たそかれの散策

都会から田舎に移って4年経ち、周りの農地、寺、古代の雰囲気に興味を持つようになり、ランダムに書いてみようかと思う。

児童虐待とヒアリング手法 <司法面接 試行錯誤 虐待判断、分かれる現場>などを読みながら

2018-02-04 | 家族・親子

180204 児童虐待とヒアリング手法 <司法面接 試行錯誤 虐待判断、分かれる現場>などを読みながら

 

虐待という言葉が紙面を賑わさない日がないような錯覚すら覚えるこの頃です。児童虐待は古くから問題にされてきたかと思います。最近は、困窮者、高齢者、障がい者に対する虐待と対象も広がりつつあるというか、報道で取りあげられる機会が増えたといった方が正確かもしれません。少し異なる局面かもしれませんが、夫婦間のDVも多様で人間の本性の一端かと思ってしまうこともあります。

 

それぞれの虐待について、その定義内容が実体に即したものになり、確立してきたかように思いますが、他方で、その事実を確認する、それにどのように対応するかは、被害を受ける人の類型によって異なる、法令やガイドラインがあります。私自身、それぞれを比較検討したことがありませんが、多くは共通する点があるとは思いつつ、現実の対応は相当違うのかなと考えています。

 

先日、高齢者虐待の研修を受けましたが、そのときに感じたのはこの分野では警察の対応がまだ全国的に確立しているとは言いがたい、地域によって千差万別に近い状態で、行政側は高齢者の立場で割合積極的に動き出したのかなという印象です。

 

家庭内の出来事として隠れていた虐待という問題が法的に違法の烙印を押されたことで、定義も明確になったことから行政側としては動きやすくなってきたのかもしれません。ただ、私のつたない経験では虐待を受けたという高齢者の発言は、成人とはいえ、身体への加害などで客観的な裏付けがあれば別ですが、そうでない虐待類型だと、慎重に対応しないと、家族間の軋轢の中で誤解を生じかねないと思っています。

 

ま、わかったようなわからないような前置きはこのくらいにして、本論の児童虐待に移ります。

 

毎日朝刊記事<司法面接試行錯誤 虐待判断、分かれる現場 児相・警察、男児証言を共に聞き>は、児童虐待に対して、重い腰をあげた警察とこれまで長い経験をもつ児童相談所との間で、新たな手続きをめぐって、齟齬が生じているようです。

 

<大阪市淀川区の自宅で男児(4)にけがをさせたとして義父(33)が傷害容疑で逮捕された事件で、市こども相談センター(児童相談所)や大阪府警が、一時保護された男児から一緒に話を聞いた「司法面接」を巡り、暴力の有無について両者の見解が食い違っている。センターは「あざができた経緯がはっきりしない」と判断、府警は「パパにやられた」との趣旨の証言を得たとしており、被害聴取や対応の難しさが浮き彫りになった。【山田毅、村田拓也】>

 

ある証言があれば、当然一つの事実が解明されると思うのは、人間の認識力というか、問題の状況、質問者・発言者・そして理解し評価する人の属性なりで、まったく見方が異なっても当然というのが普通のあり方ではないかと思います。毎日記事が<虐待判断 分かれる現場>と大きく取りあげていますが、それ自体は不思議なことでないわけです。むろん常にそうなるとは限りませんが、なるだけ一致した認識になるよう今後の検討・工夫・改善が必要であることは確かでしょう。

 

今回の司法面接では、児童相談所と捜査機関との間で、見事に判断が分かれたのですね。

<センターの虐待対応担当者は帰宅の判断について取材に「あざの経緯がはっきりせず、父親も関与を否定している。リスクが高い事案と認識していたが、総合的に判断した」と説明。府警とは面接の内容を別々に記録しているとした上で「虐待を受けていたという趣旨の発言をした記録はない。府警とは見解の相違がある」と話し、対応に問題がなかったとの認識を示している。>

 

ところで今回は「司法面接」という新しい手法が採用されています。

この定義について記事では

<検察、警察、児童相談所が、虐待を受けた児童から繰り返し話を聞くことで事件を再体験させる2次被害を防ぐ目的で、代表者が原則1回の面接で聞き取る方法。厚生労働省と警察庁、最高検が2015年10月に児相、警察、検察が連携を強化するよう通知を出し本格的に行われるようになっている。3機関を代表した1人が行う面接は「協同面接」と呼ばれる。関係者は別室モニターで観察でき通常録音・録画もされる。誘導的な質問は避け、自由に答えられるようにするなど子供の特性や気持ちに配慮することが求められる。記録の取り扱いなど具体的実施方法について明確な取り決めはない。>と解説されています。

