・性的虐待 <消えない傷 性的虐待に遭って1~5連載記事>を読みながら

2018-02-25 | 差別<人種、障がい、性差、格差など

180225 家庭内・性的虐待 <消えない傷 性的虐待に遭って1~5連載記事>を読みながら

 

人間の行いというものはわからないものだと思います。善人のような振る舞いをしている人が、組織内部ではパワハラ、あるいはセクハラをしていることもありますね。本人自身がその2重のような人格を自覚していない場合もあるのかもしれません。そういう悪行に抗議したり責任追及する道はいまなお狭い門ですね。アメリカで起こったMeToo運動自体、それを証明しているように思えます。

 

それが社会だ、それが人というものだという割り切り方もあるかもしれません。その悪行によって一生苦しみ地獄のような苦痛から離れられないでいる人に思いを抱けないことに問題があるように思うのです。とりわけ親子間・親族間といった家庭内で起こった場合は極めて深刻ですね。そのことを毎日連載記事<消えない傷 性的虐待に遭って>はかなりの程度リアルに迫っています。

 

少し話しが飛んでしまって申し訳ないですが、この話題を取りあげるのに躊躇しつつ、昨夜録画していた映画『チャイナタウン』を見て、私なりの視点で考えてみようかと思うようになりました。

 

実はこの映画、日本での封切りが75年ということですので、その頃映画館で見たのかもしれません。まったく内容もキャストも覚えていませんでした。ただ、私立探偵が何か水利権をめぐる不正を発見したり、殺人事件の真犯人を追い詰めるとか、サスペンスアクションとして優れた作品だったような記憶でしたので、再び見ることにしたのです。

 

私立探偵役がジャック・ニコルソンで、最近はユニークな老人役ばかりを好演していますが、彼の若々しい、それもしっかりした体格で、ま、やり手の私立探偵、あの作家レイモンド・チャンドラーが生み出したフィリップ・マーロウにぴったり(ハンフリー・ボガートが演じていますがあまり似合わないと思っています)でした。実はこのチャイナタウンもマーロウが活躍する内容だと勘違いしていたのです。

 

ともかく映画の内容をあれこれ書いていると本題に入れませんので、内容は省略して、最後の圧巻こそ、この中身の不条理を見事に表しているように思えました。それはLAで巨大な権力をもつ父親にレイプされ子どもを宿した娘が、その粗暴な父親から、自分と子どもを守るため、隠れ家で子どもを育てていましたが、父に発覚されることになり、さらに私立探偵の協力を得てチャイナタウンに一時避難しましたが、結局、父の一味に捕まりそうになり、逃れようとしたところ、誤って警官に射殺されるという酷い顛末でした。

 

あまりきちんとしたストーリーの説明になっていませんが、要はジョン・ヒューストン演じる父親が傲慢で、暴力的、市の水利権事業を私物化して、砂漠化した土地を安く買取り、その後にダム建設をさせて用水させて高価な土地に化けさせるような事業を行う悪徳業者です。さらに脱線しますが、これは1930年代のLAを舞台にしていますが、この暴力的で、家庭内虐待、場合によっては性的虐待が、いまなお起こっているように思えるのです。

 

それはいまアメリカで起こっている小学校から高校、大学内での銃乱射事件の増大について、トランプ大統領は、教師に銃の訓練をさせて銃を携帯させればいいというのですね。このような暴力的な解決しかないと、少なくとも相当数のアメリカ人が考えていること自体、私には家庭内暴力の温床となっていると思われるのです。むろん飛躍はありますが、言論による解決をという、言論の自由より、銃所持の自由に固執する態度を見る限り、アメリカ人という多くの人に、そのような懸念を感じています。

 

その意味では家庭内の性的虐待や暴力などに対して、アメリカではかなり早い時期から警察を含めて取り組んできたと思います。それくらい家庭内に深刻な問題があり、自分たちだけでは解決できなかったからでしょう。

 