 

私はこの制度の根拠や制度の内容自体を知りませんので、この説明が妥当なものか、コメントできません。ただ、3機関といても、検察、警察は捜査目的をもつ同種の機関で、児童福祉の観点を担うのは児童相談所のみですね、ちょっとバランスを欠いている印象をぬぐえません。

 

ついでにこの「司法面接」についての日弁連意見書<子どもの司法面接制度の導入を求める意見書>が2011年に発表されていますので、これを参考に少し問題点を言及してみたいと思います。

 

今回の面接者は検察官です。これが児童のために適切であったかは少し疑問があります。日弁連意見書では、導入を認めた「司法面接」について<一般に,いわゆる「司法面接」(英語でforensic interview)とは,専門的な訓練を受けた面接者が,誘導・暗示に陥りやすい子どもの特性に配慮し,児童虐待等の被害を受けた子ども等に対し,その供述結果を司法手続で利用することを想定して実施する事実確認のための面接をいう。>としています。

 

ま、こういった一般論は、国も承知して、ようやく導入したのでしょう。ただ、問題は司法面接の実施方法です。日弁連意見書では次のように第三者機関、それも児童心理を理解した専門家による面接手法を求めています。そのとおりでしょう。

 

<司法面接は,児童福祉に関する機関や捜査機関も含めたMDTチームが必ず連携してチームを組んで行うべきものである。具体的には,関係機関が虐待等の捜査・調査の端緒を得た場合,MDTチームとして,独立した第三者機関を実施場所として,専門的資格を有する面接者に司法面接の実施を委嘱することが考えられる。>と基本的な組織の確率を求めています。

 

そして重要な面接者については

<司法面接において行われる子どもからの聴取りは,誘導や暗示を排し,子どもの任意の発話を促すものでなければならず,そのための専門的技法を訓練し修得した面接者が行うべきである。

専門性の担保のため,新しい国家資格の創設及び研修の義務化等が検討されるべきであろう。また,司法面接技法のプロトコル(又はガイドライン)を作成するプログラミング等が行われる必要がある。>

 

そんな予算はないとか、児童の心理について通暁している、あるいは児童の捜査(被害者として)経験が豊富な検察官なりがいるから、それで十分と法務省は言うかもしれません。

 

しかし、いくら被害児童の立場を理解している検察官なり捜査官であっても、基本は犯罪摘発を主眼として面接するのに長けていても、その児童の家庭環境のあり方を含めその将来にわたる福祉的視点では捉えきれないでしょうし、児童心理自体についても十分とは言えないと思うのです。被害者の代理人となって支援する国選弁護人制度が導入された一因も被害者、そして児童自身の立場に立って見ることができる面接者が必要だと思うのです。

 

こういった日弁連の意見は今回の導入では採用されませんでしたが、司法面接が導入されたこと自体は、児童にとってプラスになると思います。そしてすでに動き出した司法面接制度、今回のケースを参考にして、よりよいあり方をそれぞれが模索していくことで、よりよい改善が見られるのではないかと期待したいと思います。

 

それには、折角司法面接で可視化して記録に残したわけですから、個人上保護を確保しながら、このDVDにより研修を積み重ねるなどして、面接者の質問のあり方、その評価の仕方などを関係者、それは今回の3機関にとどまらず、児童心理や家庭環境に詳しい専門家の関与を得て、研鑽を積んでもらいたいと思うのです。

 

たしか捜査の可視化を進めてきた英米?では、可視化されたDVDを通じて研修を重ねることなどにより、質問の改善など、捜査方法自体が効果的になったという話しを聞いたことがありますが、そのとおりだと思うのです。

 

今日はこのへんでおしまい。また明日。


空海に学ぶ(2) <愚童持斎心>と<手伝い「手帳」で習慣化>を考え見る

2018-02-04 | 空海と高野山

180204 空海に学ぶ(2) <愚童持斎心>と<手伝い「手帳」で習慣化>を考え見る

 

今日は吉村均著『空海に学ぶ仏教入門』を通じて学ぶ2日目です。昨日は空海の『十住心論』を一応、第1から第10まで毎日一つずつ学んでいこうと思いまして、吉村著書の第一「異生羝羊心(いしょうていようしん)」を考えてみました。

 

「羝羊心」について吉村著作では具体的にこうだとは言っていませんが、羝羊とは羊ないし牡羊のことだそうです。なぜ牡羊をあえて取りあげるのかわかりません。だいたい当時わが国にはほとんど生息していなかったのでは?キリスト教や拝火教の影響があるのかしらと思うのですが、どちらにしてもこの心の正体は好ましいものではないことは想像できます。

 

牡牛の心で異生の世界にあるということでしょうか、欲望にとりつかれ、追い求め暗闇を彷徨っているイメージなんでしょうかね。そういわれれば、ま、私の人生も半面、そうかなと頷いてしまいます。自分はしっかりと事実を認識し、自己の判断基準の正当性を求め、その天秤棒をうまく采配しながらぐらぐらしつつも、それなりの安定を保って表面的な「正義」の世界に生きてきたように思いつつ、それは吉村氏を通じて空海からすれば、異生の世界に埋没しているだけかと、言われそうで、言われれば納得してしまいそうな自分がいます。

 

さてそろそろ2日目に入りたいと思いますが、第二は「愚童持斎心」(ぐどうじさいしん)です。吉村解説だと、「善をなし悪をなさない心」ということらしいです。

 

第一では、欲望のままに生きている、それが苦痛、苦悩の根源となっている趣旨、さらにいえば悪を行うことであったかと思います。しかし、第二では、その悪と善は絶対不変ではない、「きっかけがあれば人は変わりうる」というのです。

 

そんなうまくいくかと自分の人生を顧みたとき、いい加減な部分がすぐ思い出せるのですが、意外と人間変われるものだと思うことも思い出されます。学生時代のある頃からは学問にも関心がなくなり、多少はキリスト教に関心を持ちながらも、人手不足で就職も容易だったのに大学出ても彷徨を重ね、毎日飲酒を続け、さまざまな趣味というか娯楽というかに手を出していた自分がいましたね。何を求めていたか、いまとなっては明らかではありませんが、ともかく司法試験の受験を目指そうと考えたときから、断酒や趣味断ちをして、かなり節制し生き方に変わった記憶です。

 

たしかにきっかけがあれば人は変わるのは私自身体験で感じます。ただ、それがほんとに良い方向かどうかは、塵のように大自然の中に取り込まれ、その後だれかがどう評価するか、いやなんらかの形で再生して新たな生を生きる中で判断されるのか、わかりませんね。

 

人が変わりうることについて、吉村氏は「習慣」を大事にして次のように述べています。「そのように欲望のままに振舞っている者も、何かのきっかけでよいこと、たとえば、自分が食べる量を控えて、それをお腹をすかせている他の人に分け与える、ということをおこなったりすることがあります。それを二度、三度、と繰り返し、それに慣れてくると、その人の考え方も次第に変わっていきます。」と。

 

そして空海の説明を引用して、いま私たちの目の前にある冬の枯れ木も時節が来れば芽がでて、葉が繁り、花が咲き、実がなる、そのように生死流転を繰り返すといっているように思うのです。

 

それは本性自体が固定した存在ではなく、外の光、あるいは外の仏性で、内面の仏性が生まれるというのでしょうか。

 

ただ、この生々流転というか、輪廻の世界は、あまりにすごい選択を迫られるものなんだということが、「釈尊の前世物語」、「捨身飼虎」(しゃしんしこ)を通じて解説されています。教科書にも掲載されている法隆寺の玉虫厨子に描かれている場面で、教師がどのように教えているのでしょうね。単純に生死を繰り返すのではないわけですね。

 

母虎と子虎が飢えに苦しみ、母虎は乳を欲しがって近づいてくる子虎を食べないと生きていけないし他の子虎を生かすこともできない絶体絶命の場にいるわけですね。そのとき釈尊は自分の命を投げ出し、母虎に食べさせ、母子の命を救い、再び生まれ変わって、他の生き物のために尽くす、それが「利他」であり、「成仏」ということのようです。

 

天台宗など多くの仏教徒は、「利他」を基本的な行いとしているように思うのですが、ここにいう「利他」となると、ちょっと縁遠い感じになりますね。過去そのような仏教徒が一体、何人いたのでしょうね。一遍さんなんかはそのような面影を感じなくもないですが、どうでしょう。法然・親鸞も、栄西・道元、日蓮という鎌倉新仏教の担い手も、ちょっと違う印象です。

 

ま、釈尊は別格ですので、それは本尊として大事にするとしても、僧侶でも容易でないのに、一般人はもう少し易行を提供してもらわないと、ますます近づきがたいことになりかねませんね。

 

吉村氏はこの点、「よいことも悪いことも慣れによる、これが仏教の考え方です。」と、とてもスムーズに入っていけそうな解説をされます。

 

さらに利他の性格について「利他は義務としておこなうものではありませんし、義務としてできるものでもありません。」と断定しています。

 