ではわが国はなかったのか。む、これは難しい問題ですが、渡辺京二著『逝きしの世の面影』では、異邦人の目で両親とも子どもをかわいがる姿がリアルに描写されています。たぶん多くはそうだったのだと思います。明治期の西欧化によるストレスや、戦後の経済成長のストレスなどがない時代は、性的虐待はさほどなかったのではないかと思っています。むろん古代から人身売買があったわけですから、とりわけ厳しい経済的条件の下にあった両親の場合子どもを物のように扱った人もいたと思いますが、性的虐待まではあまりなかったのではと推測します。

 

家庭内の性的虐待は、もしかしたら明治時代に提唱された大家族主義、過度に父親の権限を認めた、あるいは勘違いした家制度の誤った理解で増大したのかもしれません。

 

戦前の古い戸籍の中に、複雑な人間模様が記載されていますが、私生児といった言葉も、婚姻できなかった男女の間の子だけでなく、そういった親族間で生まれた子も含まれていたように思うのです。むろんそこに二人の真摯な合意があればそれはそれで、たとえば中大兄皇子が妹と恋仲だったと言われるように、昔からあることですので、私なんかはあまりどうこういうつもりはありません。しかし、通常は、親子や伯父姪といった関係は戦前のわが国では明確な支配服従に近い関係にあったように思われます。その場合は平等な関係での合意が成立しないもので、いかなる性的接触も許容されないでしょう。

 

ところが、すでに家制度がなくなったにもかかわらず、わが国では常に年齢が話題となり、長幼が意識されます。長男次男とか、長女次女とか。伯父と叔父とか。欧米ではファーストネームを呼び、あるいはブラザー、シスターと呼ぶだけで、エルダーをつけないように思います。私が親しくした家族もそうでした。狭い範囲の経験ですが、わが国にはまだ若い人の間にもそのような意識が残っているように思えます。

 

むろん年齢差を意識してもいいですし、性差も意識しても良いですが、それが婚姻し夫婦となった途端、家に嫁いだ「嫁」と呼ばれたり、子どもは自分の稼ぎで育てているといった意識になる人もいます。

 

毎日記事は、詳細に「消えない傷」をどうケアしていくか、その傷をどう癒やしてかいふくさせていくかという点でとても有益な情報を提供しています。私自身、とても参考になりました。それは末尾にタイトルだけ掲げておきますので、参考にしていただければと思うのです。

 

他方で、私が饒舌に一つの見方を書いたのは、その原因をなくすことこそ、予防策こそ、最も有効な方法だと思うからです。それは関係する人ならだれも思っているでしょう。ただ、その方策が見えていないのでしょうか。

 

連載3で指摘しているように、保護者の父らは無意識に(むろんそういう事実を認めない場合が多いと思いますが)性的虐待を行っている場合もあるでしょう。他方で、児童ポルノを含め、いま世の中はポルノを賛美ないし助長するような情報が満ちあふれています。これまた取り締まりが追いつかない状態ですね。

 

学校現場で、早い段階からこの問題を取りあげ、父親などの言動に問題があれば異議を言うことが大事だと言うこと、それこそ子どものけんりであることを学ぶ機会の提供を真剣に考える必要を感じます。この危うい性的誘惑情報が氾濫して、しかも家制度の残滓を抱えた男性がいまなお相当数いる状態を看過できないように思うのです。

 

児童に対する虐待については、保護者に原因があることが多いわけですが、性的虐待については、他の外部に現れる身体的虐待や、経済的虐待、遺棄などはそれなりにわかりやすいのに対し、性的虐待についてはより難しいことが毎日記事でも指摘されています。

 

最も卑劣な行為をしているにもかかわらず、見逃されているおそれが少なくない点に私たちも注意する必要があるのでしょう。

 

今回は連載記事のタイトルだけ上げておきます。

消えない傷性的虐待に遭って 第3章/1 風呂は恐怖の時間

消えない傷 性的虐待に遭って 第3章/2 改正刑法でも「救われない」

消えない傷 性的虐待に遭って 第3章/3 罪の意識ない加害親

消えない傷 性的虐待に遭って 第3章/4 「少し変な話」は大事なサイン

消えない傷 性的虐待に遭って 第3章/5止 回復を後押し、自助グループ

 

とりとめもない話しとなりましたが、この記事の内容自体は重要な情報が含まれていて、一度は読んでおく必要があるように思うのです。

 

本日はこれにておしまい。また明日。