しかも利他と自分の利益とはいわず幸せとの関係で次のように述べています。

「それは自分の幸せを捨てて他のために尽くす教えではなく、次第に心を訓練していって、他人の幸せを心から願い、それが実現した時に心の底から幸せを感じるようになってはじめて実践できるものなのです。」

 

ここには欲望と関連性の強い利益といったものから離れ、幸せというものを持ち出し、他人の幸せに尽くす心の訓練で、それが実現すると自分の幸せを実感できるというのです。なんともすばらしい考えのようにも思えます。

 

この習慣というものには、善とか悪とかの判断もないように思えます。習慣が人を変えるということを持ち出し、それが科学的に検証されるとか、仏教戒律がもつ心の訓練にも修練するとの見方を示しています。戒律の内容や在家の実践の話しが語られていますが、ここでは省略して、少し現代的話題を取りあげたいと思います。

 

今日の毎日朝刊に次の記事が掲載されていました。

子育て親子勉強、手伝い「手帳」で習慣化

 

はじめ見出しを見たとき、習慣化は生活改善に有効ですが、手帳でうまくいくかなという思いと、「手伝い」等でお金とか評価点をあげるということに疑問を感じて読み飛ばしていました。

 

わが家でも多少似たことをやったような記憶があります。子どもがお小遣いを欲しがるのはどこの家庭でもあるわけですから、親が子どもを望ましい方向に変えようとしたとき、あるいは良い習慣なり性格づくりを考えたとき、ある種近代的合理性があるようにも思えます。しかし、にんじんをぶら下げて馬を操るように、私には抵抗があり、一時的な出来事に終わった記憶です。

 

私は子どもには申告制のお小遣いを渡し、その収支表を提出させて、子ども自身が自主管理する方法を選びました。それがよかったかは、なんともいえませんが、かれらが現代の仮想通貨をはじめ複雑多様な欲望創出の世界でいかに自己コントロールを行って生き抜いていけるかはこれから試されるでしょう。

 

話しは元に戻りますが、「手帳」の記事、なかなか興味深いところもあるので、もう少し引用したいと思います。

 

手帳をどのように使うか、まさに習慣化の一つの手法でしょうか。

<「勉強しなさい」と何度言っても聞かない子どもに、一冊の手帳を与えてみよう。やるべきことを記入し、できたら赤ペンで消すだけの「子ども手帳」を使い続けると、日々の勉強やお手伝いなどが習慣化されるという。>

 

手帳の内容は、自分自身によるスケジュール管理ともいえます。現代の子どもはたいてい学校などから一方的に付与された計画・スケジュールをこなすことだけで、自分で考えようとしていない印象を受けます。しかし、この手帳は、社会人ならだれもが自主管理する必須の方法を身につける一つの方策かなと期待できます。たとえばその内容は次の通り。

 

<「プリント」「読書」「ふろそうじ」、そして何かの暗号?--。手帳の1日の予定欄に、ぎっしりと子どもの文字が書き込まれている。文字の上には赤い線。欄外に何かの計算式もある。これは子どもが自分のスケジュールを管理する子ども手帳。」

 

使い方として一般的な方法は結果にアメとムチの前者を中心に老いているようです。

<使い方は、見開きで1週間、または1カ月の予定が書き込める手帳に(1)やるべきことを書く(2)終わったら赤で消す(3)消した分だけポイント精算する--だけ=表。ためたポイントは「1ポイント=1円」の小遣いに交換する。学校や学習塾のプリント学習、皿洗いやごみ出しといったお手伝いで1ポイント。テストで満点を取ったり、習い事のそろばんで昇級したりしたら、ボーナスポイントを与える。>

 

習慣化がうまくいくと、ポイントではない新たな独自の目標が生まれる、そこに意味があるようです。

<手帳を始めると、初めはポイント欲しさで進めていくが、成績が上がって褒められるうちに自発的に取り組むようになり、3週間もすれば習慣化するという。「きっかけはポイントやお小遣いだが、自分の成長を感じて『内発的動機付け』に切り替わり、勉強も手伝いも継続するようになる。手帳は自発的な行動を促すツールです」。歯磨きのように、土日を含め毎日短い時間でもコツコツ続けることが大切だという。>

 

ポイントか新たな成績に結びつけるという、結果を常に意識するこの手帳方式、自己管理手法としては一定の有効性をもつと思うのですが、崇高な第二心の心とは異なりますね。とはいえ、意外とこの習慣化が努力研鑽、臥薪嘗胆などで、純粋で崇高な思想を自分の心に形成させることができるかもしれません。それは甘い夢かもしれませんが・・・・